Notes of Life

孤独とは慣れるのではなく、利用するもの

2017年9月16日
老人

人は子供の頃から「たくさん友達を作ろう」「人付き合いを大事にしよう」といったことは教えられても、「孤独を楽しみましょう」「一人の時間を大切にしましょう」といったことはほとんど教えらない。

学校=友達。

青春=友達。

良い人の条件=友達。

友達の数こそ人徳のバロメーターみたいに語られるから、「何が何でも友達を作らなければならない」「交友の少ない私はダメ」みたいな強迫観念にかられ、物理的にも精神的にも一人で居ることに耐えられない、友達依存症みたいな人間を生み出すのではないかと思います。

しかし、考えてみよう。

現実に、100人の友達がいるとして、その100人とまめに連絡を取り合ったら、人はいつ学び、考え、自分の中で醸成する機会を持つのだろう?

朝から晩までメールや電話で連絡を取り合って、SNSにも返事してたら、受信のチェックと書き込みだけで一日が終わらないか?

もちろん、友達は大切です。

ちょっとした気遣いのメール一通で、相手を幸せにすることもあれば、新しい何かが始まることもあります。

でも、多くの場合、友達付き合いというのは、それなりの時間と距離を要するものであり、その一人一人と密に付き合おうと思ったら、一年365日では足りません。

自分の用事もしないといけない、叔父さんの見舞いにも行かなければならない、あの本も読みたい、映画も観たい、体力増強にジムにも行きたい……となれば、現実問題、何十人もの友達と密度濃く付き合えるわけがないんですよね。もし、それを優先するなら、自分の時間など一切もたない選択が必要です。

もちろん、人との交流によって得られるものは計り知れません。新しい発想や価値観はたいてい他人からもたらせるものです。

でも、それと同じくらい、自分の中で醸成する時間も必要。

その為には、少しいつもの日常から距離を置いて、海や山に出かけたり、本をじっくり読んだり、思い付いたことをメモに書き出してみたり。

そういう作業は、人とペラペラ喋りながらできるものではないです。

ところが「友達、友達」と、いつも誰かと一緒に居ることが人徳みたいに刷り込まれると、醸成に必要な一人の時間さえ罪悪に思えてくる。

自分だけが世間から浮き上がって、誰にも愛されないような被害妄想に陥り、とにかく誰かと一緒に居なきゃ……という強迫観念にかられるようになるんですね。

でも、相手にも生活がありますから、そうそう他人の相手などできません。

もっと話を聞いて欲しいのに、10分ぐらいで電話を切られたり、メールの返事が三行ぐらいだったり、素っ気なく感じることもあるでしょう。

それがまた「誰にも愛されない感」をいっそう深め、余計で他人にしがみついたり、自己嫌悪に陥ったり、しまいに世の中を呪ったり、悪い方に転がってしまうのだと思います。

その点、子供の頃から、一人の時間を楽しめる人は強いです。

「友達を作れ」と強制されることもなく、「友達のできないお前は駄目人間だ」とけなされることもなく、子供部屋でじっとジグソーパズルに耽っていても、「ああ、今、パズルが楽しいだな」と温かく見守ってもらえるタイプです。

一人の時間を楽しめる人は、「すごいこと」や「面白いこと」が自分の内側から来ることを知っているので、の不安や退屈を紛らわすために他人を必要としません。困難にぶち当たった時も、海に出かけたり、お芝居を観に行ったり、自分なりの処し方を知っているので、周りを巻き込んでワアワア大騒ぎしないのです。

友達も、お互いの空き時間に、会ったり、電話したりするだけで十分です。

自分の心の隙を埋めるために、しょっちゅう連絡を取り合って、愛情を確認することを必要としないからです。

ちなみに、『孤独』と『孤立』は似て非なるものだし、一人で過ごす術を知っている人が必ずしも社会から隔絶されるわけではありません。

猿山にたとえれば、『孤立』は、群れから完全に切り離され、近寄ってもボス猿に追い立てられたり、仲間の猿に苛められたり、やがて衰弱してしまうタイプをいいます。

『孤独』は、群れの中にありながらも、岩陰で黙々とノミ取りをしているようなタイプです。ノミ取りが終わって、心身共にすっきりすれば、再び群れに戻って、食物を仲よく分け合います。傍目には、「あの猿、一人ぼっちで可哀想に」と見えるけども、ちゃんと根っこの部分では繋がっているのです。

しかし、一匹の猿がノミ取りに専念するには、周りの猿社会に理解がなければなりません。

「あいつは今、ノミ取りに夢中なんだ。後でまた声をかけてやろう」という雰囲気ならいいですが、「あいつ、ぼっち臭が漂ってる(藁)」みたいな雰囲気では、どれほどメンタルの強い猿でもノミ取りに専念することはできません。良い結果を出すには、周りの理解も大きく影響します。

そんなの他の猿に取ってもらえばいいじゃん、と思うかもしれません。

でも、皆が皆、他の猿に「私のノミ取って、気分よくして下さい」と求めるようになれば、大変な負担です。その結果、心身のすっきりしない猿ばかりが集まれば、のどかな猿山も荒んでしまうでしょう。

こうした悲劇を避けるには、やはり群れの根本から価値観を変えていかねばならない。

それが不可能なら、せめて自分だけでも気を強くもって、己の内側で醸成できる物理的、精神的スペースを確保することです。

孤独というものが、悲しいものや恐ろしいものとして語られる時、それは往々にして孤立と混同されているはずだし、あなたが一人で居ても、世の大半の人は気にも留めないものです。

それよりも一人の時間や空間を大切にして、自分の内側から沸き起こるものを大切にする。

この世で一番脆いのは、不安や退屈の隙を埋める為に他人を利用する人です。

一人息子に捨てられた身寄りのない老人が、その孤独さからのがれるために、無差別に話相手を探さねばならない、というのは悲しいことである。(新聞にも福祉国家アメリカの養老員で、老人たちが「誰も私に話しかけてくれない」という遺書を残しては次々に自殺してゆく、というニュースが伝えられている)

しかも、何の共通性も持たない相手に向かって話しかけるためには、サービスとして何か話題を提供せねばならぬ、と知った老人の積極性というやつには、もっと悲しい何かがあろう。

≪中略≫

しかし、世の中からハミ出しかかっている跛の老人でもない限り、誰が話のための話に(無償で)つき合ってくれるものだろうか。古い蝙蝠傘にすがった嘗ての政治老年の(今では万引き常習犯の)親父が、雨の深夜のひろびろとした新宿駅で、殆ど演説するような洟声で、「俺はこんなに一杯、話のネタを集めてきたのに、誰も俺の話し相手になってくれないのか。誰も、誰一人も?」と哀願している様を思いうかべて、<バリカン>は思わず涙ぐんだ。オー・マイ・パパ。悲しい親父!

この引用には前置きがあって、ケストナーの『人生処方箋』に「年齢が悲しくなったら」という慰めの言葉が書いてあるけれど、「こんな列車の比喩で年齢の悲しさが、どこまで治療されるものだろうか」、「老人は(歳月を走る列車は、目的地へ着くことなし)などという詩句は町はしない。むしろ、西田佐知子が歌うように(どうせ私をだますなら、死ぬまでだまして欲しかった)という心で人生の処方を求めているに違いないのである」と続きます。そこからまた少し<バリカン>の情景が綴られ、「誰も俺の話相手になってくれないのか」と続く。

極めて現実的な話をすれば、年寄りの孤立感や虚しさを癒やすのは並大抵ではありません。若者には明日を生き直すだけの時間も体力もあるけれど、老人は弱っていく一方ですから。だから、せめて、自分で自分の心を癒やす術は持たなければならない。一人でも価値のある何かを構築する楽しみを知っておいた方がいい。でも、その為には、「友達100人が人生を豊かにしてくれる」という量的な強迫観念から自由にならなければならないし、一人の空間で自分自身と向き合う強さも培わねばならない。でも、そういう術は時間も体力も有り余った若い頃から磨かなければならないし、年をとってから他人を使って埋め合わせようとしても鬱陶しがられるだけ、という話です。

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