2-1 世界は意思の表象 締め切り大堤防とローエングリン

ローエングリン 白鳥

ヴァルターの父親、グンター・フォーゲルは、読書と音楽が大好きな内気な男の子だ。
父親は『巨人族』(ファーゾルトとファーフナー)のように厳めしい火山学者で、息子のこともほとんど構いつけず、「地殻の割れ目」ばかり覗いている。
そんなグンターの心を鷲掴みにしたのが、ワーグナーの音楽だ。光のようにきらびやかで、英雄的な世界にのめり込んでいく。

十二歳の時、子供劇団でローエングリンを演じるが、ワーグナーの書いた台本に納得ゆかず、勝手に結末を変えてしまう。
父親にはますます訝られ、惰弱のように言われる始末だ。

高校二年の夏、将来の進路をめぐって、父親と正面から諍ったグンターは、家族からも自分自身からも距離を置くために一人旅に出掛け、ブレーメン行きの電車の中で一人の女の子と出会う。

女の子からゾイデル内海を仕切るアフシュライトダイク(締め切り大堤防)を見るよう勧められたグンターは、国境を越えてネーデルラントに赴き、天まで貫くような迫力に心を揺さぶられる――。

引用

WEBに掲載している文章は『第二稿』です。書籍版とは内容が若干異なります。
 彼女はグンターの真向かいに座り、熱心に本をよんでいた。
 ショーペンハウアーの『Die Welt als Wille und Vorstellung(意志と表象としての世界)』だ。
 年は同じ高校生ぐらい、肩まで垂らした赤い癖毛をべっ甲のバレッタでぶっきらぼうに留め、男の子が好むようなエアクッション入りのスポーツシューズを履いている。服装は白いポロシャツにブルージーンズ、膝の上には擦り切れたナップザックを抱え、お洒落はまるで構わぬ様子だが、セルロイド眼鏡の奥で文字を追う薄茶色の瞳は*6ワルキューレ(戦乙女)のように輝き放っている。
 グンターの視線に気付くと、彼女もふと顔を上げたが、彼と目が合うと慌てて俯き、じゃがいもみたいな顔を耳の付け根まで赤らめた。それがショーペンハウアーとは対照的に、とてもキュートに見える。
「それ、『意志と表象としての世界』だね。ショーペンハウアーが好きなの?」
 グンターが訊ねると、女の子は今度は落ち着き払って顔を上げ、
「昨日から読み始めたところよ。好きかどうかは、まだ分からないわ」
ときびきびした口調で答えた。
「でも、そんな難しい本が読めるなんてすごいね。僕も前に試みたけど、正直、僕には難しすぎて、最初の数ページで挫折したよ」
「どこが、どう難しかったの?」
 女の子が怜悧な瞳を閃かせると、
「最初の一文からさ。『世界は私の表象にすぎない』。その意味がどうにも実感できなくて」
「言葉の通りよ。世界はあなたの表層なの。難しく考えないで」
 女の子が励ますように言うと、グンターも顔をほころばせ、「他にどんな本を読むの?」と尋ねた。
 それから二人は好きな作家や、これまでに感銘を受けた作品について夢中で語り合った。
 女の子は彼と同じ十六歳で、デンマークの国境に近いハンデヴィットという町に住んでいた。これから母方の祖父母に会いにブレーメンに向かう途中だ。
 グンターは彼女の名前を尋ね、自らも名乗ろうとしたが、彼女はすぐに頭を振った。
「名前を知ったら忘れられなくなるわ。賢いあなたなら、どういう意味か分かるでしょう。あなたのことは『ローエングリン』として記憶したい。いつまでも美しい夢であって欲しいから」
 グンターはいささかがっかりしたが、女の子がそう望むなら仕方ない。これほどに教養深く、知的な女の子もまたとないのだが――。
「あなたは何所へ行くの?」
 彼女が訊ねると、グンターは「分からない」と答え、父と喧嘩してここまで来た経緯を打ち明けた。
 女の子はじっと彼の話を聞いていたが、
「私もあなたのお父さんに賛成よ。あなたは心外かもしれないでしょうけど、あなたは百万人に一人のスーパースターを目指すより、その秀でた頭脳と気高い心を万人の為に役立てるべきだわ。第一、あなたに熾烈な競争は向かないと思う。人気と技術を切り売りして、ライバルを蹴落とすにはあまりに心が優しすぎるもの」
「……」
「ねえ、そんな顔をしないで。私、褒めてるのよ。どこにでもいるタイプなら『好きにすれば』で済ますけど、あなたには誰よりも幸せになって欲しいから。お父さんもきっと同じ気持ちだと思うわ。白鳥の騎士にはそれにふさわしい活躍の場があるはず。誰もがサッカーの神々の仲間入りをすれば幸せになるわけじゃないわ」
「だけど、他にどうすればいいのか分からない。お父さんはいつも「大きな志をもて」と言うけれど、僕には何が志で、どこからが夢なのか区別もつかない。何かを志したところで、どうせ認めてはもらえないと思うと、だんだん自分が無くなっていくようで、居たたまれなくて……」
「あなたは何を夢見てもいいし、何を志してもいいのよ。お父さんに認められようと、無視されようと、あなたの意思はあなた自身のものじゃない。ただ、その中で選ばない方がいい道もある。お父さんはあなたの判断に不安を抱いているだけで、あなた自身を否定しているわけでは決してないわ。その気持ちは私も同じよ」

Product Notes

アフシュライトダイク(締め切り大堤防)

詳細は次のページを参照のこと。

アフシュライトダイク(締め切り大堤防)

アフシュライトダイク(締め切り大堤防)

アフシュライトダイク(締め切り大堤防)

意志と表象としての世界

女の子が読んでいた『意志と表象としての世界』(独: Die Welt als Wille und Vorstellung)はショーペンハウアーの名著です。
一般には「意志」という漢字が当てられていますが、あえて「意思」に言い換えました。
『志』よりは、『思念』もしくは『想念』としての意味合いの方が強いからです。

世界というのは「あなたが意識したありのまま」あるいは「解釈」といってもいいかもしれません。

映画『マトリックス』が本当に伝えたいこと ~君は心の囚人 / What’s is Matrix 英語で読み解く』にも書いていますが、元々、世界というものは存在しない。その人の解釈した中に世界が現れる、というのが私のスタンスです。般若心経の「色即是空 空即是色」ですね。
「締め切り堤防」も、「作る」という人々の意思があって、はじめてこの世に現れる。
言い換えれば、この世に存在するものは、すべて人間の意思の表れなのです。

ローエングリン

私の世代で『ローエングリン』といえば、ペーター・ホフマンです(^^)

ドミンゴ、カレーラス、パヴァロッティを「テノール御三家」と呼ぶなら、「ワーグナー御三家」は、ルネ・コロ、ジークフリート・イェルザレム、そしてペーター・ホフマンでした。

通に言わせれば「歌はイマイチ」だそうですが、この人ほど舞台映えのするローエングリンもないでしょう。
ちなみに本作で「カールスルーエ」が登場するのは、ペーター・ホフマンがカールスルーエ音楽大学の出身だからです。
(ライン川も理由の一つだけど)

ワーグナーに憧れて、城まで建てちゃった人もいるからねぇ。
ワーグナーの前奏曲では「ローエングリン」と「ワルキューレ」が白眉のものです。
オペラの歌い手を容姿で選んだルートヴィヒの気持ちも分かります。

さざ波のようなストリングスが美しい。

何度も見てしまうペーター・ホフマンのDVD。。。

「わたしの名を決して尋ねてはいけないよ」
「はい、白鳥の騎士さま。お約束は必ず守ります」

ウォールのPhoto : https://goo.gl/QyyFbY

異教の魔女、オルトルートに「あの男は悪い魔法使いだよ」と吹き込まれ、新婚の夜、とうとう不安に耐えかねて、騎士の素性を尋ねてしまう。

結婚式の入場曲で有名な「タンタカタ~ン」は、本当は縁起の悪い曲なんですね。
この後、二人の結婚も敗れるから。別名「離婚ソング」です。

「聞くな」と言われたら、聞きたくなるのが人情。
エルザを不安にさせたローエングリンにも非はあるんじゃないか。。