曙光 Morgenrood

第3章 海洋情報ネットワーク

-海洋情報部-

海洋情報部と庶民の良心 情報行政とデータ共有を考える

Introduction

海洋情報ネットワークのプレゼンテーションが功を奏し、ヴァルターは海洋情報部のメイファン女史を紹介される。たった一人で始めたプロジェクトだけに、女史の理解と助力は大きい。
一方、リズは、ファルコン・マイニング社の進出に不安を感じながらも、MIGの一員として積極的に研修や会合に参加し、見聞を広める。そんな彼女に、ヴァルターは『庶民の良心』を言って聞かせ、いつか必ず状況も改善すると励ます。

ネットワーク構築の準備が着々と進む中、ヴァルターはメイファン女史から、アステリアの海洋産業においてリーダー的存在であるノボロスキ・マリンテクノロジー社の情報管理部長フェレンツを紹介される。そこでも海洋情報ネットワークの重要性をとうとうと説くが、フェレンツ部長の態度は厳しい。思わず喧嘩腰になり、最後は物別れに終わってしまう。そのことをアルに叱責され、ヴァッルターも反発する。

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Quote

 その頃、リズは工業港の第一埠頭にあるニムロディウムの製錬工場を見学していた。
 製錬工場は第一埠頭の北側にあり、遠目には船会社の倉庫みたいだが、内部は高度な空調システムが取り入れられ、バイオ工場のような様相である。
 プラットフォームから運び込まれた細粒状のクラストは第一チャンバーでさらに細かく選別され、還元分離や溶解の工程を経て、九九・九九九九九パーセントという高純度のニムロディウムに精製される。その過程で特殊な微生物が使われるため、一部のスペースはバイオ工場のように室温や湿度が一定に保たれているのだ。
 リズは、エンタープライズ社の担当や区の行政官、ローカルメディアの取材チームに同行し、オートメーションの制御室やラボラトリ、廃棄物の処理施設などを見て回った。
 製錬されたニムロディウムは棒状や粉状の中間生産物に加工され、大型トラックで島の北東部にある宇宙港に運搬されるが、現在は行政の立ち入り検査のため倉庫にストックされている。
 十月十八日、第一弾の原鉱が到着して以来、製錬工場もフルピッチで稼働しているが、プラットフォームの選鉱プラントで処理されるクラストに若干品質上の問題があり、採鉱システムや選鉱プラントの担当者らと毎日のように協議している最中だという。
「採鉱システムが正常に稼働するからといって、必ずしも理想通りにはいきません」
 工場長も渋い顔をする。
「要は鉱石の品質の問題、肝心の金属成分が回収できないことには、何トン掘ったところで意味がありませんから」
「それは破砕機に問題があるのですか? それとも選鉱プラントの処理能力に依るのでしょうか?」
「それを今、究明しているところです。破砕機がクラストを掘りすぎているのか、あるいはマッピングデータそのものに間違いがあるのか。陸上の鉱山と違い、水深三〇〇〇メートルの堆積物や岩盤を肉眼で確認することはできませんから、一度、問題が生じると原因を特定するのは難しいのです」
「では経済的なロスも多いのですか?」
「それは長期にわたって収支を分析しなければ分かりません。ニムロディウムの市場価格にも左右されますし、採鉱や製錬が順調だからといって、利益にならなければ採鉱事業そのものが負担になってしまいます」
「負担になる」ということばがリズの心にぐさりと突き刺さった。
「しかし、まだ始まったばかりです」
 工場長も口調を新たにする。
「鉱業に限らず、天然ガスでも石油でも、そうそう計画通りには行きません。相手は地下深くに眠る自然物です。いくら技術が発達しても、完全には把握しきれません。しかし、ここでの生物冶金の手法は世界的にも注目されていますし、既に幾つかの特許も取得しています。仮に目標値を十分に達成できなくても、他が生物冶金の技術を導入すれば、かなりのロイヤリティが入りますし、一部では『真空直接電解法』に匹敵する技術革新と期待されています。二の手、三の手は打っていますからご心配なく」
(そうか)とリズは納得した。
 プラットフォームも製錬工場も莫大な収益を上げることが目的ではない。父も『一つのモデルケース』と言っていた。
 世界に知らしめる。
 ニムロデ鉱山とファルコン・マイニング社が唯一無二の存在ではないこと。
 アステリアの海には莫大な鉱物資源が眠り、それを商業的に採掘する方法があること。
 人が生き甲斐を感じられる職場や社会もあること、エトセトラ。
 ならば私も父のビジョンを信じよう。 
 ある意味、ファルコン・マイニング社が重い腰を上げたのも、採鉱プラットフォームが無視できない存在になり始めた証ではないか。 

 

*

「私、本当に幸せよ。嬉しくて胸が弾けそうなくらい。こんな素敵な時間を過ごせるなんて夢にも思わなかった……」 「君もずいぶん淋しいことを言うね。いくらパパの監視が厳しくても、いろんな楽しみがあるだろうに」
「友達と食事しても、スパに出かけても、楽しいのはその場限り。心の底から笑ったり、幸せに感じたことはなかった。いつも上辺だけで生きてるみたいで、どこか淋しくて……」
「それは分かるよ。でも、皆、大なり小なり似たようなものじゃないかな。君にはセキュリティの問題もある。皆と同じように、のんびりとはいかないだろう」
「周りは私の好きにすればいいと言うけれど、父や伯母の苦労を思うと、私だけ勝手気侭に振る舞う気になれなくて。何かあっても、父や伯母に替わって会議を切り盛りできるわけでもなければ、資金を調達できるわけでもない。言いつけを守って、せめて身の安全くらいは自覚するしかないもの。窮屈だけど仕方ないわ。そういう定めに生まれついたんだものね」
「それもいいじゃないか。『自分の人生』や『自分の生き甲斐』がいつでも一番とは限らない。そういうのが格好いいと思った時期もあったが、自分の好きなように生きることが必ずしも美徳ではないと、ここに来て悟った。君も良くやってるよ。本採鉱まで漕ぎ着けたのは、君がパパの言いつけを守って協力したことも大きかっただろう。君の身に何かあれば、接続ミッションどころじゃなかったはずだよ」

--中略--

「君は依然として『アル・マクダエルの娘』だし、何よりも安全が第一だ。自由が欲しい気持ちも解るが、命あっての自由だろう。まして今は海台クラストの生産が始まって、世界中が趨勢を見守っている。こんな時に問題を起こせば、いくら最高の技術と人材を誇っても、パパだって仕事に集中できないだろう。だからといって、今の状況が永遠に続くとは思わないし、いつかはのびのびと海岸を散歩できる日も来ると思う。情勢が落ち着いて、採鉱事業が軌道に乗るまでの辛抱だよ」
「情勢が落ち着くのを待ってたら、おばあちゃんになっちゃうわ」
「そんなことはない。ファルコン・マイニング社がこれほど早く動き出したということは、それだけ採鉱プラットフォームのインパクトが大きいということだ。案外、数年で情勢が大きく変わるかもしれないよ。それこそ勢力地図が書き換わるくらいに」
「そうね……」
「その為に、俺も海洋情報ネットワークを作ろうとしてる。それが本当に防波堤の役目を果たすかどうかは分からないが、海のことが一般により深く理解されれば、物事も少しずつ変わっていくだろう。この広場を見てごらん。大半の人は身の丈に合った幸せな暮らしを求めてる。鉱物資源を独り占めしようとか、もっと資産を増やそうとか、そんな事に躍起になっている人は一人としてない。皆、芸能やスポーツの話題に夢中になって、一見、社会には何の関心もないように見えるが、心の底では美しいものや正しいことを求めている。そういう人たちの心を動かせば、潮の流れも変えられる。現に俺の故郷でも、一方的な再建計画が遂に中止になった。こうした普通の人々が立ち上がり、全力で抗議してくれたからだ。一般社会が動けば、君の状況もきっと改善する」

*

「アステリアはずっと属領のまま?」
「それは分からない。今以上に発展すれば自治権も拡大するだろうが、なにせ領土が島二つだ。海でも割らない限り、まあ無理だね」
「だが、ある程度は用地を広げることができる」
「どうやって」
「干拓すればいい」
「ああ、干拓ね。だが、干拓で得られる用地など、たかが知れてるだろう」
「島の住民を養うに十分な農地は確保できるはずだ」
「住宅地は?」
「可能性はあるだろう」
「どれくらい」
「さあ……百戸か二百戸か……。ここは島だからね。ネーデルラントのデルタ地帯のようにはいかないだろう」
「じゃあ、あまり期待はできないな」
「何の期待?」
「百万人が暮らす都市空間を一気に創出する」
「それこそ海を割らないと無理だね。なんなら、あんたが断崖絶壁に立って、杖を振り上げればいい。本当に運命の女神が存在するなら、あんたの祈りを聞き届けて、海でも山でも真っ二つに割ってくれるさ」
「それはいい考えだ。だが、その時はお前が真っ先に海の中道を歩け。お前が運命の加護を得て、無事に向こう岸まで辿り着いたら、お前の功徳を信じよう」
「俺が波に呑まれたら?」
「お前の場合は自業自得だ。同情も悲しみもせんよ。 ところで先日、海上安全局の海洋情報部長から問い合わせがあった。お前のプレゼンテーションを録画ビデオで見て、ぜひ直接話したいそうだ。すぐに行ってもらえるな」
「もちろん」
「では、わしの方から、一時間以内にオフィスに伺うと返事しておく。場所は第一埠頭のリージェント通り、ノボロスキ社の斜め向かいだ」
「ちなみに、予算とかはもらえるのかな? その、仕事に使う資料を作ったり、ツールを買ったりするのに、幾らか……」
「何を寝惚けたことを言ってるんだ。まだ一つも具体化してないうちから、金など出せるか。アイデアが何らかの形になるまで予算はなしだ」
「……」
「当たり前だろう。人が提案する度に百万、二百万と出していたら、どんな景気のいい会社もすぐに傾く。どうしても必要な経費があれば、申請書に理由を書いてセスに提出しろ。価値があれば、内容に見合った金額を用立てる。それで不足なら、自分で資金を集めることだ。構想と計画が秀逸なら出資者も現れるだろう。それが出来なければ何事も絵に描いた餅だ。悔しかったら、何億と金を積ませるだけの逸物になれ」

*

「だからといって、あなた一人でおやりなさいと言ってるわけじゃないのよ。理事長曰く、あなたは気概も行動力もあるそうだから、ぜひ先鋒に立って働きかけて頂きたいの。その分、私も裏でサポートします」
「どのようなサポートです?」
「私は海洋情報部長としていろんなコネクションを持っているし、政府の要人に面談を申し込んだり、区政に議案を提出したり、あなたには許されないことも出来る立場にあります。もちろん、私の一存ではどうすることも出来ない事もあるけれど、あなたが動きやすいように、できるだけ便宜を図るつもりです」
 すると彼も納得し、
「アステリアは属領で、条例一つ変えるにも二重、三重のプロセスが必要だそうですね。まず区議会で話し合い、十二人の管理委員の承認を取り付けた後、トリヴィアのアステリア開発局を通して、やっと産業省の認可が下りるような長丁場だと聞いています」
「そうね。ここ数年は区議会の権限も拡大されて、以前ほど緩慢ではないけれど、大きな予算の絡む政策や、暮らしや産業を根底から変えるような決定は何段階もの手続きや承認を経て、やっと実現するような感じよ。もういい加減、管理委員会を解体して、区議会だけで取り決めようという声も上がっているのだけど、トリヴィアはまだまだ自分たちの影響力を失いたくないのか、それも毎年見送りでね。一進一退よ」
「じゃあ、海洋情報ネットワークを構築するとなれば、海上安全局や区政はもちろん、トリヴィア政府の上層部まで認可が必要でしょうね」
「そうね。本格的なオープンデータ・システムを構築するなら数十億エルクの予算が必要だし、専門のチームも新設するから、まずは区議会の同意、次にアステリア開発局、政府審議会、最後に産業大臣の認可を経て、やっと動き出すような感じね」
「何年もかかりそうですか?」
「それは状況によるわ。災害支援や海上交通規制など、緊急性の高い案件は数日で通るけど、税制の見直しや条例の改正、公的機関の拡充みたいな話はどうしてももたつくわね。特にアステリアの財政の六割は自治領の支援金で賄われているから、多額の出費を伴う話は至難の業。それでも海洋情報ネットワークの構築は急いだ方がいいと思うわ。今度はウェストフィリアの開発に着手すると言うし、まともに全海洋観測システムも機能してないのに、一体どうするつもりなのかと首を傾げたくなるほど。それでなくても、ウェストフィリアの北東海域は海象が厳しいのに」
「前に調査船の座礁事故があったと聞いています」
「氷漬けのコンチネンタル号でしょう。あれも多数の死者が出なかったのが不思議なくらい。よくあんな気候の荒れやすい時期に、海底地形の複雑な場所に行ったものだと思うわ。あの辺りは海面すれすれまで海山の頂部が隆起して、周囲は水深数百メートル、海山頂部は数メートルみたいな箇所が多いのよ。深海のつもりで航海していたら、あっという間に波にあおられて、タイタニック号みたいに船底を海山の頂部にこすりつけるの」
「実際、どの程度の海洋観測が行われているんです?」
「まともに調査船が走ってるのはローレンシア海域だけよ。他は観測衛星や人工飛行機、何十年も前に設置した観測ブイや自動測定器に頼ってる。海底地形だって、ローレンシア海域を除けば、精度の粗いデータしか取れてない。ましてウェストフィリアや海の反対側なんて完全に未踏の世界よ。それもこれも行政の認識の甘さゆえ。とりあえずローレンシア海域が安全ならそれでいいと思っているのでしょう。海のことは一部だけ切り取って語れるものではないのに」
「それは大いに共感します」
「私が海洋情報ネットワークについて公に働きかけたいのは、政府は元より、企業にも一般区民にも、もっと認識を高めてもらいたいからなの。たとえプロジェクトの認可に数年かかっても、全体に問題提起すれば、誰もが一度は見直すでしょう。船がスケジュール通りに走ればいい、海辺のホテルが儲かればいい、というものではないはずよ」
「その通りです」
「ご理解くださって嬉しいわ。何しろ、アステリアは民間企業が牽引してモザイク的に発展してきた経済特区でしょう。管理体制が整ったのもここ十数年ほどの話。それ以降、組織の規模も権限もさして変わってないのに、流入する人や企業はうなぎ登り。社会の動きに管理体制が全く追いついてないのよ。区政やトリヴィア政府の一部からは、ここを独立市(シティ)に制定し、大部分を自治に任せようという声が上がっているのだけど、そうしたくない人たちも一定数存在するからね。画期的な意見が出ても、実現するのは何かと難しいわ」
「よくある話ですね」
 フェールダムの再建も、一部には新たな利権の源でしかなく、企業の思惑や有力者の圧力が入り乱れ、元住民の願いは後ろに置き去りにされたまま、何年も放置されてきた。 
 上層が見向きもしない問題を、ヤン・スナイデルをはじめとする学生ボランティアが柄杓(ひしやく)で運河の泥を掻き出すような努力を重ね、やっと全国規模で問題が認識されるようになったほどだ。一部にとっては『故郷の再建』などどうでもいい話。そこに帰りたがっている人々の願いも虫の囁きでしかない。「これがアムステルダムやロッテルダムなら、国中ひっくり返しての大騒ぎになるのに、遠い地方の田舎町など、どうでもいいんだな」とヤンも悔しさを滲ませていたのを思い出す。
 そして、アステリアも遠海の島社会であり、心底から未来を憂う人の声など上には一向に届かないのかもしれない。

--中略--

「それでね、あなたさえよければ、今週金曜日の海上安全局のカンファレンスでもう一度同じプレゼンテーションをしていただけないかしら」
「海上安全局のカンファレンスで?」
「月に一度、『定例会』という形で、海上安全局や海洋行政課、アステリア開発局の代表が一堂に会する機会を設けているの。今月は特に重要な案件はないから、この機会にぜひ海洋情報ネットワーク構想を知ってもらえたらと思って」
「それはどれくらいの規模です?」
「いつもは参加者限定だけど、あなたのプレゼンはイントラネットを通じて全部署に配信しようと考え中よ」
「全部署に!」
「そう大げさに考えないで。イントラネットの配信は日常的に行っていることよ。私も最初は録画で済まそうかと思ったのだけど、あなた自身の口で説明して、その場で意見交換した方が、ずっと印象に残るような気がしてね。もし全体の合意を取り付けることができたら、必要性の高い議案として区政や産業省に企画を提出することも出来るわ。その方がはるかに近道よ」
「でも、合意が得られなかったら……」
「合意が得られなくても、ネットワークの必要性を内外に訴えることはできるでしょう。それに、あなたの言う通り、様々な企業や団体にヒアリングを行うなら、海洋行政の意見は絶対に欠かせない。もしかしたら、意外と誰もが同じ見解を持っているかもしれないしし、これが第一歩と思って、是非、チャレンジして頂けないかしら」
 メイファン女史が明るく言うと、彼も納得したように頷いた。
 それからプレゼンテーションの段取りについて二、三、話し合い、木曜日に再度オンラインで連絡を取り合うことを約束して、初回の面談は終わった。
 彼が丁重に礼を言い、部長室から出ようとした時、メイファン女史はしみじみ彼の顔を見詰め、
「入ってきた時よりずっと表情が柔らかくなったわね。なんだかんだで繊細なところがうちの息子にそっくり。男の子はみな似たり寄ったりね」
とお母さん顔で笑った。

*

「デート中にパパのご飯が心配で上の空になる女の子なんて、初めて聞いた」
「ごめんなさい。決してあなたのことを軽んじているわけでは……」
「いいよ、気にしない。君がパパのことなど微塵も気にかけないような人なら、俺も遊びに誘ったりしない」
「でも、周りには『パパ大好き人間』と思われてるわ。いい年して、気味が悪いと」
「依存と情愛は別だろう。俺には君がパパにべったり依存しているようには見えないけど。そうだ、君にいいものを見せるよ。俺のお気に入りのショートフィルムだ」
 彼はバックパックを開き、タブレット端末を取り出した。
「まあ、どんな映画?」
「鮭の産卵」
「は?」
「鮭(トラウト)だよ。サーモン」
「マリネにする魚?」
「そう。君の大好物」
「それが卵を産むビデオ?」
「そう。『オーシャン・プラネット』の中でもベストスリーに入る感動作だ。きっと君の気に入る」
 それは長さ三十分の科学ドキュメンタリー番組だった。
 大洋を周遊する鮭の群れは故郷の川を上り、パートナーを見つけて川床に大量の卵を生み付け、そのまま死んでいく。番組の最後、大量死した鮭の死骸が川面をいっぱいに埋め尽くすと、さすがにリズも顔色を変え、「なんだか残酷ね」と漏らした。
「でも、こうして卵の側で死んで行くから、その死骸はやがて稚魚の餌になり、厳しい自然を生き抜くことができるんだよ」
「子供の餌に……?」
「そう。親の死骸は自然に腐敗して、卵が孵る頃には栄養豊かな食べ物になる。救われるのは稚魚だけじゃない、熊やキツネなど、冬を越した森の動物たちの食糧にもなる。食い散らかされた鮭の死骸は一つ残らず稚魚や動物の糧になり、川と緑を育むエネルギーに生まれ変わるんだよ」
「そうだったの」
「自然と生命の関わりは本当に不思議だ。どれ一つ欠けても自然は成り立たず、自然が機能しなければ生物も生存できない。まるで緻密に織り上げられた宇宙のプログラミングを見るようだ」

*

 とりあえずメールチェックから始めようとLeopardの天板を開いた時、
「それ、二年前に発売されたLeopard e-borgの後期モデルだね」と男性が横目で言った。「僕もそれが欲しかったんだ。e-borgシリーズの中では最高傑作だ。その後のニューモデルは軽量化にこだわるあまりデザインを改悪した。十七インチなら、本体にそれぐらいの厚みがあった方がいい」
「俺もそう思う」
「フルカスタマイズ?」
「どうして分かった」
「天板の光沢がスタンダードモデルと違う。スタンダードは単純なシルバーメタリックだが、フルカスタマイズはパール加工が施されて、光の加減によってブルーに見える。見る人が見れば分かる仕掛けだ。セキュリティシステムは何を使ってるんだ」
「AVIX」
「お手頃価格のシェアウェアか。悪質なクラッカーに『おいで、おいで』してるようなものだよ」
「そんなに脆弱なのかい?」
「AVIXは、ここ一、二年で急増している『オプティマ』というマルウェア、もしくはそれに相当する機能を持ったバックドアを使えば、簡単にコンピュータに侵入できる。ほとんど足跡を残さずにパスワードを盗んだり、ファイルを改ざんできるので、スクリプトキディ(程度の低いハッカー)の格好のターゲットになっている」
「それは知らなかった」
「AVIXみたいな『お得』だけが売り物みたいなセキュリティソフトは使わない方がいい。よかったらエンタープライズ社で導入しているビジネス用のセキュリティツールをインストールしてやるよ。君のLeopardがハッカーの入り口になれば、せっかく僕がこしらえたファイアーウォールも穴だらけになる」
「じゃあ、よろしくお願いするよ」
「フルカスタマイズのLeopardに、格安のセキュリティソフト。君という人間が手に取るように分かるよ」

*

 今回、面談するフェレンツ氏は、長年データ管理に携ってきた幹部社員だ。イリヤ・ノボロスキ社長の甥で、三十年前、社員とその家族を丸ごと抱えてアステリアに大移動した際、旗振りを務めた古株の一人である。ノボロスキ社長に似て小柄な五十代後半の男性だが、カモノハシのようなオブジェやネオンサインを作って愉しむ社長とは異なり、アナゴのような小器だ。それでもステラマリスでは倒産寸前だった会社を死に物狂いで再建し、業界一の優良企業に育て上げた自負とプライドもは端ない。
 彼が応接ソファに腰を下ろし、ビジネスバッグから資料を取り出そうとすると、フェレンツは軽く手を振り、
「海洋情報ネットワークの話なら人づてに聞いたよ。プレゼンテーションの録画ビデオも見た。どういう経緯で動きだしたかは知らないが、勝手にあんな構想をぶち上げてもらっては困るよ」
とまるで自分たちが情報行政の目付役と言わんばかりの口調で言った。
「それは、俺のアプローチの仕方がお気に召さないということですか。それとも、海洋情報ネットワークのアイデアそのものに問題があるのでしょうか?」
 するとフェレンツは大仰に両腕を組み、
「気に入る、気に入らないの問題じゃない。君のしようとしている事は越権だよ。すでに海上安全局や区政の情報サービスが十分に機能しているし、トリヴィア政府も海洋開発計画に基づいて観測システムの拡充を推し進めている。第一、君がそんなことを提案しなくても、我々でも似たようなサービスを構築する用意がある」
「ローレンシア海域に限れば、でしょう。俺が提案してるのは全海洋を対象とした情報共有ネットワークです」
「知ってるさ。だが、あれと同等のものを構築しようとすれば、現在の観測システムを基礎から見直す必要がある。それだけでも億単位の出費だよ? 第一、島もない、飛行機も滅多に飛ばない、ローレンシア海域の裏側の海象情報をリアルタイムに提供して、どんな利益が得られるというんだ。もちろん、その科学的意義は認めるが、他に優先されるべき事はたくさんある」
「今すぐ必要なくても、将来を見据えて準備を進めることは決して無駄ではないはずです。それにローレンシア海域の裏側は何も無いように仰いますが、それはただ単に調査が入ってないだけで、精査すれば意義深い自然現象が幾千と見つかるはずです。その中には、アステリアの気候や海象に大きな影響を及ぼすものもあるはずです」
「そんなことは君に言われるまでもない」
「ですから、その可能性や必要性を広く世に知らしめる為に、一般人でも手軽に参照できるオープンデータシステムを作ろうと提案しているのです。アステリアに対する関心が高まり、海洋調査の需要が増えれば、貴社にとってもプラスに働くのではないですか」
「そんな単純なものではないよ。需要が増せば、うちでカバーできない分は他に回る。新規参入が増えれば、過当競争を引き起こす恐れもあるだろう。今でさえ分野によっては顧客の争奪戦だ。何でもプラスに働くわけじゃない」
「だとしても、ここで一番実績を上げているのは貴社ですし、海洋産業が活性化すれば、いっそう技術が注目されるはずです」
「わたしが危惧しているのは情報の価値が蔑ろにされることだよ。君は既存のデータサービスを取り込んで、官民一体型の公的ネットワークに再編しようというのだろう。今でも十分機能しているものを解体し、何でもかんでも無償で差し出せという訳だ」
「プレゼンテーションの質疑応答でも同様の声ありましたが、民間企業が蓄積したデータを無料(ただ)で寄越せという話ではありません。原則として、ネットワークで使用されるデータは提供者自身が管理しますし、ショッピングカートを用いた有償情報の売買サービスも検討しています。またデータ提供は義務でも強制でもありません。機密性の高いデータや、資産価値のあるものまで無理に公開する必要はないのです。ただ、公共の利益のためにご協力を願えないかと申し出ているのです」
「それで君がイニシアチブを取る理由は何だね」
「誰も手を挙げないからです」
 彼が臆面もなく答えると、フェレンツも鼻の穴を膨らませ、
「それなら専門家に任すんだね。君は潜水艇のパイロットだろう。海に潜るのが専門で、調査分析・データ管理は職能ではないはずだ。それとも、前にこういう仕事を手掛けた経験があるのかね」
「経験がなければ、やってはいけませんか?」
「経験とは信用だよ。そして、君には信用に足る実績も資格もない。突然やって来て、『あれも出来ます、これも出来ます』と大風呂敷を広げられても信用のしようがない」 「そうかもしれません。しかし、現場の隅々まで知る者が何の問題意識も持たず、問題に気付いても指一本動かさないなら、新人だろうが素人だろうが、自ら動くしかないでしょう」
「君の考えは立派だが、全ての企業がこういう事に快く賛同するとは思わないで欲しい。だいたい企業の情報管理に携ったこともない人間に何が分かる? 君は何にも属さないから、いくらでも無責任なことが言えるんだよ」
「どういう意味です」
「組織の中で一度でも責任のある仕事に就いた経験があるなら、おいそれと企業の利益を損なうようなことは口に出来ないという意味だ。自分の帰属する社会や組織に何の責任も感じないから、平気で他者の価値観や慣習を変えようとする。企業が何年も遵守しているルールをね。理事長もメイファン部長もどうかしてる。部外者の意見を祭り上げるなど」
「つまり、あなたにとって一番の問題は『俺』というわけですか?」
「そんな事は言ってない」
「でも、そのように聞こえます。仮にこれがメイファン女史の提案なら、素直に耳を傾けるのではありませんか」
 するとフェレンツはむぅと口を尖らせ、
「わたしの合点が行かないのは、採算が取れるかどうかも分からない情報サービスに、なぜ企業の情報資産まで提供しなければならないか、ということだ」
「ですから、何度も申し上げているように、海中ロボットの設計図や資源調査のデータまで、何でもかんでも差し出せという意味ではありません。たとえば、ノボロスキ社では一八五年七月、ローレンシア海域から五千キロ離れた巨大海底峡谷でかなり詳細な海底地形調査を行っていますね。トリヴィアの地学研究グループに依頼された学術調査です。だが、その時は地形の把握のみに止まり、それ以降、精査は行われていません。けれども『ノボロスキ社が一八五年に巨大海底峡谷を調査した』という事実が、十年後も、二十年後も、誰もが知り得る情報として検索できれば、いつか、それを必要とする人の役に立つかも知れない。将来的には、大きな科学的発見に繋がるかもしれません。そういう古くても汎用的な情報、今は特に使い途がなくて眠っているような情報を、社会資源として有効活用できないかと模索しているのです。もちろん、すべて無償とはいいません。ここから先は有償と制限を設けて下さればいいのです。それでもノボロスキ社の企業活動を損なうとお考えですか」
「そんなのは理想論だよ」
「確かに理想論かもしれません。しかし、何のビジョンも無いまま、特定の企業だけが調査や開発を推し進め、社会資源を独占しても、全体に何の益ももたらさないのではないですか」
「話をすり替えないでくれるかね」
「俺は事実を言ってるんです。ステラマリスでも科学調査を阻む理由は、たいてい縄張り争いです」
「ここはステラマリスじゃない」
「でも海に必要なことは同じです」
「君の考えは立派だが、すべての企業や組織がこういう事に快く協力するとは思わないで欲しい。提供される情報が乏しければサービスは空回り、利用者が少なければ維持費も回収できず、大赤字を出す可能性も大だ。言い出しっぺの君の立場も悪くなる。それでもやりたければ、どうぞ」

*

 翌朝。
 ヴァルターは朝一番にアル・マクダエルに呼び出され、社長室に足を運んだ。
 開口一番、
「馬鹿か、お前は」
 アル・マクダエルが叱責した。
「一番に協力を取り付けねばならない相手に、あの態度はなんだ。ちょっとけなされたぐらいで喧嘩腰か。それが組織の代表として訪問した人間のすることか」
「ねちねち絡んできたのは向こうの方だ」
「お前の言い分など何の意味もない。学級会じゃあるまいし、相手を怒らせてどうするんだ。幸いメイファン女史の取りなしで向こうも腹を収めたが、場合によっては同業者から総スカンを食うところだったんだぞ」
「……」
「まさか、いい年した社員にこんな事を言って聞かせるとは夢にも思わなかった。お前、潜水艇のパイロットをしていた時もこんな態度だったのか」
「それとこれとは話が別だ。パイロットの時は一度だって相手に言い返したことはない」
「じゃあ、なぜ今回に限って喧嘩腰になる」
「俺は喧嘩などしてない」
「お前がどう思おうが、相手が喧嘩と取れば、それは喧嘩なんだ。一から十まで馬鹿正直に物申すことが美徳だとでも思ってるのか」
「それで、俺にどうしろと?」
「謝ってこい」
「謝る?」
「それ以外に方法があるか」
「なんで俺が謝らなきゃならないんだ。最初に人を小馬鹿にしたのはあっちだぞ」
「だから自分には非が無いとでも言いたいのか。悪いことをした覚えがなくても、時と場合に応じて、自分から頭を下げるぐらいの度量をもて。相手に謝罪したからといって、何を失うものがある?」
「分かったよ。謝ればいいんだろう」
「謝罪ついでに深々と頭を下げて、『当方も未熟で力不足ゆえ、何かとご迷惑をおかけしますが、今後ともよろしくご指南ください』ぐらい言ってこい」
「阿呆らしい。そんな心にもないことを俺に言えと?」
「有るか無いかの問題じゃない、いかに相手を懐柔して、己の目的を達成するかだ。氏の人間性がどうあれ、情報管理に関してはお前よりはるかに知識もキャリアもある。態度が気に入らなくても、相手の知識やノウハウを盗むぐらいの度量を持て。馬鹿の振りをする世知もないなら、誰かの後ろでおとなしくしてろ」


Product Notes

NOAA『アメリカ海洋大気庁』のデータ検索システム。

http://www.esrl.noaa.gov/gmd/dv/data/

ここで言う「一元化」というのは、IT界にたとえれば、MicrsoftやYahooのトップページみたいに、一つの画面、一つの検索システムから、国内、海外、経済、文化、スポーツなど、あらゆる情報が検索できることです。
何かを調べるのに、海外ニュースは、Micrsoft International、スポーツは Microsoft Sport、買い物は Shop MS の専用サイトでお探し下さい・・となれば、どこに何があるか、分からないでしょう。
また、一つ一つの情報をカテゴライズして、各部署に任せるとなれば、手間も経費も膨大。
海洋情報も、「このページからアクセスすれば、何でも出てくる」となれば、分かりやすい。
気象はどこそこ、海底地形はあっち、航行に関する安全情報はコチラ、とかやってたら、どこに何があるのか、ユーザーには全く分からないし、利用する気にもなりませんよね。
要は、ポータル化しよう、というのが『海洋情報ネットワーク』の趣旨です。

海洋情報 データ

海洋情報 データ

有名な『鮭の産卵』のビデオ。何百万という鮭が故郷の川に戻り、次々に産卵して、その生涯を終えます。後には、おびただしい数の死体が川辺に打ち上げられるけども、いずれ生まれくる稚魚の養分となり、新たな生命のサイクルが始まります。一方で、北上する鮭は、森の動物のご馳走でもあります。鮭とクマの戦いは有名ですね。

      B! 

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Amazonにて販売中。kinde unlimitedなら読み放題です。