曙光 Morgenrood

第6章 断崖

-春光-

Introduction

長い試練の時を経て、ヴァルターは息子のルークと水上ハウスに暮らし始める。一方、リズはEOS海洋開発財団の理事長として再び公の場に姿を現し、世間を驚かせる。新たなスタートを切った二人の目に映るのは、水上に暮らす人々の不安と、頼りになる導き手を失って混乱する社会の様相だった。


Quote

「それで、そのリングをどうしたいの? アイデアコンペに応募するの?」
「そうじゃない。つまりその……実作と無関係でも、インパクトはあるものかな、と」
「どういうこと」
「実作できないデザインなんて絵空事だろ? たとえば、水深三〇〇〇メートルを高速で走るリニアカーなんて現実にはあり得ない。どう考えてもあり得ないものを『これが未来の交通の在り方です』と主張しても、誰が真剣に聞いてくれる? リングも絶対不可能なアイデアではない、だが、現実に建設するとなれば莫大な費用がかかるし、技術的にも困難だ。そんな絵空事を『アステリアの理想の未来です』と訴えたところで、どんな説得力があるのか。俺にはまるで自信がない。だから迷ってる」
 すると、オキタは中国皇帝の落とし胤みたいな切れ長の目をきらりと彼に向け、
「あなた、デザインってものを完全に誤解してるわね。とりわけ、アンビルトのこと。そんな事を言い出したら、デザインなんてみな絵空事よ。一から十まで実用性だけ重視していたら、美も理念もみんな死ぬわよ」
 オキタは目の前のローテーブルをこんこんと叩くと、
「あなた、このテーブルをどう思う?」
「そうだね。透明感の高いガラスと、流線型の曲げ木のフレームがマッチして、オフィスにもリビングにも似合うと思う。だが、俺の家では使いたくない。ガラスが綺麗すぎて、かえって落ち着かないし、物を置く度にカチャカチャと音がして耳障りかも」
「そうじゃないの。どこにデザイナーの意匠を感じるかと聞いてるのよ」
「デザイナーの意匠?」
「そうよ。こんなテーブル一つにも、必ずそれをデザインした人間がいる。人間が作るということは、必ずそこに意匠があるということよ。どんな環境を想定し、どんなユーザーを対象にデザインしたか。美観にこだわったか、実用性重視か、一般家庭向けか、オフィス向けか、人間の気配りは、形や色や材質に必ず現れるものよ。そして、あなたの言う通り、このテーブルはファミリー向けには作られていない。それなりにセンスのある一人暮らしの男が、テレビを見る時にビールやリモコンを置いたりするのに好むような色形よ。デザイナーもそれを意識してガラス天板と曲げ木フレームのラックスペースを十分にとっている。正直、もう数センチ隙間が狭い方が見た目にも綺麗なんだけど、何時間もテレビの前に座ってるような男は、モバイル端末だの、読みかけのメンズ雑誌だの、こういう所に置きたがるでしょう。だから、これだけのスペースを取ってるの。他にも、脚をハの字に配してまろみを醸し出している点や、脚の裏側にラバーストップを取り入れている点にも作り手の意匠を感じるでしょう。家具でも、建物でも、一つ一つ、注意深く見れば、デザインした人間のセンスやポリシーがはっきり見て取れる。突き詰めれば、デザインとは心の形そのものなのよ」
「なるほど」
「あなたは自分のリングはつまらないと思ってる。でも、つまらないかどうかは、それを見た人が決めることよ。あなたが自分自身でジャッジすることじゃない。そしてね、椅子やテーブルみたいに実用性重視のデザインならともかく、イベントのポスターや会社のロゴマークみたいに、メッセージ性が問われる絵に関しては、作り手の精神性が何よりも大事。もちろん色形も重要な要素だけども、そんなものは後からいくらでも修正を加えることができる。肝心なのは基礎となるワイヤーフレーム。つまり、あなたの心象よ」

*

 その日も午後のミルクを飲ませると、うとうとし始めたルークをベビーカーに乗せ、海岸の遊歩道に散歩に出かけた。
 ベビーカーはフラットにも対面式にもなるバギータイプの三輪カーだ。サスペンションの効いた大型タイヤが使われ、砂浜の自然道も難なく進むことができる。
 しかし、住宅街に入ると、道路の段差や陥没、公共施設の階段、歩道を塞ぐ駐車など、ベビーカーの負担になるものは多い。まるで町中で障害物競走をしているが如くだ。
 今まで当たり前のように目にしてきた風景も、よくよく見渡せば、「健康な大人」を対象に設計されており、幼子や高齢者、身体的ハンディのある人には決してやさしくない。
《デザイン》
 それは作り手の哲学や美意識の具現化だとジュン・オキタ社長は言った。
 リビングに飾る絵画や陶器ならともかく、人間の暮らしの土台となる『都市』を設計するには、美観や独創性だけでなく、様々な住人のライフスタイルを考慮する必要がある。加えて、安全性、経済性、耐久性、芸術性、等々。
 階段や道路一つとっても、そこには作り手の気配りや創意工夫が如実に表れる。
《意思が町を作る》
 どんな小さなものでも、形あるものは、すべて人間の意思の現れだ。
 頑丈に作られた堤防が数百年の長きに渡って干拓地を守るように、配慮の行き届いた町は幸福の土台となる。どんな形も決して偶然ではなく、そこには必ず作る人間の意思が働いている。

*

 国際海洋政策シンポジウムは、十一月四日から七日にかけて、ポートプレミエルのコンベンションセンターで開催される。実質的な運営はシンポジウム実行委員会が手掛けているが、EOSも様々なイベントに協賛している為、連日、打ち合わせや展示物の準備に忙しい。とりわけ「海を知り、海に親しむ」をスローガンにした一般向けのイベントは、産業、科学技術、娯楽、芸術など多岐にわたるため、仕事量も半端ない。
 EOSが参画するのは三つのイベントだ。
 一つは「海の写真展とコンテスト」。アステリアで活動するプロのカメラマンが撮影した写真やビデオをスカイタワーのエキシビションホールで展示すると共に、一般参加のコンテストを開催し、アステリアの海の風景に親しんでもらう。
 二つ目は「海洋開発の歩み」。アステリアの発見から現在に至るまでの道程を模型やCGアニメ、パネル写真などを用いて紹介するもので、これまでにない規模とクオリティが注目を集めている。PRビデオも大手の製作会社に依頼し、コンベンションセンターの3Dシアターで上映する予定だ。
 三つ目は「海洋大学のPR」。総合大学の設立は、父がローレル・インスティテュートの設立に奔走した頃からの最大の目標だ。今はまだトリヴィアの文化教育省やアステリアの教育担当が構想を練っている段階で、実現にはまだ三、四年かかりそうだが、各界からの期待も高く、もしかしたら予想より早く設立に漕ぎ着けるかもしれない。シンポジウムではコンベンションセンターの一角に特別ブースを設け、理解と支援を訴える予定だ。

*

「それで、One Heart, One Oceanが、どうしてアステリア共通の認識になりつつあるんです?」
「今月末から月に一度、ローレル・インスティテュートのオンライン講義を利用して海洋関連の講義をするそうよ。そのタイトルがOne Heart, One Oceanなの。採鉱プラットフォームや海洋情報ネットワーク、ウェストフィリア海洋調査などの話をするのですって。ダグやガーフも協力してくれるみたい。彼のことはウェストフィリア実況を通じて記憶している人も少なからずあるから、講義への期待もあるみたい。One Heart, One Oceanが社会全体の認識になりつつあるというのは、若い人を中心にキャッチフレーズに使う動きが広がっているからよ。先日は、ローレンシア島のシーサイドパレスで催された野外コンサートでOne Heart, One Oceanがテーマに掲げられたそう。あの晩、パール・プリンセス号のアニバーサリー・ケーキにOne Heart, One Oceanと綴ったケーキ職人も、ここまでブームになるとは夢にも思わなかったでしょうね」
「でも、それだけでは収益には結びつかないでしょう。One Heart, One Oceanの文言だって、あの人に著作権や使用権があるわけじゃない。とても『事業』と呼べるようなものとは思いませんけど」
「最初から完成された事業などありはしないわ。用意周到に臨んだからといって、必ずしも計画通りに収益が上がるわけではないし。思い立ったら即日で、実行しながら身につく知恵やスキルもあるはずよ。それに、オンライン講義やパイロットの教育を手助けするのに、どれほどの資本が必要だというの? 失敗したところで、何億もの負債を抱えて倒産するわけじゃない。何もしないで亀みたいにすっこんでいるより上等よ」
「だからといって、海洋政策シンポジウムのキャッチフレーズにOne Heart, One Oceanを使うことはないでしょう。見る人が見れば、すぐに出所が知れますよ。あなたと彼の繋がりも」
「そうかもしれない。でも、そうせずにいないの。One Heart, One Oceanの理念を根付かせる為にも。だって、今のアステリアに、我が身を捨てても社会に尽くそうという人がどれほど居るというの。何をどう叫んでも、dあの人は孤立無援。せめて運の風は吹かせたい」
「運の風なら、あなたにも必要ですよ。産業省からの返信を見ましたか? 経済特区管理委員を公選したいという有志の要望が再度却下されましたよ。トリヴィア政府にアステリアの自治権を拡張する気はないし、住民代表による立法会議を許可する気もない。あくまで属領として管理し続けるつもりです。その方が企業も参入がしやすいですからね」
「そして同じ慣習を繰り返すのよ。一握りの強者が全てを牛耳り、新参者はチャレンジする余地も与えられない。固定化された社会は絶望と無気力をもたらし、新しい物を生み出す意力も削がれてしまうのよ。私はね、そこまでステータスや自治権にこだわっている訳ではないの。今まで通り、誰もが起業や成長のチャンスを得る土壌が保たれるなら、属領として存続するのも一つの方策でしょう。属領であればトリヴィアの経済的支援も受けられるし、区政も余計な業務や責任を抱え込まずに済む。だけども、先だってのメアリポート造船会社の合併みたいに、大が小を呑み込み、独自の技術も、創意工夫も、大資本に奪われる流れになれば、結局はトリヴィアの二の舞になってしまう。せっかく新たな可能性を信じて、真面目に奮闘してきた人が馬鹿を見て、資本でも政治力でも勝る会社が全てを牛耳るなら、何の為に父が産業振興や学校教育に粉骨してきたか分からない。もちろん、アステリアが独立市(シティ)となり、住民代表の立法会議が可能になったからといって、必ずしも先々の平等や繁栄が約束されるわけではないけれど、トリヴィアの既存勢力がそのまま流れ込むより、少しでも自らの意思が反映される方が、区民の自覚や連帯感も異なるわ。アステリアは断じて『トリヴィアの一部』ではない。そうでしょう?」
「でも、いずれ頭打ちになる社会ですよ。あんな小さな島に住める人の数も限られている」
「ええ、分かってる。だから一つの対案を示したいの。その為のリング・プロジェクトよ」

*

 二度目の水漏れに気付いたのは、それから四日後のことだ。
 朝方に一雨あり、昼過ぎに外灯の様子を見に行くと、やはりガラス張りのウォールランプの底に一センチほど水が溜まり、底面からぽつぽつと漏れ出している。
 彼はその様子を携帯カメラで撮影すると、マックスにメールで転送した。マックスの見立ても「ランプの浸水」だった。
 彼は再び周囲の住人を訪ね、なんとかハウスのオーナーと連絡がつかないか尋ねた。
 が、やはり誰一人、住人の名前も連絡先も知らない。
「そんなに重要な問題かい? どうせほとんど住んでないんだ、放っておけばいいじゃないか」
と面倒そうに押し返す者もある。
 しかし、ランプの内側に水が溜まれば電気がショートし、火災の原因になる。
 住人が留守の間、ハウス内の電源が完全にオフになっているわけではなく、入り口やテラスのセキュリティシステムが常時作動していること、半分水面下にある地下ユーティリティルームで換気や排水の設備が運転していること、屋根やテラスに設置された自動スプリンクラーが定期的に散水していることなどから、ずっと通電しているのは確かだ。
 彼は何とか水上ハウスのオーナーと連絡が取れないか、サマーヴィルの生活総合カウンターとポートプレミエルの区政センターに問い合わせたが、事故や事件でもない限り、個々のトラブルには対応できないという。
 週が明けると、マックスの紹介で、水上ハウスを建造しているメーカーの担当者と話す機会を得た。そこで知ったのは、水上ハウスの建材は元より、固定杭、電気、ガス、上下水など、全てにおいて明確な規定が無く、購入者の希望に応じてインストールしているという事実だ。
「それじゃ、電線や配管の品質をよく調べもせず使用しているのか?」
 彼が気色ばむと、
「そういう訳ではありません」
 担当者は強く否定した。
「当社で使用している建材や電気設備は全て品質検査を通過したものばかりです。ただ、その基準がトリヴィアで定められたものなので、アステリアの海洋環境でも通用するのか、百パーセント確かなことは言えないだけです」
「つまり、水上コロニーの環境に則した建材や設備を使ってない、という訳だな」
「仰りたいことはよく分かります。しかし、今のところ目立った問題もありませんし、品質検査も厳しい基準値が設けられています。少なくとも当社で使用している建材や設備に不良品はありません」
「今まで問題がないから、この先も問題が無いと、どうして言い切れる? サマーヴィルの沿岸に水上ハウスが建造されるようになってから七年以上が経過している。どんな丈夫な鋼材も大なり小なり腐食するものだ。いくらトリヴィアの品質検査で太鼓判を押された製品でも、アステリアの海水には耐性が弱いかもしれない。ろくに調べもせずに、よくそんな無責任な工事ができるものだ」
「では、そのようにトリヴィア政府に進言して下さい。当社は政府の定めた法規に基づいて水上ハウスを建造しています。違法行為は一切行っておりません」
 担当者はそれ以上の追及をぴしゃりと遮った。

*

「こんばんは。突然、お邪魔してすみません。向かいのやり取りが遠目に見えたものですから」
 白髪の主人が丁寧に挨拶すると、彼は老夫婦を中に通し、キッチンのダイニングチェアをすすめた。
 老夫婦は隣のブロック、問題のハウスの真向かいに住んでいた。桟橋は別だが、ハウスは六メートルほどしか離れておらず、向かいの家の様子もよく見えるという。さっき訪ねた時、留守だったのは、夫婦で買い物に出掛けていたからだ。
「署名を集めておられるのですか」
 白髪の夫が切り出すと、彼はさっき配るはずだった書面を見せ、
「あの大きな水上ハウスのウォールランプが浸水してショートの危険性があります。それだけではありません。ここに設置されている水上ハウスの大半がトリヴィアから輸入された建材や部品で造られています。でも、それらは必ずしもアステリアの海洋環境を考慮したものではありません。今に腐食や老朽化により様々な問題を引き起こすのではないかと案じているのです」
「それなら、わたしたち夫婦も数年前から危惧している。わたしは長年、メアリポートの造船所で働いてきた。海洋構造物のことなら一通り知識はあるつもりだ。あなたの仰るように、水上ハウスで使われている建築資材はトリヴィアのモバイルハウス向けに作られたもので、海水中での耐性は十分に検証されていない。十年後、二十年後、どのような影響を受けるか、誰も知らないし、調べてないのが実情だ。些細なことが引き金で事故が起きても不思議はない。だから、わたしは自分で定期的に点検して、部品を取り替えたり、シールド材で補強している。でも、何も知らない人は、腐食や漏電の危険性など想像もつかないだろう」
「その通りです。品質は保証されているからと安心しきっているし、区政も本腰を入れて調査や指導を行おうとしない。水上コロニーに関しては、まったくの無法地帯です」
「あなたは向かいの水上ハウスを懸念しているのだろう。わたし達もだ。あの家は五年前に建造されたが、オーナーは別に居を構えていて、ここには数ヶ月に一度、気晴らしに来る程度だ。周りの住民も、名前はおろか、顔もろくに知らない。君にさっき突っかかっていた住人さえもね。問題はあのハウスが何ヶ月も放置されて、事故が起きても誰にも気付かれないことだ。ウォールランプだけじゃない。ユーティリティルームにも怪しい点がある」
「大半が水面下にある最下層の部屋ですね」
「住人が泊まりに来る時、たまに上部のガラス窓から明かりが漏れて、ユーティリティルームを見渡せることがある。電気湯沸かしや分電盤の周囲に段ボールの空き箱やバーベキューセット、化学洗剤の容器などが無造作に置かれて、とても危険だ。何も考えず、物置みたいに使っている」
「一度でも先方に注意を促されたことがありますか?」
 すると老夫婦は顔を見合わせ、
「なんだか、話をするのも躊躇われて……」
 白髪の夫人が皺だらけの顔に不安の色を浮かべた。
「どこで何をしている人か、まったく分かりませんし、名前も存じませんもの。遠目に家の中を覗いていると分かれば、逆恨みされかねないでしょう」
「解ります。思うに、あの家の人は裕福ですよね。外装にもお金をかけているし、高級ガーデン家具の置かれたオープンテラスを見ただけでも内部の豪華さが窺い知れます。それだけに警戒心も人一倍ではないでしょうか」
「その通りだよ。留守中もずっとセキュリティシステムが作動している。外灯だけでなく、テラス、リビング、二階の居室、いろんな場所で、監視カメラの赤いランプが常時点灯している。時には二階のバスルームの自動空調機が作動し、換気窓が開くこともある。ということは、あの家はずっと通電しているんだよ。セキュリティだけでなく、冷蔵庫、AVセット、排水システムなど、全て電源を入れっぱなしで留守にしているんだ。そのことを、わたしと家内はずっと心配しているんだよ」
「やはり、そうですか。俺もそれが気になっているんです。ずっと通電しているなら、どこが火種になってもおかしくない」
「おまけに、あの家は少しずつ沈下している。杭で固定しているが、多分、重みに耐えられないのだと思う。杭の打ち方が悪いのか、建材に問題があるのか、わたしには見当も付かないが」
「本当ですか?」
「以前、ユーティリティルームの上部のガラス窓は水面から五十センチ以上の高さにあった。一番左端の窓の下には、漆喰を塗る時に出来た丸い凹みがあって、家内と『ネコの足跡みたいだね』と話していた。だが、その凹みも今は海面下だ。年に二センチほどだが、徐々に沈んでいるんだよ」
「住人は気付いてないのですか」
「気付いているなら一日も早く手を打つだろう。だが、そんな動きは一向にない。あるいは、気付いていながら放置しているのか。ともかく問題なのは確かだよ。区政も住民に対して何の注意もしないからね」
「しかし、住民が一致団結すれば、区政も動いてくれるのではないですか」
「そう、その為にここに来たんだよ。わたしと家内だけではとても太刀打ちできないし、年寄りというだけで相手に見下されることもある。もし、あなたが動いて下さるなら、喜んで署名に協力させてもらうよ」

*

 リズはウィレム・ヴェルハーレンの招きで「経済特区開発会議」を傍聴した。
 場所は、エルバラード議事堂に隣接する第一庁舎の二階会議室だ。ホール奥に設置された傍聴席にヴェルハーレンと並んで座り、議員や担当官の発言に耳を傾ける。
 トリヴィアには八つの経済特区がある。エルバラード周辺に三カ所、ネンブロットに四カ所、そして、アステリアだ。
 トリヴィアとネンブロットは一つの自治領に統合され、例えるなら「本県」と「海外県」の関係だが、アステリアは『属領』であり、トリヴィアに直接統治される。独自の法律も持たず、立法権もなく、トリヴィア政府が任命した十二人の管理委員によって区政が執り行われる。区議会は存在するが、あくまで産業活動や区民生活に関わる条例を定めたり、問題を提示したり、今後の方向性を話し合う程度だ。全ては主管である産業省に委ねられ、トリヴィア政府の意向に左右される。
 もっとも、総人口が十万人弱のアステリアが、経済的にも政治的にも完全に独立した自治領になるのは不可能だ。ネンブロットのように独自の法体系や立法機関を有する「海外県」のような存在になるにも、アステリアは一回り規模が小さい。まして用地不足で許容人口は四十万人が限界と言われる中、アステリアがトリヴィアの干渉を受けずに独自の裁量で前進するには、あまりに基盤が脆弱であった。
 かといって、アステリアが観光と海洋産業だけで持っている辺境の星かといえば、決してそうではなく、ティターン海台の採鉱プラットフォームは二基、三基と後発の計画が控えているし、ウェストフィリアの探鉱も着々と進んでいる。来年にはオデッサ湾に大型船も係留可能な港湾設備が建設され、ますます開発に弾みがつく見込みだ。それ以外にも、海水から希少元素を抽出する技術や、特殊な化学素材を製造する技術など応用も進み、ポテンシャルは計り知れない。
 それだけに、新たな財源としてアステリアを利用し、影響力を留めたいトリヴィア政府と経済界の思惑は予想以上に根強い。税制、ロイヤリティ、投資誘致、管理委員の選定など、重要な決定権をアステリアに委譲するわけがなく、その意向はどこまでも利己的で、支配的だ。
 リズは眉をひそめ、時に大声で叫びたい気持ちを必死で堪えながら、訳知り顔の議員の発言に耳を傾けている。
 アステリアの未来を決める重要な会議が何故アステリアの内部で行われず、一度も訪れたことのない人たちの間で取り沙汰されなければならないのか。リズは『One Ocean, One Heart』の理念を胸に浮かべながら、傾聴するだけで何も出来ない自身の無力を噛み締めるばかりだ。

--中略--

「開発会議の感想はいかがです? 似たような議題の繰り返しで、いい加減うんざりしたでしょう」
 するとリズは初めてヴェルハーレンの方を向き、
「政府は本当にアステリアを二分するつもりでしょうか」
と懸念した。
「二分した方が管理しやすいのは本当ですよ。ローレンシア島には現状に応じた制度を維持し、これから大きな発展が見込まれるローランド島とウェストフィリアには、より企業が活動しやすい新しい制度を設ける。今でさえペネロペ湾周辺には大企業や富裕層が続々と進出し、投資額でも税収でも大差がつき始めています。停滞する地方都市と急上昇する都心に同じ税制や政策を適用しても、かえって発展を阻碍するだけでしょう。それよりは、足の遅い選手と速い選手のレーストラックは分けた方がいいという考えですよ」
「だけども、不公平が生じて、争いの種になりませんか」
「多少はあるでしょうね。場合によっては、産業が一方に集中する事態になりかねません。でも、元々、人口十万弱の小さな社会です。憂うほどの結果になるとも思いませんが」
「私が懸念しているのは、人々の心情ですわ。ローレンシア島には何十年も前から裸地のような所に根を下ろし、自腹を切る覚悟で事業を推し進めてこられた方がたくさんいらっしゃいます。みな、アステリアの自由公正な社会の空気に触発され、希望を繋いでこられたのです。そして、今、アステリアは見違えるように豊かで便利になりました。それは単に技術の進歩や経済政策の恩恵ではありません。資本の乏しい会社でも、コネクションのない人でも、ここなら真っ当に報われるという希望があったからです。知恵を絞り、汗を流せば、誰でも活躍できる社会です。だけども、そこに不平等な制度を敷き、後から来た者ほど有利という状況になれば、人の心も挫かれます。制度が整ったところで、肝心の人にやる気がなければ、どんな発展が見込めるでしょう。社会は陸上競技ではありません。走りの遅い人でも仕事に甲斐を感じるのが真の幸福というものです」
 リズが淀みない口調で返すと、ヴェルハーレンも一瞬言葉に詰まったが、
「政策とは一種の賭けですよ。どんな方策を立てても、百パーセントに有効な良薬など存在しない。ならば、少しでも確率の高い方に賭けた方が有利でしょう。あなたの考えは理解できますが、現状を見る限り、それぞれの経済力や成長率に適った制度を適用した方が、ある意味、公平といえます。経済特区を二分したからといって、明日にも戦争になるわけではないでしょう?」
「でも、一つの海に二カ国という状態になりますね」
「まあ、大げさに言えば、その通りです」
「それが人の心を挫くと申しているのですわ。考えてもみて下さい。このエルバラードでさえ、実質的には上層と下層がきれいに二分しています。今や、エルバラードの発展に心を尽くそうという気運がありますか? 上層は上層だけの利益と暮らしを考え、下層はそんな上層に憎しみを抱くだけ、意欲も希望も持てずにいる。私たちの祖先がトリヴィアに移住を始めた時、そのような分裂はなかったはずです。誰もが可能性を信じ、心を一丸にしてエルバラードを建設したはずです。アステリアもそのようにして今日まで発展してきました。それが明日から線引きされ、新しく来た者ばかりが優遇される様を目の当たりにすれば、憎悪も生まれるのではないでしょうか」
「何もそこまで差別しようという訳ではないと思いますよ」
「でも、実際、メアリポートの改修工事は棚上げされたままですね」
「そうなんですか?」
「何もご存じないのですね。セントクレアに大学を創設する話も、ウェストフィリアの生物探査も、ローレンシア島の内陸を農地や牧草地として拡張する話も、全て棚上げされたままです。一方で、ペネロペ湾には次々に湾施設やリゾートホテルや高級分譲地が建造され、今度はパラディオンまで作ろうと気炎を上げているではありませんか。それも今日の開発会議のように、ローレンシア島の現状はおろか、アステリアの海を目にしたこともないような人たちの間で取り決めされるのです。これがいかに不条理で、人を愚弄したものであるか、あなたにもお分かでしょう?」
「ですが、トリヴィアやネンブロットのように広大な土地があるわけでもなく、今でさえ用地不足に直面して、集合住宅の増設すらままならない島に、そこまで大きなことは期待できませんよ。確かにこの三十年、あなたのお父上をはじめ、産業界の雄志が一丸となり、英雄的な活躍をされたのは理解できますが、何もない平原にゼロから町を作るのと、既に成熟したものを更に押し上げるのでは、目標も戦略も異なります。ここは一度立ち止まり、次代に向けた施策を一から練り直すのが賢明とは思いませんか」
「そして、あらぬ方向に突っ走っても、誰も何の責任も取りはしないのです」
 リズは咎めるような視線を向けた。
「あなたも結局は『外の人』なのですわ。あの海で粉骨してきた人々の胸の内を知れば、簡単に次代などと口にすることはできません。もし、あなたのお父さまが何一つ報われず、時代の流れに掻き消される様を目の当たりにすれば、あなただって意欲を無くすでしょう。あなた方がなさろうとしている事は、施策という名の掠奪です。それが施された後には、稚魚の育つ川床さえ失われているのです」
「あなたの仰りたい事は理解できなくもありません。しかし、その時々の社会の現状と許容能力に応じた施策を選ぶことも、百年の計と同じくらい重要です。それは、あなたの理想と大きくかけ離れているかもしれませんが、無駄を省き、効率的に進めることもまた正義ですよ」
「だとしても、アステリアの未来は、アステリアに住む人々が決めるべきだと思いませんか? なぜ海を見たこともない人が、海洋都市のあり方を論じるのです」
「自治権のことを仰っているのですか?」
「突き詰めれば、そうです」
「だが、それには一定の人口が必要ですよ。あの二つの小さな島に、百万もの市民が居住できるとは到底思えない」
 リズはじっと黙っていたが、
「もし、そのアイデアが実在するなら、どうなさいます?」
「どう、って……この目で見てみない事には何とも答えようがありません」
 ヴェルハーレンは気圧されたようにハンドルを切ると、大交差点を大きく右折した。
 やがてガーデンスクエアのあるオフィス街まで来ると、リズは窓の外を向いたまま「ここで結構です」と言った。
「そんな。まだ三百メートルほどありますよ。エントランスまでお送りします」
 ヴェルハーレンは強い口調で押し返し、ガーデンスクエアの共用駐車場に乗り付けた。「ありがとうございます。もうここで結構です」
 リズは機械的に答えると、すぐに車を降りようとした。
「あなたを怒らせましたか」
「……」
「だとしたら、申し訳ありません。僕もついつい本気で意見してしまいました。──いや、本気などという言い方はかえって失礼ですね。あなたを見ていると、嘘も本気になる。つまり、その、あなたにはそれだけの気魄があるという意味で、決して愚弄しているわけでは……」
 ヴェルハーレンもまた言葉に詰まると、リズは膝の上で両手を握り、
「いろいろとやりきれないのです。気持ちばかりで、自分では何一つ動かすことができない。まるで手のない人形みたいに、茫然と世界を見詰めるだけで……」
「あなたがそこまで責任を感じることではないでしょう。そんなことを言い出せば、この世の人間はみな無力ですよ」
「それでもやらねばなりません」
「何の為に」
「海に生きる人々の為です」
 リズが真顔で答えると、ヴェルハーレンは小さく溜め息をついた。
「どうやら、あなたは雲の上の人らしい。頭の中は社会正義と責務でいっぱい、女神みたいに地上を見下ろしては、人の世の醜さを嘆いてばかりいる。決して嫌みではないですよ。公務に就いている僕でさえ、そこまで人生を傾注する覚悟はありません。休む時は休むし、遊んでいる間は世の中の不幸などすっかり忘れてます。それが利口とは言いませんが、あなたも少し自分を許せばどうです? いつもいつも社会問題に心を痛めるのではなく、もっと自身の愉しみや女性らしい幸福に身を委ねるのです。あなたを見ていると、今にも緊張の糸が切れて、その場に頽れそうですよ」
 リズはじっと黙っていたが、「どうしても許せぬ自分もおりますわ」と答えると、再びドアを開けて車を降りようとした。
「待って下さい」
 ヴェルハーレンは思わず身を乗り出した。
「不快にさせたなら謝ります。あなたが相手だと、僕もつい本気で話してしまう。本気だから、無骨な物言いにもなるのです。本気で心配しています。少し身も心も休めた方がいい」
「心配して下さって、有り難うございます。でも、私ももう子供ではありません。自身の問題は、どれほど苦しくとも自分で始末をつけますわ。アステリアのことも、理想主義と嘲られても、自身の考えを貫く所存です」
「だからこそ、力にならせて欲しいのです。考えは違っても、あなたを案じる気持ちに変わりありません。あなたにも無私の気持ちで力になってくれる友人は必要でしょう。こんな事は言いたくないが、父は政界でまだまだ影響力があるし、有力な知人もおります。それが本当に論議に値することなら、父も看過しませんし、父が動けば政も大きく動きます。あなたの理想が正しければ、多数の賛同を得るのも決して不可能ではないでしょう。どうか、僕の心配を受入れて下さい。決して遊びや上辺ではない」
「ならば、アステリアのことも、どうか親身に考えて下さい。あの海には、父の事業に人生を懸けた方々が、今も骨身を惜しまず仕事に打ち込んでおられます」
「――お約束します」 「では、今度こそ失礼致します。人を待たせるわけにいきませんので」


Product Notes

こちらは、未来のGreen House。野菜工場と住居が一体となったユニークな構想です。
こんなのも非現実的といえばそうですが、別の形で活用することはできます。
実用的かつ、美麗で、エコロジカル。絵や動画で、その理念は十分に伝わりますね。

こちらはフランスのパリで構想されている、Smart City。
実際に建設されたら「虫」とか「枯れ葉」凄そうな気もするのですが、アイデアとしては面白い。

このように、人は何を構想してもいいし、何を表現してもいい。
要は、どこまで説得力があり、公共性があるか。
個々の必要性に応じた配慮があるか、ですね。

作中に登場する、『コウテイペンギンの子育て』はこの通り。身を寄せ合って巨大なコロニーを形成し、南極のブリザードも耐え抜きます。

メスは遠い海まで餌となる魚を捕りに出掛け、お腹の中にたっぷり蓄え、赤ちゃんペンギンに与えます。いろんな子育ての形があります。

      B! 

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