映画『SHAME -シェイム- (恥)』愛してはならないものを愛した時

本来、『恋』や『愛』というのは、この世の規範や常識を超えたものだ。男が男を、女が女を、妻子や婚約者のある人を、親子ほどに年の離れた人を、血の近い人を、立場的に禁じられている人を、思いがけなく好きになってしまう気持ちはどうしようもない。「止めよう」と決めて止められるものならそれは恋ではないし、本気で恋してしまったら、それは神様でさえ引き裂くことができない。人が人を求める気持ちに理屈などないのだ。

しかし、皆に祝福される恋と異なり、この世でタブーとされる恋は背徳に通じる。

不倫だ、セフレだと開き直っている人は別として、ごくごく普通の、ありふれた魂の持ち主が愛してはならないものを愛したとしたら、たいていの場合、良心や常識の狭間で苦しみ、自分の存在そのものが『恥』に感じられるものだ。

人は、タブーを犯したものに対して、世間がどれほど酷い仕打ちをするか経験で知っている。

そしてまた、徳や常識を重んじ、「普通に生きたい」と願っている人にとって、それに相反する気持ちは不全以外の何ものでもない。

恋の悦びと背中合わせの激しい罪悪感に、それこそ心が焼けただれるような苦悶を味わうだろう。

もっとも、今は、同性愛にも社会の門戸が開かれ、エルトン・ジョンやジョディ・フォスターのような有名人がカミングアウトしても、世間もいちいち驚かなくなっているし、年の差の大きいカップルや王族と平民の身分差婚も全体には「個人の自由」として受け入れられている。相手が「他人」である限り、まだ救われる部分がある。

しかし、これが「兄妹」となれば、様相は大きく異なる。

大昔なら兄妹婚も珍しくないが、現代社会においては絶対的な禁忌の一つである。

そんな兄妹の複雑な結びつきを描いたのが映画『SHAME(恥)』。ハリウッドの新鋭スティーブ・マックイーン監督(かの名優と同姓同名!)と注目の若手俳優マイケル・ファスベンダーが描く抑圧された愛の物語だ。

その激しい性描写から、アメリカでは最も厳しい上映規制NC-17が付けられ、日本での公開も危ぶまれた本作。

主人公が「セックス依存症」ということもあり、どんな激しいヌレバが出てくるのかと期待して(?)見たら、イマドキのハリウッド水準。エロさで言うなら「ナインハーフ」や「危険な情事」の方がよっぽど刺激が強かった。NC-17が付いたのは映画の宣伝か? と勘繰ってしまうほど。愛の場面というよりはスポーツ・ライクなので、ちっともいやらしくない。(正直、犬の交尾を見るような感じ)

それより、洗練されたビジネスマンであるブライアン(=マイケル・ファスベンダー)がやり場のない欲望に苦しみ悶え、トイレで一発、娼婦と一発、高級ホテルで一発、と、果てしない性の無間地獄に堕ちてゆく様が痛々しかった。

セックス依存症」という言葉から、「風俗やAVが好きなお兄さん」を連想するかもしれないが、これはれっきとした依存性の病気で、アルコールや薬物がもたらす解放感や万能感をセックスに求め、そこから抜け出せなくなる。アダルトサイトの「もっと見る」リンクをクリックしたら変な請求書が来ちゃって・・と溜め息ついてるAVウォッチャーや風俗大好きな旺盛クンとは訳が違うのだ。
 参照URL→【眼光紙背】どうしてもセックスがやめられない人たち

私もそんな人に出会ったことがないし、勉強したこともないので、どこからがセックス依存症で、ただの好きモノとどこがどう違うのか説明することは出来ないのだけれど、あえて言うなら、「罪悪感が伴うか、否か」この一点ではないか、と思う。

たとえばAVウォッチャーや風俗ファンは、「エッチなことばかり考えて恥ずかしい」という気持ちは多少あるかもしれないが、彼らは根本的に自分の欲望に罪悪感は持たないし、「今月風俗に10万円使ったから、来月まで我慢しよう」のように自己をコントロールすることができる。

でもセックス依存症は、求めずにいない自分を嫌悪し、そこから抜け出したいと願っている。「旺盛な性欲」ではなく、ストレスの結果としての興奮なのだ。

そして『SHAME』のブランドンは、有能でスタイリッシュなビジネスマンにもかかわらず、孤独で、こうした苦悩を誰にも打ち明けることができない。ただひたすら、やって、やって、やりまくる。永遠に飢え渇いた砂漠の花がそうであるように、どれほどエクスタシーを得ても満ち足りることがない。

そんな彼の元に転がり込んできた妹のシシィ。恋愛依存症の彼女は、別れた男にすがるように電話をかけて「あなただけなの」と泣きじゃくる。そうかと思えば、酒の勢いでブランドンの上司とセックスしたり。

そんなシシィの存在に苛立ち、ブランドンは冷たく突き放そうとするが、事態は意外な方向へ展開して行く。

最後には、観客もブランドンの秘められた苦悩を知るのだが、正直、批評家が絶賛するほど心に迫らなかった……というのが私の感想。

ただ単に作品と相性が悪いだけかもしれないが、もう少し説明を加えてもよかったのではないか、と。

映画の中では、ブランドンとシシィの過去について一切語られないし、シシィの兄に対する気持ちも左腕に残る無数のリストカットの跡だけで、躊躇いも希求もほとんど感じられない。それはブランドンも同じで、「人生の恥」であるシシィに対して、もう少し葛藤が描かれたら説得力があったのではないだろうか。

たとえば、物語のターニングポイントとなるこの場面。ブランドンが居間のソファに腰掛けて白黒の子供向けアニメ(もしかしたら幼い時に観ていた?)を観ていると、シシィが隣に座って「抱いてくれる?」と甘える。彼はすぐに彼女の肩を抱き、しばらく一緒にアニメを観ているが、突然、ブランドンが上司と寝たことについて怒り出し、「ここから出て行け。被害者ぶるな」と迫る。するとシシィも売り言葉に買い言葉で言い返し、ついにはブランドンが部屋を出て行ってしまう。

ところがこの会話の解釈が難しい。二人の過去が一切語られないだけに、屈折した思いは現在進行形なのか、あるいは忌まわしい思い出として今も彼らを苦しめているのか、釈然としないからだ。それなら妹に何の意識もなく、ブランドン一人が妄執に振り回されている方が分かりやすいのだが、この妹もいまいち何を考えているのか分からない、それだけにクライマックスが意外と呆気なくやって来るのが気になる。主演のマイケル・ファスベンダーは熱演だし、妹役のキャリー・マリガンも決して悪くはないのだけれど、ちょっと解釈を観客に委ねすぎかな、と。

たとえば、シシィと上司が隣の部屋でセックスを始めて、ブランドンが夜の町に飛び出す場面。「男の嫉妬」というよりは「ふしだらな妹に対する純粋な兄の怒り」という印象が強く、ブランドンはただ単に素行の悪い妹に頭を悩ませているだけ、とも取れなくもない。誰だって、隣の部屋で自分のきょうだいがおっぱじめたら出て行きたくなるし、それならもっと、妹に対する性的妄想を掻き立てるようなエピソードがあった方が分かりやすいからだ。

せっかく「兄妹愛」という禁断のテーマに挑んだのだから、もうちょっと狂おしい、胸の苦しくなるような心理描写があってもよかったのではなかろうか。ついで言うなら、キャリー・マリガンは「スレた姉ちゃん」という感じで、兄の保護本能や男の性欲をそそるタイプに見えないのも惜しい。なんか、妹のだらしなさに怒っているみたいで、本当にこんな妹相手に欲情するものかな、と、不思議に思ったり。

……というのは、あくまで私の印象であって、きちんと監督の意図通りに解釈できた人には「ゴメンナサイ」です。

ともあれ、マイケル・ファスベンダーの役者としての魅力が全開した本作品。彼の元には世界中の監督からオファーが舞い込み、今後の活躍に期待したいところ。

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