毒親にさよなら! 娘の自立を励ます映画『塔の上のラプンツェル』

2017年9月15日映画, 毒親と子供

毒親とラプンツェル

魔法の長い髪をもつラプンツェルと盗賊フリン・ライダーの恋と冒険を描いたディズニー映画『塔の上のラプンツェル』。

私も見る前はほとんど期待してなかったのですが(CMを見ても、あまりそそられるものがなかった)、この脚本は非常によく研究していると感心しました。

何の研究かといえば「毒親(特に母親)と娘」の関係です。

「人生の毒となる支配的な母親」と「服従せざるをえない娘」の心理的な葛藤は海外でも問題視されていますね。
↓日本でもベストセラーになっているのがスーザン・フォーワードさんの本。

そういう面で、この脚本を練るのは、相当に気遣いがあったのではないかと推測します。

何と言っても、子供向けの作品でしょう。

あまりにドロドロした表現をすれば子供が怯えるし、親の目から見ても不快。

かといって曖昧な描き方をすれば、「どうしても塔の外に出たい」というラプンツェルの動機から説得力がなくなてしまう。

また、100パーセント、ランプンツェルの視点に立って描けば、「娘を心配する母親」としてのママ・ゴーテルはただの怪物でしかありません。大人が見れば、ゴーテルお母さんの「あなたの為」に本物の愛情がないのはすぐに分かるけど、子供の目には「お母さんの心配は正しい」と映らないと、どうして途中でラプンツェルが誤りに気付き、「どんなことをしても抗う!」と叫ぶ気持ちの移り変わりが理解できないからです。

一歩間違えば多くが不愉快に感じ、子供もいっそう混乱してしまうデリケートなテーマを、重すぎず、言い過ぎず、上手にまとめられた良作だと思います。

これは母親視点でも非常に考えさせられる映画ではないでしょうか。

毒親とは何か

ここでは「毒親」を「母親」、「子供」を「娘」に統一して書きますね。

私の解釈でいえば、毒親というのは、自身の願望や葛藤や不満を「あなた(子供)の為」に置き換えて、子供を通して自我を達成しようとする人間のことを言います。

非常に典型的な例を申せば、夫の家系も自身の家系もエリート揃い、だからあなたもエリートでなければならない。子供が「どうして私も○○大学に行かなければならないの」と疑問を呈せば、「あなたの為よ。将来、笑いものになりたくないでしょう!」と理屈で言い聞かせる。でも、笑いものになりたくないのは自分自身なんですよね。その本音を「子供の為」に置き換えて、「○○大学に行かないと、こんな悲惨な目に遭う」「今勉強することがあなたの将来に役立つ」みたいな、もっともらしい理屈をいっぱい持ち出して、子供の疑問や反抗心を奪い取り、自分に服従させ、子供の本心や人生がどうなろうと、自分の思う通りになりさえすれば満足する、子供から見れば、まさにモンスターとしか言い様のない母親のことです。

それも本物のモンスターなら顔形がオバケみたいだから抗いようもある。「このパンサー・クローめ! 正義の剣を受けてみろ」みたいにね(おばちゃんだからネタが古いの、許してね)

でも、毒親は、優しい仮面を被ってる。言う事も、もっともらしい。

人生の敵か味方か、分からないのです。

だから、子供は混乱する。

「何となくおかしい」と思っても、お母さんは世界を象徴する正義であり優しさだから、従う以外になくなるのです。

ラプンツェルでも、「十八歳の誕生日に、どうしても空飛ぶランタンを見に行きたい」と懇願する娘に対し、ママ・ゴーテルは高らかに歌って聞かせます。

♪♪
あなたはとてもか弱いの。

わかるでしょ。なぜ外に出さないか。

あなたを守ためなの。

信じて、あなたの為なのよ。

信じなさい。お母さまを。外は危ないわ。
信じなさい。危険なものがうようよしてる。

ああ、怖いわ、心配なの。

ここにいれば守ってあげる。何があろうと。

すべて解るのよ、母親は

あなたはまだ赤ちゃん。大人じゃないんだから。
泣き虫、裸足、
幼稚で、ドジ、
えじきになるわ

世間知らず。すぐ騙される。常識なんかゼロ。

だから言う事を聞くのよ。♪♪

ラプンツェル

毒親というのは、巧妙に娘の欠点を突き刺すんですよ。

どんな娘でも、思春期にもなれば、「自分は友達に嫌われているのではないか」「他の子に比べて努力が足りないのではないか」「どうして忘れ物ばっかりしちゃうんだろ」「ほんとは可愛くないのかも」、、等々、自分の欠点や友達との優劣を気にするようになります。

そんでもって、十代というのは「人間なんて、みなこの程度」というのが分かりませんから、どうしたって「完璧なもの」を胸に描いてしまう。それと自分自身を比較して、嫌われるのではないか、失敗するのではないかと、恐れているものです。

ところが、毒親はその弱みを巧妙に突いて、子供を無力にし、子供自身が生きる力や考える力を獲得する前に、自分に服従させるんですね。「私の言う通りにすれば間違いない」「あなたの考えより、お母さんが正しい」と。

そして、子供はやっぱりお母さんが好き。

我が母親に疑問を持ちたくない。

その流れで、母親の主張も無条件に受け入れてしまう。

そして本当の自我は抑圧されて、オカシクなっていくんですよね。

だから、結果はこうなる。

「お母さまはいつでもあなたの味方。塔の外に出たいなんて、もう言わないで」

ラプンツェル

「はい、お母さま」

ラプンツェル

そして、娘が「はい」と頷けば、「あなたのこと大好きだから。誰よりも一番好きよ。信じて、すべては、あなたの為」と、その時だけ愛というご褒美を与え、操作するんですね。

ほんまに悪魔みたいな母親ですけど、子供にはそれが分からないんです。だって、自分の大切なお母さんだから。

このママ・ゴーテルは、娘の長い髪に宿る魔力から永遠の若さを得ています。娘の髪が失われたら、自身の美しさと若さも失われてしまう。だから、娘を塔の中に閉じ込め、反抗や疑問の機会を奪っています。

そんな娘と一緒に鏡を覗き込んで、うっとりしながら言う。

「見てご覧、何が見える? 若くて、自信に満ち溢れた、若い女性」

これ、ラプンツェルに言ってるように見えて、実は自分自身に言ってるんですね。

たとえるなら、娘が有名私立学校に合格する。周りが娘に「○○校に合格、すごいね!」と褒める時、自分が褒められたような気分になるのね。周りの皆が「花子ちゃん、ブランドのワンピースを着て可愛いね」「花子ちゃん、今度の舞台で主役なの。踊りが上手なのね」と言われたら、それは自分への褒め言葉なのね。

そういう気持ちは、どんな母親の中にも多かれ少なかれあると思います。私も娘が褒められたら「エヘヘ♪」って気持ちになります。

でも、毒親は、完全に自分しか見てない。

隣で娘がどんなに傷つこうが、苦しもうが、気付きもしない。

こんな素晴らしい子供を育て上げた自分自身にうっとりしてる。醜悪なナルシズムです。

娘の手柄は、私の手柄。娘の美しさは、私の美。

娘のもつ才能や美しさや気立てのよさを全て自分の懐に吸い取って、母親だけが嬉々と人生をエンジョイするのが毒親ライフです。

ラプンツェル

ラプンツェル

だから、毒親は、たまに娘にえげつない事を口にします。

『私、そういうの大嫌いなの。ぺちゃぺちゃ、まったく腹が立つ』

そして、その後で、『冗談よ、可愛いわね、あなたのこと、だ~い好きよ』と、取って付けたように褒める。

だから、娘にはどちらが本当か分からない。けなされているのか、愛されているのか。

このラプンツェルの戸惑いの表情が非常に秀逸。こういう描写に制作者の洞察の深さを感じます。

ラプンツェル

ラプンツェル

そんなラプンツェルも、偶然、塔の中に忍び込んだ奔放な盗賊フリン・ライダーに刺激され、とうとう自身の力で塔の外に脱出します。

この場面で歌われる歌詞も、非常によく子供の心を映していると思います。

『これが自由、何て素敵。
とうとう外に出たわ。信じられない。
お母さまはきっとかんかんね。 
でも別に構わない。バレなきゃ平気だもん』

ラプンツェル

意気揚々と歌った後で、

『ああ、どうしよう、おかさまが悲しむわ。
私って、ひどい子よね。戻らなくちゃ』

と、死ぬほど自分を責める。

ラプンツェル

そして、再び自分を肯定する。

『いいえ、絶対に戻ったりしないんだから』

ラプンツェル

だけども、やっぱり、こうなってしまう。

『私、本当に最低の人間よ』

ラプンツェル

傍から見れば、「どうして、そんなに自分を責めるの?」「イヤならイヤって、はっきり言えばいいじゃん、自分の人生じゃん!」

しょうもないことに葛藤しているようにしか見えないと思う。

でも、これが毒親に支配された子供の心理です。

本当は抗いたい。お母さんのやり方は、どこか変で、間違っていると感じてる。

でも、実際に抗えば、その後、恐ろしいほどの後悔と自責が待っている。

なぜか。

根本的に、母親に愛情と信頼を抱いているからです。

だから、反抗することに罪悪感を覚えるんですね。

これ、本人にはとても恐ろしいことです。

ラプンツェル

そんなラプンツェルにフリンは優しく言います。

『君、自分の心と戦ってるんだね。
あまりに過保護な母親と許されない旅。
でも思い詰めることはないさ。
大人になる道なんだ。

ちょっとした反抗、ちょっとした冒険。
いいじゃないか。健全なことだよ。
君はちょっと考えすぎてるんだ。
親がそんなに大事か?
もちろんお母さんの胸は悲しみで張り裂けるだろう。
だが、君はやらなきゃならないんだ

これが、この作品の核になっているメッセージですよね。

ここに作り手の願い、励まし、全てが詰まっていると思います。

この一言で、ラプンツェルも100パーセント全開とは言わないけれど、冒険への第一歩を踏み出します。

そして、様々な出来事を経て、ついにラプンツェルは自分が赤ん坊の時にゴーテルにさらわれたプリンセスだと悟ります。

ここで、ついに母娘の対決。

『私は消えたプリンセス!』

『すべてはあなたを守るためにしたこと』

ママ・ゴーテルが守りたかったのは、ラプンツェルの幸福ではない。
 
自分の満足とプライドですよね。

こんな場面でも自己の正当性を主張し、決して間違いを認めようとはしません。
 
そんなラプンツェルは一生分の勇気を振り絞って言います。

『生まれてからずっと隠れて生きてきた。
私の力を利用しようとする悪い人たちから。
でも、私を利用していたのは、あなただった。

外は怖いなんて、みんな嘘だった。

あなたにはもう二度と髪の力を使わせはしないわ!』

ここでいう「髪の力」を、「私自身(娘自身)の実力」「美しさ」と置き換えれば、分かりやすいでしょう?

つまり「お母さん、二度と私の恵まれた素質と実力を、あなた自身の栄光の為に利用しないでちょうだい」という叫びです。

ラプンツェル
するとママ・ゴーテルは言い返す。

私を悪者にしたいのね

そう、これが毒親の究極の詭弁であり、逃げ口上です。

つまり、「親を悪いと責める娘」こそ「悪者」と責め立てる。

母親が「私を悪者にしたいのね」と嘆くことは、子供に罪悪感を抱かせ、それ以上の追及をかわすことです。

ここで、この台詞を持ってきた脚本家の力量は、本当に凄いと思いますよ。

「親の言う事を聞きなさい」と命じるのでも「母親に反抗するつもり?」と怒るのでもなく、「私を悪者にするのね」と、いきなり被害者になる。

本当は娘こそ被害者なのに、自分が被害者になることで、問題を目くらましし、逆に子供に『罪悪感』を植え付け、「お母さんを傷つけるつもりなの?」という鉄のハンマーで一撃にするのですもん。

これを言われたら、子供はこれ以上、反抗できないですよ。

ほんとに卑怯で、悪魔もビックリの詭弁ですよね。

ラプンツェル

それでもラプンツェルは一生分の勇気を振り絞って、心から自分自身に、そして母親に宣誓する。

『いや、絶対に止めない。これからも戦う。
これから先も生きてる限り、ずっと逆らい続けるわ。
あきらめないわよ。どんなことをしても逃げ出してみせるから!』

ラプンツェル

毒親に対しては、決別する勇気を持つ以外、心理的な罠から抜け出す方法はないのかもしれません。

たとえ毒親が死んでも、その毒は一生心に残るでしょう。

ラプンツェルのように親を悲しませることになっても、全力で否定し、抗い、抜け出すしか道がないんですよ。

そして、それを決して自分で責めないで欲しい。

フリンが言ってたように「誰もが通る道」だし、あなたにもあなたの人生があるのだから。

ラプンツェル

全力で毒親に抗ったラプンツェルは、ついに自由と人生を手に入れ、恋人のフリンと手に手を取って、幸せに・・ではあるのだけども、この作品の心遣いは最後の最後まで失われません。

カメレオンが引っ張ったロープに足を取られ、塔の窓から真っ逆さまに落ちて行くゴーテルを、ラプンツェルは必死に手を伸ばし、助けようとします。あれほど自分を苦しめ、傷つけた母親であっても、です。
これが、子供の愛であり、親子関係における立ち位置です。
子供がどれほど復讐を誓っても、やはり心のどこかで愛と信頼は続いてる(どんなクソ親であっても)
だから苦しむ。
それが分からないんだよね、親の方は。

ラプンツェル

魔法の力で永遠の若さと美しさを得ていたゴーテルは、ラプンツェルの長い髪が失われたと同時に元の老婆に戻り、塔から落ちる途中で灰になって消えてしまいます。

最後の場面、ドサっと死体が落ちるのではなく、「灰になって消えてしまう」という描写にスタッフの気遣いを感じます。

お母さんは、とっくに死んでいた人であり、元々が灰みたいな存在なんだ。

だから、こんな哀しい結末でも、決して自分を責めてはいけないよ、と。

それでもお母さんを助けようとするラプンツェル。これが親に対する子供の愛。
ラプンツェル

母親の亡骸は映さない
ラプンツェル

親子の交わりも淡きこと水のごとし

私自身は淡水のような母娘関係で、ほとんど苦労はしたことないです。
なぜって、親も子供(わたし)も、物心ついた時から、互いの仕事、生き甲斐、趣味で忙しい。
とにかく、うちの母親は昭和成長期の母としては非常に珍しい兼業主婦だったし(「お母さんが働いている」と言えば「えっ、お父さんが死んだの?」と言われるような時代です)、盆も正月もないほどモーレツに忙しかった(自営業)。夜もソロバンを弾いて帳簿を付けたり、縫い物をしたり、ほんとに一日中、家事と仕事で明け暮れて、TVの前でゴロゴロしてる姿とか見たことなかったですよ。自身の享楽や虚栄の為にお金を使い、周囲を振り回すこともなかったし。
だから、私も空きの時間は勉強してるか、本・マンガを読みふけってるか、お気に入りのレコードに聴き入ってるか、どれかでしょ。
だから、全然淋しいとも退屈とも思わない。むしろ母親に擦り寄られて「なに読んでるの?」「学校はどうなの?」「世の中って、こういうものだと思うの、云々……(薀蓄)」なんてされたら、身の毛がよだつね。

なんで今時の育児評論家って、「親子の会話が・・触れ合いが・・」と強調するのか分からん。
人によっては、ガチガチ管理&べったり過干渉と勘違いするでしょうに。
母親が言葉や手を掛けるより、はるかに説得力のあるものがありますよ。(私の場合は親の「生きる気魄」)

子供なんて放っておいても育つ部分がいっぱいありますよ。親が自分の仕事に専念して、必死に暮らしを立てている姿が目の前にある限りは。

そういう親に面倒をかけてはいけないと思うから自主的に勉強もするし、アホなこともせん。自分で出来ることは自分でやろうと思うし、自分でやって失敗するから知恵もつくんです。ああ、ラーメン鍋を強火で沸騰させたら、あっという間に吹きこぼれるんやな、ガスコンロの火が消えたら物凄く恐ろしいんやな、って。

だから、私も生まれてこの方、一度たりと親に「勉強しろ」と言われたことがない。だって、親の仕事は○○、子供の仕事は勉強、という暗黙の了解が家庭内にあるから。親が黙々と働き、平凡でも真面目な生き方してたら、それがそのまま子供の規範になるのね。横からゴチャゴチャ言わんでも。

そういう意味で、「親子の交わりも淡きこと水のごとし」と思ってます。

もちろん、生活などで助け合うことは助け合う。

でも、基本的に、精神世界や人生のマネージメントにおいては「別人格」ですよ。

親は親、私は私。

親といっても一人の人間、女子高生が年取ってオバサンになっただけの話だからね。

それに20年か30年分の知識と経験がプラスアルファされてるだけで、別に偉いものでも、完璧なものでも、何でもない。

ゆえに、子供に対して過ちもするし、過ちに気付いたら、相手が幼稚園児であっても「ゴメンネ。嫌な思いをさせたね」って。

それを妙に鯱鉾ばって、「我こそは母親である!」と、完璧な鏡かローモデルになろうとするから、おかしくなるんじゃないかと思います。

言い換えれば、母親自身が欠点だらけで、それを覆い隠すのに必死。

周りからも「素敵なお母さん」と認定されなければ、不安で不安でたまらない。

子供に対しても、それがいつバレるか、「立派」の化けの皮が剥がれるかと冷や冷やしてるから、威圧的になるし、子供が反抗する前にその反抗心を罪悪感で打ち砕いて、一生解けない「母という名の魔法」に閉じ込めてしまうんじゃないでしょうか。

私の場合、私の知り合いの女の子がそんな感じでした。

話を聞く度に、「変なオバチャン」と、いつも子供心に思ってました。

それでも、その子にとっては「至上のお母さん」なんですよ。

「私はピンクのスカートを履きたいけど、ママが『ブルーの方が似合う』と言うから・・」と、自分の欲しいもの、やりたいこと、全部我慢しても母親の基準に合わせてる。

私なんかは「なんで、そこまで盲目的に従うの??」と思うけど、その子は心底お母さんが好き、というか、頼ってるというか、お母さん無しには生きて行けなくて、その感覚が当たり前になってるのね。

だって、「お母さん」を人生から取り除いたら、生きて行けないんだもの。

みんな自立、自立と簡単に言うけれど、やはり18歳以下で自立なんて、ほんとに難しい。

小学校、中学校ぐらいなら、どんなに嫌いでも、疑問に感じても、お母さんに従い、ご飯を作ってもらって、洗濯もしてもらって、生きさせてもらわないと駄目なんだもの。

一方で、「変なオバチャン」が、花子ちゃんを大切に思ってるのも事実でね。

それは見てたら分かります。

決して悪気はないんですよ(多分)

ただ、その「大切」の中に「自我」が入り込んで、なんかこう、がんじがらめにしているところが何とも……。

ゆえに、毒親問題は外からは見えにくく、当事者同士も気付かない心のトラップなのです。

*

それでも自身の親を疑問に感じたら、その疑問に罪悪感など抱かず、時にはエクスキューズする勇気も持って、自分の人生、自分自身というものを掴んで欲しいと思います。

『塔の上のラプンツェル』は、そんな子供たちへの、(心に負担のかからない)応援歌です。

もし、見たいけど自分のお小遣いで見られない、ネットショップのアカウントも取れない・・という場合は、図書館にリクエストしてみて。きっと、どこかにあるはずだよ。