9-2 鮭の産卵と親の思い ~父の死から立ち直れなくても

鮭

海岸にサイクリングに出掛けたヴァルターとリズは、一緒に科学ビデオの『鮭の産卵』を鑑賞する。
その際、彼が人と話さない子供だったことや、「鼻づまり」「キャベツ頭」と苛められたこと、父親に似た容姿から鏡恐怖症になっていることを知り、いっそう理解を深める。

今も父の死から立ち直れないヴァルターは、「たとえ心の重荷になっても、父の思い出と一緒に居たい」と苦しい胸の内を語る。

引用

WEBに掲載している文章は『第二稿』です。書籍版とは内容が若干異なります。
「まあ、どんな映画?」
「『鮭の産卵』」
「は?」
「鮭(トラウト)だよ。サーモン」
「マリネにする魚?」
「そう。君の大好物」
「それが卵を産むビデオ?」
「そう。『オーシャン・プラネット』の中でもベストスリーに入る感動作だ。きっと君の気に入る」
 それは長さ三十分の科学ドキュメンタリー番組だった。
 大洋を周遊する鮭の群れは故郷の川を上り、パートナーを見つけて川床に大量の卵を生み付け、そのまま死んで行く。
 番組の最後、大量死した鮭の死骸が川面をいっぱいに埋め尽くすと、さすがにリズは顔色を変え、「なんだか残酷ね」と漏らした。
「でも、こうして卵の側で死んで行くから、その死骸はやがて稚魚の餌になり、厳しい自然を生き抜くことができるんだよ」
「子供の餌に……?」
「そう。親の死骸は自然に腐敗して、卵が孵る頃には栄養豊かな食べ物になる。救われるのは稚魚だけじゃない、熊やキツネなど、冬を越した森の動物たちの食糧にもなる。食い散らかされた鮭の死骸は一つ残らず稚魚や動物の糧になり、川と緑を育むエネルギーに生まれ変わるんだよ」
「そうだったの」
「自然と生命の関わりは本当に不思議だ。どれ一つ欠けても自然は成り立たず、自然が機能しなければ生物も生存できない。まるで緻密に織り上げられた宇宙のプログラミングを見るようだ」
「他にどんな海の生き物が好きなの?」
「海の生き物は何でも好きだよ。特に深海にいるのがね。どれもグロテスクで、何の為に存在するのか分からないような変なのばっかりだけど、あんな真っ暗な海の底でも一所懸命に生きている。その一つ一つが俺には誰かの生まれ変わりに見えるんだ。でも、一番好きなのはイルカかな。子供の頃、一緒に泳いだ時のことが今も忘れられない」
「それは水族館の催しで?」
「ドルフィン・ケアセンターだよ。ドルフィンセラピーとも呼んでいる。イルカと触れ合うことで心と身体を癒やすんだ。五歳の時、家族で訪れた時のことが今も忘れられない」
「でも、どうして……」
「突然、誰とも喋らなくなったからだ」
「対人恐怖症のようなもの?」
「分からない。俺も何が原因だったのか、まったく記憶がない。病気でもないし、障害でもない。でも、突然そうなったらしい」
「じゃあ、ご両親もさぞかし心配されたでしょうね」
「母はともかく、父は大変なショックを受けて、毎日のように診察に訪れた。あちこちの病院、セラピー、耳鼻科医、カウンセラー、時にはドイツやオーストリアの国境を越えて専門機関に連れて行った。でも、何所へ行っても言われることは同じだ。誰にも直せない。しまいに俺は心の中で悲鳴を上げていた。『父さん、もう止めて』と。でも、父の必死の思いを知ったら、『イヤ』とは言えなかった。診察室でぐっと奥歯を噛みしめて口を開かないのが、俺の精一杯の抵抗だった。それがきっかけで公立小学校の入学を拒否された時、父はとうとう海岸で俺を怒鳴りつけた。『ちゃんと喋れるのに、どうして喋ろうとしないんだ!』。俺は生まれて初めて父親に怒鳴られたショックで、わあわあ泣き出した。すると父は『泣きたいのは僕の方だ』とこぼして、本当に泣き出したんだよ。俺はまさか父が泣き出すなんて夢にも思わなかったから、びっくりして泣き止んだ。その時だけは、父の方が小さな子供に見えて、夢中で慰めたよ。首に抱きついて、背中をさすって――。そのうち、父も我に返って俺に謝った。その時、子供心に感じたんだ。『親』といっても、決して完璧な神様じゃない。子供と同じように泣いたり、苦しんだりするんだな、って。それからいっそう父のことが好きになった。自分だけ特別学級みたいな所に通って、ひどく劣等感を持ったこともあるけれど、父が側に居てくれたら、何でも出来そうな気がしてた。ある日突然遠くに行ってしまうなど、夢にも思わなかった――」

Product Notes

有名な『鮭の産卵』のビデオ。何百万という鮭が故郷の川に戻り、次々に産卵して、その生涯を終えます。
後には、おびただしい数の死体が川辺に打ち上げられるけども、いずれ生まれくる稚魚の養分となり、新たな生命のサイクルが始まります。

一方で、北上する鮭は、森の動物のご馳走でもあります。鮭とクマの戦いは有名ですね。

Photo : https://www.flickr.com/photos/alaskarainbowlodge/6686477995

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