6-3 想像力で深海に潜るんだよ ~耐圧殻の中で

海

主任会議の後、リズはヴァルターの姿を求めて、『プロテウス』の格納庫に足を運ぶ。
そこには、テスト潜航にNoを突きつけられ、いっそう立場が悪くなったヴァルターが一人で佇んでいた。

リズの願いを聞き入れ、ヴァルターは彼女を潜水艇の耐圧殻に案内する。
直径二メートルほどの狭い空間で、二人は息を潜めながら、深海について語り合う。

「私も行ってみたいな、そういう所」と呟くリズに、彼は「心の中で行けるよ、いつでも」と答える。

「想像力で潜るんだ。俺が連れて行ってやるから、目を閉じて」

言われた通りに目を閉じるリズに、潜航の様子を語って聞かせる。

そうして、ふと彼女の方を見た時――。

引用

WEBに掲載している文章は『第二稿』です。書籍版とは内容が若干異なります。
「水深数千メートルの海底って、どんな風なの?」
「真っ暗だよ。あらゆる波長の光が吸収されるから、強い投光器で照らしても、目視できるのは半径数メートルのわずかな範囲だ。音もなく、色もなく、生き物もほとんど見かけない。でも、地上よりはるかにダイナミズムにあふれた世界が広がっている。人間が介在しない、ありのままの自然だ」
「なんだか想像がつかないわ」
「じゃあ、こんな風に想像して。あらゆる光が吸収される真っ暗な水底――それも親指の先に何千キログラムという圧力がかかる超水圧の環境だ。だが、陸地と同じように山があり、谷があり、その底には深海流だって流れている。何一つ動いていないように見えて、日に日に変化しているんだ。一見、死に絶えたような場所にも、不思議な色形をした魚や貝や植物が棲息している。数百度という硫化水素の熱水の中で群れを成す生物もあれば、餌も見当たらないような水深五千メートルの海底をゆうゆうと泳ぎ回っている魚もいる。地上の人間には決して見えないけれど、数千メートルの深海にも凄まじい命のエネルギーが渦巻いているんだよ」
「海について話す時のあなた、とても生き生きと輝いて見えるわ」
 リズは憧れるような眼差しを向けたが、彼は覗き窓の外を向いたまま、「それが専門だからね」と照れくさそうに答えた。
「もっと話してくれる? 海の底に潜るのはどんな気分?」
「静寂だよ。地上の一切から離れて、心の一番深い所に降りていく。夜の底で耳を澄ませるみたいに――。潜ってみるまでは何に出会うか分からない。生き物なのか、地形なのか、それとも珍しい現象か。何にせよ、そこで出会うものはみな新しい。人の手など何一つ加えられていない、本物の自然が目の前に在る。そういう深みに降りて行く時だけ、俺は不思議と自分の感情に素直になれる。海の底なら、不安とか淋しさとか、ネガティブな感情も恐れずに自覚することが出来るんだ。そして、数千メートルの深海から船に戻ってくる時、どこか新しく生まれ変わってるような気がする。もちろん、『心の中で』の話だけど」
 リズは彼の横顔を見つめ、この人こそ海そのものだわ――と嘆息した。普段は寡黙で、何も考えてないように見えるけど、その奥底には豊かな世界が広がっている。
「私も行ってみたいな、そういう所」
「心の中で行けるよ、いつでも」

<中略>

「今、君は耐圧殻に乗り込んだところだ。整備士が声かけして、天井のハッチを閉める。これで外界とは遮断され、ミッションが終わるまで缶詰だ。慣れないうちは少し息苦しく感じるけど、潜航を開始したら覗き窓の外に広がる世界に心を奪われる。耐圧殻の外では甲板員がAフレームクレーンの索を取り付けるのに忙しい。一つ間違えば船もとろも危険にさらされるから、これは重要な作業だ。
 取り付けも終わり、いよいよ海に出る。クレーンがプロテウスを吊り上げ、ブランコみたいに甲板の外に降り出して着水する。その時、プロテウスはイルカの浮き輪みたいに海面にユラユラ浮かんでいる。海上で待機していたダイバーがプロテウスの船上に乗り移り、クレーンを固定している索を外せば、いよいよ潜航開始だ。バラストタンクからエアが抜け、炭酸ソーダの瓶みたいに泡を吹き出す中、重量を増したプロテウスが徐々に海水に沈んで行く。
 五〇メートル、次第に天空の光が遠ざかり、地上とはまったく異なる海の世界が開けてくる。
 二〇〇メートル、辺りは静寂に包まれ、ほとんど光は届かない。ここから先は海の生き物と惑星のダイナミズムが支配する世界だ。人間など遠く及ばない。
 五〇〇メートル、おや、あれは何だろう? さらさらの泥で埋まった海底に白い氷みたいなのが見える。地中のガスが海底の水圧と低温によって氷みたいに固まったんだ。あそこからは、地中から湧き出すガスが水槽のエアポンプみたいにプクプク立ち上ってる。一つ、二つ、かなり勢いがある。
 一〇〇〇メートル、ここは海底火山のカルデラ底のど真ん中だ。あそこには、枕みたいな黒い溶岩がいっぱい転がってる。遠い昔、誰にも気付かれないうちにマグマを噴き出したんだ。海の上からは何も見えないけれど、あそこにも、ここにも、海の火山は絶え間なく活動している。そのエネルギーが惑星の生命システムを支えているんだよ。
 二〇〇〇メートル、あんな所に奇怪な岩が見える。まるで巨大な鍾乳石みたいに岩盤からそびえ立っている。その石の隙間からは、真っ黒な煙みたいなものがもうもうと噴き出している。これはブラックスモーカーだ。地下でマグマに温められた熱水が地中の金属成分を溶かし込んで、こんな黒色になった。水温は二七〇度。ここは超水圧の世界だから、熱水も蒸発せずに、気体でも液体でもない状態で海中に噴き出す。その周りには、その化学成分を栄養にしている目のないカニや二枚貝、巨大スパゲティみたいなチューブワームがびっしり繁殖している。彼らはこの熱水が大好きだ。人間には有害な物質も、彼らには極上のご馳走になる。何十億年も昔、一番最初の生物がこういう過酷な環境で誕生したと言われているけど、まだそれを決定づける証拠は得られていない。にもかかわらず、みんな黙々と生きている。小さな岩場で、彼らなりに共存共栄の生命システムを作り上げ、何億年と生きてきたんだ。
 いよいよ四〇〇〇メートル。ここからはABBYSと言われる深海の世界だ。人間なんか一瞬でペチャンコになってしまう。頑丈な車も飛行機も。それでも、どんどん海の深みに降りてゆく。そこに惑星のダイナミズムを感じさせる不思議な地形や現象が、まだまだたくさんあるからだ。
 五〇〇〇メートル。ここまで来れば、もう一つの宇宙の果てにいるような気分になる。音もなく、光もなく、想像を絶するような超水圧に包まれた神秘の領域だ。動くものなど何一つないように見えるけど、目を凝らしてみると、そこにぼんやり光り輝くものが在る。近づいてみると、こんな所に魚が泳いでいるじゃないか。スケルトンの標本みたいに透き通り、顔も身体もSF映画のクリーチャーみたいにグロテスクだ。全身をネオンサインみたいにキラキラさせながら、のんびり、ふわふわ、暗黒の深海を泳いでいる。君はどこに棲んでいるの? 何を食べて生きてるの? 問いかけても返事はない。名前さえ無い。でも、名前なんかなくても、生きてる。人間の思惑など関係なしに、自分の命を楽しんでいる。なんて健気で可愛いんだろう。誰にも掴まるんじゃないよ。いつかまた、深海のどこかで会おう。
 六〇〇〇メートル。いよいよ海溝の底だ。そこは海の谷の果て、誰も触れたことのない神秘の世界だ。まるで海の女神に導かれるようにプロテウスも降りて行く。生命の源を感じる為に。深く、真っ暗だけど、まるで海の胎内に居るような

Product Notes

フランスの潜水艇、Nautileもきれいな船です。
大きなクジラでも釣り上げるようにオペレーションするのがいいですね。

深海 潜水艇
Photo : http://wwz.ifremer.fr/inmartech08/content/download/24246/343828/file/Session2-Leveque.pdf

深海 潜水艇
Photo : https://goo.gl/Yzh808

深海には不思議な生き物がいっぱい。
なぜ、こんな所に、こんなものが? 
その一つ一つに存在意義を問うたところで、生き物たちは、こう答えるでしょう。

生きるために、生きてる。

生命って、本当に不思議で尊いものです。

深海生物
Photo : http://www.coolweirdo.com/the-weirdtranslucent-seacreatures.html

こんな気味の悪い、何の為にそこに居るのか分からないような生き物でも、地球上の生物連鎖や、化学的なサイクルに関わっているんでしょうねぇ。

深海生物
Photo : http://www.viralnova.com/scary-sea-creatures/

ウォールのPhoto : http://www.menzmag.com/things-to-do/wonders-of-the-world/deep-sea-vents-ecuador/