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治りたくない患者と看たくない家族

2015年6月19日

多くの人は、病気になれば「治りたい」、入院すれば「退院したい」と思うでしょう。

でも、世の中には、「治って、退院すると都合が悪い」患者・家族が少なくありません。

・家に帰っても冷遇されて、居心地の悪い思いをするだけ(家族も面倒を抱え込みたくない)

・一人暮しで、しんどいまま帰宅して、明日から自炊、掃除、洗濯、自活するのが不安で億劫

こういう方にとって病院はまさに天国です。

看護婦さんは優しいし、三食付だし、好きなだけ寝てられるし、何かあってもすぐ診てもらえて安心だし、掃除も洗い物もしなくていいし。

安価で快適なホテルですよ。

だから、検査データが改善し、体力が戻ると、かえって都合が悪いんですね。退院しないといけないから。

そういう患者さんは、「痛いのを堪えてでもリハビリに励む」「もりもり食べて、少しでも自分で動こうとする」、そうした意欲が乏しいです。

退院してからも、暴飲暴食を止めません。薬を処方しても、きちんと飲みません。筋トレのパンフレットを渡しても、何もしません。

まともに看護するのが阿呆らしくなってくるような現実が、そこかしこにあります。

でも、そういう人にも、そうなるまでの経緯があって、やはり「行き場」がないんですよ。頑張って生きる理由もなければ、数年先の希望もない。

緩やかな自殺』です。

話を聞いて、振る舞いを見ていたら、早く死んでラクになりたいんだな、という気持ちがひしひしと伝わってきます。

そんな人に、眉を三角に吊り上げて、「何度言ったら分かるんですか! お酒は止めなさいと、あれほど言ったでしょ!」なんて言う気にもならないです。

むしろ「生きろ」「頑張れ」なんて言葉は酷。

仮にその人が全快して、五年、十年と長生きしたところで、待っているのは孤独地獄と生活不安。誰にも助けてもらえないし、理解もされない。緩慢な死があるだけです。

くさい言い方だけども、この人たちを本当に救えるのは『愛』だけ。

第三者(医者・看護婦)の「これ以上は世話できません」という立ち位置から「優しい励まし」をしたって何の意味も無い。

あなたはまだまだ世の中に必要よ。居なくなったら困るのよ。ということを、切に望み、実感させてくれる存在がなければ、「治って生きよう」という気にはならない。

同じ年齢、似たような病状でも、

「わたしが入院して、旦那一人にしといたら、家の中をグチャグチャにされる」←高齢女性にはこれが一番効く

「はよう治って帰らんと、畑のキャベツに虫がつく。ニワトリが病気になる」

「田中さんに頼まれてた織物、ちゃんとしたげなあかんのや」

という人は、本当に一所懸命、離床し、棟内を歩き、すたすたと帰っていく。

でも、愛も希望も生き甲斐も、何もない人に、どれだけ薬を与え、高度な医療処置を施しても、治りません。

治りたくないし、治す意味もない。

だから、ずっと病院に居たいし、馴染みの看護婦さんに会う理由が欲しい。

全快したら困るんです。

そして、そうなった理由を、誰にも断罪することはできません。

よくよく話を聞けば、「女つくった」とか「パチンコばっかりしてた」とか、そら女房も子供も逃げ出しますわな、というケースが往々にしてある。

酔って女房を殴り倒す父親とか、借金こさえて子供にご飯も食べさせない父親とか、引き取りたくない家族の気持ちも分かります。

社会としてはそれでは困るのだけど、そこまで強制するのは双方に酷、という現実があるんですよね。

それに、どうしょうもないヤクザで甘えん坊みたいな人でも、最後まで人間らしくケアしてもらう権利はある。

他人の臨終を何件も間近で見たことのない人にはピンとこないし、「そんなクズはどこかで野垂れ死んだらいい」と思うかもしれないけども、『人の死』って、そういうものじゃない。

やはり現場に居る者は、どうしょうもないクズみたいな人でも、凶悪な犯罪者でも、最後はちゃんと看取ってあげたいと思う。(手塚治虫のブラックジャックにこういう話がありますよね。殺人犯でも手術して助けるという)

それが人間としての自然な感情です。

ただ、現実問題、そういう人を無期限に入院させて、墓の手配までするわけにいかない。

病院は「病気を治す所」だから、そこまでは面倒見られない。

そこから先の具体的な対策というのが、あっちに分散、こっちに分散、おら知らね、って、押し付け合いになってるのが現状。

予算や施策の乏しさ、こうしたケアのできる専門家や現場に従事できる人手不足など、いろいろ理由はありますけども、なんといっても「ヤクザみたいな人間の屑とはかかわりたくない」「勝手に死ねば」という社会的な無関心や嫌悪感が一番大きい。

一般の人は、「愛と生き甲斐で人は変わるし、救われる」という現場を体験することがないですから、そうした施設や作業所を率先して作りましょう、という話にはならないんですね。

で、余計なことに国家予算を湯水のように使って、「ルーザーは死ね」というのが80年代からの日本の姿勢ですよ。

それをどうにか正そう、救おうと、個人レベルで活動していた人はたくさんあるし、私たち現場の者も、「せめて、うちらの棟に居る人には精一杯やろうよ」という気持ちで、どーしょうもない飲み助のオヤジでも、家族にも取引先にも愛想尽かされて、まさに天涯孤独の経営者でも、笑わせ、希望をもたせ、一所懸命にやってたけども、でも、そういうことは病院の収益にいっさい反映されない。

そして現場の「げ」の字も知らない医療コンサルタントが乗り込んできて、オムツの一枚も替えたことのない人間がMBAだかNHKだかの肩書きをちらつかせて、この道何十年のベテラン主任を相手に「これからの医療は……」などと一説ぶつから、みなやる気なくして、いい人から辞めていくんです。それで上は「現場の人材不足が・・」とか言ってる。(医療コンサルタントは厚生労働省の役人に説教しろよ)

昔、某球団の投手が「ベンチが阿呆やから、野球でけへん」と発言し、物議を醸したことがありますが、その気持ち、非常によく分かります。

ともあれ。

これから「行き場のない人」というのは続出するであろうし、それを手助けできる人もどんどん減っていく。

地獄絵図みたいになっていくだろうと、想像します。

そして、日本では宗教がまったく機能してない。

キリスト教圏だと、やはり教会が弱者や貧者の救済を率先してやるし、お金持ちの信者もそういう事業に惜しみなく寄付をする。
何十年前に建設された団地で、住民が次々に移転して、空きがいっぱい出たようなアパートを改装し、行き場のない人を住まわせて、一緒に野菜を育てたり、お菓子を作って販売したり、シスターの方々も本当に献身されてる。
私が住んでる所も、物の見事にホームレスがいなくなった。
どこかに強制収容?? と思っていたら、そうやってキリスト教団体+自治体+企業や資産家が一体になって、そういう活動に取り組んでおられる。
国も自治体も口を開けば「国庫に予算がありません」と、革命前のマリー・アントワネットみたいな事を繰り返してるけども、やろうと思えば、これだけの事が出来るのだな・・と本当に感心せずにいないです。

日本の仏道も頑張ってるとは思うけど、病院にお坊さんを派遣して死にゆく人の力になったり、お寺に行き場のない人を集めて炊き出ししたり・・というのは、まあ難しいですよね。

病院にお坊さんが来てもらうの、すごくイイと思うんですけど(どんな無神論者も最期は神や仏にすがりたくなりもの)
やらないんですよね。まあ「縁起でもない」と嫌う人もあるから、しょうがないんですけども。

私も日本の医療業界は戦線離脱して、今はモロコフ・カクテルの作り方を勉強してますけども、現場の諸姉にはこう言いたい。

「あなたが一人の患者を心から笑わせることが出来たら、それだけで上等」と。

あなた方が厚生労働省の分まで責任まで感じて、苦しむ事は絶対にないです。

ついでに、数値でしか医療を論じない、医療コンサルタントもね。

多分、救えない事の方がずっと多い。

でも、患者さんは、どんなどーしょーもない人間でも、必ずあなたの優しさを分かってくれる。

その優しさを、「人生最後に巡り会えた、本物の愛」と感じてもらえたなら、浴びるほど焼酎飲んで明け方に心臓麻痺で仮設住宅で孤独死したとしても、そこには何かの価値があるものと、私は思っています。

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