映倫のボカシがぼかした作品の本質 サイコホラーの傑作『羊たちの沈黙』

ヨーロッパに来ると、エロ系のボカシがなくなります。
(戦争ルポなどの残虐系ボカシはありますが)

ヘアも、男性器も、そのまんまお茶の間のTV画面にドーンと映し出される。

なんせ英国の由緒あるチャンネルでも、思春期の少年をスタジオに集め、ムキムキマッチョな全裸の成人男性が10人ばかりずらりと居並ぶ中で、「大人の男のペニスはこういうものです。大きいのや、短いのや、いろいろでしょう。だから君も、自分のペニスがおかしいのではないかと悩む必要はないのですよ」と優しく説明する科学番組があったりして、お国柄の違いを実感することしきり(あれは圧巻だった)。

おかげで、見たくもない俳優さんのイチモツを画面いっぱいに見せつけられ、何度目が点になったかわからない。

もしかして喜んでる? とか、思ってる人。

全然うれしかーないですよ。だって、私たち観客は、俳優さんの現実離れしたイメージに恋してるんですもの。それこそブルース・ウィルスのとか「勘弁して」って感じ。少女漫画の王子様が決してトイレに行かないように、ハリウッドの俳優さんにも腰から上だけのイメージを貫いて欲しいもの。アレは余計なんです……。

で。

ある日のこと。

深夜の番組枠で、アンソニー・ホプキンスの出世作となった『羊たちの沈黙』が放映された。

この作品は、謎の猟奇殺人事件に挑むFBI候補生の美女クラリスと、天才的な精神科医でありながら殺人を重ね、人肉嗜食の嗜好をもつハンニバル・レクター博士の推理を描いたもので、捜査の糸口を掴むためにレクター博士に接触したクラリスが、いつしか精神分析を受ける側となり、事件の解決とともに少女時代のトラウマを癒される過程が非常にドラマティックな力作だ。

シャープな頭脳をもつFBI候補生のクラリスはハリウッド一の知的美女ジョディ・フォスターが演じてアカデミー主演女優賞を受賞、映画史上に残るユニークなキャラクター「ハンニバル・レクター博士」を作り上げたアンソニー・ホプキンスも主演男優賞を受賞し、その後に続くサイコホラーの先駆けとなった。

トマス・ハリスの同名原作「羊たちの沈黙 (新潮文庫)」が秀逸なだけに、この作品の脚本も細部までよく練られており、まるで謎かけするように繰り出されるレクター博士の分析は「獄中のシャーロックホームズ」とでも呼びたくなるほど。

それに冷静に受け答えしつつも、少女時代のトラウマに心を痛め、こみあげる辛い思いをぐっと押し殺して捜査に挑むジョディ・フォスターの演技も印象的だ。

彼らが追うのは、若い女性を標的にした謎の連続猟奇殺人犯。殺害時、被害者の女性の生皮を剥ぐことから「バッファロー・ビル」の名前で呼ばれているが、その目的も居所も何一つ掴めず、捜査は難航していた。

クラリスの任務は、精神病院の地下に監禁されている天才精神科医レクター博士を訪問し、捜査の手掛かりを得ることだったが、逆にクラリスの人間性を見透かされ、けんもほろろに追い返される。ところが、囚人棟を出ようとした時、別の囚人に性的な嫌がらせを受けたことから、レクター博士は「お詫び」として事件解決のヒントを与えることを約束する。

事件の資料から導き出されたのは、レクター博士の元患者で、精神に異常をもつ若い男のことだった。

「犯人は性倒錯者である」と推理するクラリスに、レクター博士は言う。

「違う。彼は、幼少期の虐待がもとで、現在の自分自身を嫌っていた。彼の望むところは『変身』だ」

その後で挿入されるエピソードがこちら。

被害者の女性から剥いだ皮をなめし、「生き皮のドレス」を作る犯人が、『Goodbye Horses』というロックに乗って、女装して鏡の前で踊る場面だ。
同時に、地下室の井戸に閉じ込められた新たな被害者キャサリンが、音楽が大音量で流れるスキを狙って、犯人の愛犬を人質に取ろうと試みる。

ここで重要なのは、「残虐な殺人嗜好」「性倒錯」を仮定する捜査班に対し、レクター博士の「現在の自分自身を嫌い『変身』を望んでいる」という推理が正しいことを証明している点だ。

そしてまた犯人は、自分で性同一障害だと思い込んでいるが、診断はそうではなく、犯人自身も自分の心の問題を理解していないという背景もある。

男は化粧をし、女性の皮で作ったカツラをかぶって、女のようにダンスをしてみせる。

その時、上半身をかがめ、両手を身体の手前にやってゴニョゴニョするのだが、これが一体何を意味するのか、日本で見ていた時はまったく分からなかった。

しかし、海外に来て、ボカシのない映像を見た時、その意味がやっと分かったのである。

女の皮をかぶって恍惚とするバッファロー・ビル。
視聴には年齢制限があります。ご注意下さい。

そう、犯人は、男性のシンボルを足の間に挟み込み、外見を女性器のように見立てて陶酔していたのだ。

日本では局所にボカシが入っていたため、何のことだか分からなかった。

ボカシなしのオリジナル映像で、ペニスがすっぽり隠れたバミューダトライアングルのような股間を見て、レクター博士の分析を裏付けるとともに、犯人の「変身願望」を物語る重要な場面だということがやっと納得いったのである。

映倫のバカ

あのボカシがなければ、レクター博士の分析をもっと深く味わうことができたのに。

日本の法律上、仕方ないこととはいえ、なんか損した気分だった。

映画の本質を理解するのに必ずしも局部の描写は必要ないけれど、ぼかすとかえって不自然な場面もあるし。

そのせいか、海外で、完全・無修正のオリジナル映像を見ると、新鮮に感じることが多い。

最近では、スタンリー・キューブリックの『シャイニング』で、殺人のあった客室を訪れた父親のジャックが、浴室から出てきた全裸の美女に誘惑される場面があったけど(もちろんゴースト)、やはり無修正の映像を見ると、美女の造形がなまなましくて、股間にぼかしの入ってる日本版より気持ち悪かったものね・・。

『ヘア解禁』に関する見解 Wikiより

日本ではかつて映像における陰毛表現がみとめられておらず、自主規制団体により一律ぼかしがかけられていた。この自主規制は1990年代に実質的に緩和されたが、その後も性行為描写のあるシーンでは原則ぼかし処理となるなど、未だ完全解禁に至っていない。「ヘア無修正版」はこのような規制がどの程度かかっているかについてメーカーから消費者への情報開示と見ることができる。(ただし、これらはあくまで業界の自主規制にすぎず、法律上、わいせつ物にあたると警察当局が判断すれば、その頒布・販売・上映等はわいせつ物頒布等の罪として摘発されうる。)
なお、ヘア無修正版はあくまで「ヘア」無修正であり、いわゆる「無修正版」ではない。そのため、性器が直接写っているカットなどでは通常通りのぼかしがかけられるほか、カットによってはヘアまでしか写っていなくともぼかしがかかっていることもある。
当然だが、ヘアにぼかしがかかっていない作品は必ず「ヘア無修正版」とつけなければいけなルールがあるわけではないため、この表現はあくまでヘアが見えれば商品性が大きく上がる作品につけられる売り文句である。

とはいえ、ヘアや性器のモロ映しはあまり気持ちのいいものじゃない。

日本人的感覚では、かなり理解力のついたハイティーンが見てもどうかと思う。

でも、時にはそれが本質を物語っていることもある。

目をそらさずにみつめることで、開ける哲学もあるはずだ(……どんな??)

もしかしたら映倫のボカシこそ日本のグローバル化を阻む真の要因かもしれないのだから。

映画好きは、ぜひとも海外に出かけて、一度は「完全・無修正のオリジナル」をご覧になることをおすすめする。

P.S

本作の、犯人の「変身願望」を表すアイテムは『蛾』である。この男は自宅に大量のマユを飼って蛾を孵化させ、被害者の喉の奥にも押し込んでいた。映画のポスターのジョディの口に『蛾』が描かれている所以である。この蛾の背中にはガイコツ似た紋様がある。

羊たちの沈黙

関連アイテム

女性を誘拐し、皮を剥いで殺害する連続殺人事件の捜査を任命されたFBI訓練生のクラリス。彼女に与えられた任務は9人の患者を惨殺して食べた獄中の天才精神科医レクター博士に協力を求め、心理的な面から犯人に迫ることだった。レクター博士は捜査に協力する代償に、彼女自身の過去を語らせる。息詰まる心理戦の果てに導き出された答えとは──?

「羊たちの沈黙」の大ヒットに続いて、似たようなサイコホラーが幾つも制作されたけど、やはり本作を超えることはできなかった。
緻密なプロットといい、映画史に残るキャラクター「ハンニバル・レクター博士」といい、まさにサイコホラーの金字塔といっても過言ではない。

加えてジョディ・フォスターの完璧な役作りも見逃せない。元々の知的な雰囲気に「見栄っ張りの田舎娘」「心に深い傷をもつ少女」という隠れた側面を味付けし、「どこか脆さを感じさせる美人の優等生」を見事に作り上げている。

またこの作品はレクター博士とクラリスの淡い恋心が織り込まれていて、それは続編の「ハンニバル」でより前面に押し出されるのだが、「恋」の描き方としてはやはり本編の方が秀逸。

バッファロー・ビルに誘拐された上院議員の娘キャサリンを救い出すために、精神病院の地下囚人棟から町中のビルに身柄を移され、大きな鳥かごのような檻に監禁されたレクター博士が、クラリスに捜査資料を渡す時、本来、絶対に触れ合うことのないクラリスの指に優しく触れる場面が、まるで恋人の愛撫のようになまめかしく、かつ悪魔に魅入られた花嫁のように怪しい雰囲気を醸し出しているからだ。

レクター博士にとって愛の表現とは、おそらく「食べること」。その肉を食して一体になることがレクター博士の究極の愛の姿としたら、クラリスの肉体こそ至上の存在であり、それこそ「食べたいくらい、いとしい」はずなのだが、現実には叶うはずもない。

そう考えると、あの一瞬の触れ合いが、レクター博士にとってはセックスにも等しい恍惚の瞬間であり、触れられたクラリスにとっても(彼女は恐らく処女であるか、あるいは少女期に性的いたずらをされた可能性がある)、心と身体の壁をすり抜け、自らの処女性を侵されるような体験だったと思うのだが、それを体感するには、クラリスはあまりに精神的に稚く、性にも頑な、といったところ。

ちなみに、続編の小説「ハンニバル (新潮文庫)」では、この二人、肉体的にも結ばれて、本物の恋人同士になっちゃうんですね。

それはあんまりでしょ! と思って、私はまともに読めなかったけど。

やはりレクター博士とクラリスは、精神でのみ結ばれた禁断の恋人同士というか・・クラリスは、レクター博士にとって、永遠に手に入らない愛の憧憬であって欲しかったです。

ちなみに、この映画がブレイクした後、原作のモデルになったといわれる『FBI心理分析官―異常殺人者たちの素顔に迫る衝撃の手記 (ハヤカワ文庫NF)』がベストセラーとなり、著者のロバート・K. レスラーが某局のワイドショーで殺人事件のコメンテーターとして引っ張りだこだったのが思い出される。今頃、どこで、どうされているのか・・(一番印象に残ってるのがアメリカの美少女ジョンベネちゃん殺人事件)

ハンニバル・カニバル(人食い)・レクター博士は、イタリアで芸術を学び、エスプレッソをすすりながら、優雅に暮らしていた。一方、ジョディ・フォスターに代わってジュリアン・ムーアが演じるFBI捜査官クラリス・スターリングは、あまり恵まれた境遇にない。当初からアウトサイダーのクラリスは、お役所的なゲームに身を置くことのできないむっつりした一匹狼となっていて、そのために苦しい立場にいる。さらに、麻薬取引の手入れの失敗で左遷の憂き目にあい、そこへレクター博士の犠牲者唯一の生き残り、メイスン・ヴァージャー(ゲイリー・オールドマン)に呼ばれてちょっとした質問を受けることになった。レクター博士にそそのかされて自らの顔の皮をはいだヴァージャーの顔面は、恐ろしく変形している。クラリスは、彼がレクター博士をおびきだすためのエサとして自分を使おうとしていることなど、露知らなかった・・・。

作品への不服からジョディ・フォスターが出演拒否し、ジュリアン・ムーアがクラリスを演じた本作。
「羊たちの沈黙」とはかなり趣の異なる作品に仕上がっており、評価が分かれるところ。
私もあんまり好きじゃない。上記の理由からキスはせんで欲しかった。(実際にはしてないけども、しようとしたとこで興ざめ)
あくまで続編が気になる人向き。

これはイマイチでした。
最近、ビギニングものが流行ってるけど、「ジョディー・フォスター=クラリス」の世界観を大事にもってる人は、あくまで別物として見た方がいいです。

ちなみにエミネムがパロってます。これ、いい曲だよ。


初稿:2012年1月30日

映画のトレーラー

Photo:http://qz.com/615568/the-feminist-failure-of-silence-of-the-lambs/