曙光 Morgenrood

第6章 断崖

-対案-

対岸の思惑と一般人の不安 全ての人に分かりやすく

Introduction

水上コロニーの火災を機に、世論はパラディオン懐疑論に一気に傾く。不安に揺れる住民の為にも、パラディオンの対案として『リング』を提出することを決心したヴァルターは、新しい住まいにホワイトボードを設置し、周囲の協力を得て、プロジェクトを練り上げていく。
一方、リズは彼に運の風を吹かせる為に関係機関に働きかける。推進派、懐疑派の意見が真っ向から対立する中、ついにプレゼンテーションの機会が与えられる。


Quote

「どうしてこんな所にホワイトボードを掛けるのか、不思議なのかい? 本当は立派なプロジェクタを設置したいけど、今はそんな機材を購入する余裕もないから、ホワイトボードで間に合わせる。大きなプランを描くには大きなボードが必要だから」 
 彼は黒いボードマーカーを手に取ると、左から右に一本線を引いた。
「左端のここが起点。まだ0(ゼロ)だ。水の平原のように何も無い。そこから一つずつ立ち上げ、大海原にリングを構築する。右端が完成だ。何年、何十年かかるか分からないが、海を割り、大地を現わして、百万人が暮らす海洋都市を建設する。この線はロードマップだ。建設に必要な工程を経時的に組み立て、それを元に必要な人材、資金、材料、その他もろもろを調達する」
 彼がボードマーカーに更に印を書き加えると、ルークはリビングのおもちゃ箱を探り、マグネット式のお絵描きボードを手にして彼の足元に座った。
「お前も一緒にロードマップを描くのかい?」
 彼が目を細めると、ルークは目をきらきらさせながら頷いた。
「ローレル・インスティテュートのプロジェクトマネジメント講義で学んだ通りだ。まずは計画の立案。プロジェクトの理念、手法、到達点、隅々まで全体像を可視化する。それから建設に必要なプロセスをリストアップし、予算、スケジュール、分担など、具体的に設定する。これに並行して、鋼製ケーソンを製造する造船所や作業船の整備を行い、その作業能力を工程に反映していく……」
「最初に造船所や作業船の能力を正確に見極めた方がいい」
 リビングの戸口でマックスが言った。
「海にリングを建設するなら、予算や人手よりも後方支援の能力に左右される。どれほど綿密な計画を立てても、計算通りの海洋構造物を建造し、現場に曳航して、確実に海底面に設置する技術と設備がなければ用をなさないからな」
「それはそうだ」
「この際、『OpenPM』もマスターしろよ。建設工程支援システムとプロジェクト管理が一体になったグループウェアだ。マリン・ユナイテッド社をはじめ、多くの建設会社が使っている。末端の現場までデータを共有して、リアルタイムで編集や意見交換ができる」
「操作は難しい?」
「GeoCADより簡単だ。新入りの女の子でもオフィスの出納や作業員のスケジュール管理に使ってる」
 マックスは赤のボードマーカーを手に取ると、
「それから、ロードマップは一本じゃない。企画、設計、調達、建設、経理、広報、様々な部門が『完成』というゴールに向けて一斉に動き出す。役目も動きもみなばらばらだ。だが、それぞれが歯車のように密接に噛み合っている。一つの動きが別の部門を動かし、一つの遅れが全体に及ぶこともある。工程管理はさながら三次元チェスの駒を動かすようなものだ。フォーカス、アウト、フォーカス、アウト。視点を柔軟に動かして、大局と一局を同時に把握する。トップがどれだけ的確に現状把握するかでプロジェクトの良し悪しが決まる」
 マックスは彼の描いた黒線の上に赤線を重ね、リング・プロジェクトのロードマップの例を見せた。
「これが基本だ。リングの構築には大きく三つのプロセスが必要になる。まず建設予定区の基礎調査。それに並行して、事業計画、工程、資金調達といったプロジェクトの礎となる企画を立てる。リングの場合、場所の選定も大事だが、外周ダムの鋼製ケーソンをどこの造船ドックで製造するか、その資材をどうやって調達するか、この過程をどこまで合理化できるかでコストや工事の難易度が大きく違ってくる。基本のシナリオが万全になれば、構造物の詳細設計、工費の概算を明確にし、発注と業者の選定に駒を進める。そこからようやく施工だ。外周ダムと内周ダムの構築だけで軽く十年はかかる。内側を排水して、海底面が拝めるようになるまでさらに数年。それから地盤改良して、運河や排水設備を整え、都市部を建設するのに十数年。ここにビルや家が建つ頃には、お前も禿げか白髪だな」

*

「いよいよ運命の瞬間ですね」  エイドリアンがしみじみ言うと、リズは鏡を覗いてメイクを確認しながら、「運命というほどでもないわ」と呟いた。 「運命には予告など無いもの。いつも突然訪れて、跡形もなく去って行く。多くの人は、それが利運とさえ気付かず、後ろに逃してしまうもの。幸運はガラスの馬車に乗ってやって来ると思い込み、痛みの妖精が抱えた幸せの種には見向きもしないからよ。実際、運命ほど不可思議で、強力なものはないと思うわ。この世の全ては、見えない糸で織り上げられた一つの物語のよう。その中で、一人一人の存在など片糸ほどの意味もないかもしれない。かといって、運命が全てを支配するわけじゃない。運命がどんなシナリオを描こうと、意思が動かなければ何の形も成さないもの。運命は、それ自体に意味はないのよ。そこに意思が働いて初めて、意味のある何かになる。あの人が栄光を掴んだとしても、それは幸運ではなく意思の勝利よ。運命のお膳立ては、決して本人の目には見えないのだから」

*

 それでも、だらだら討議を繰り返し、一月も半ばになった頃、ついにリズは痺れを切らしたように全体構想の公募を提案した。
「パラディオン計画の見直しにはそれなりの理由が必要だと仰るなら、それに代わるアイデアを募る以外にないのではないですか。他に有用なアイデアがあるなら、それで十分、民意も得られるはずです」
「ミス・マクダエルの言う通りだよ」
と白髪のミムラ管理委員も同意した。
「パラディオンの是非を云々したところで根本的な解決にはならない。アステリアの住民が求めているのは、ペネロペ湾をどうするかの話ではなく、アステリア全体の展望だ。皆が納得のいくような明るい見通しだよ。たとえ、五年、十年かかっても、その先に豊かな未来が開けると分かれば多少の苦境も越えられる。もちろん、即効性の処方も必要だが、旧港の補修や集合住宅の増設といったことは、手持ちのカードで十分に対応できるんじゃないかね。パラディオンの是非はともかく、十年後、二十年後、アステリアがどこに向かうのか、皆が確かな指針を求めている。その一つの方策として出されたパラディオンに『NO』を突きつけている区民がこんなにも多いんだ。それでも強行すべき理由がどこにあるのかね」
「では、またコンペをやり直すのかね」
 推進派の一人がうんざりしたように切り返すと、
「コンペではない。討論だ。互いにアイデアを持ち寄って、徹底的に議論を尽くす」
「では、誰がジャッジするのです」
「決まってるじゃないか。区民だよ。トリヴィア市民も参加すればいい。彼らの税金も建設費に使われるんだ。トリヴィア市民にも一票投じる権利はある」
「市民に重大決議を任すのですか」
「大統領の選出も、憲法改正も、全体投票で決めておる!」
 ミムラ委員が一喝すると、リズが控えめに進言した。
「有識者による審査の後、区民投票で決めるのはいかがでしょう。どんな構想を出すにせよ、ある程度の水準は必要だと思います。まず最初に専門家による検証を行い、一定の基準を満たしたものについて、発案者が区民に向けてプレゼンテーションする、という流れはいかがでしょう」
「無駄足だ」
 推進派の一人が反駁した。
「まだこの上に全体構想を募集して、どこまで話を掻き回せば気が済むのです。ペネロペ湾のアイデアコンペを公募した時、ここまで異議はなかった。それがパラディオンに決まった途端、非難囂々だ。パラディオンにしたって、公開プレゼンテーションやオフィシャルサイトでの人気投票など、一般の声も反映して選出された。それが今頃になって計画の見直しだの、全体構想の公募だの、人を馬鹿にするのも程がある。実作に向けて、既に動き出している調査会社や設計事務所もあるのです。それらも無視して否決ですか」
「実際に着工すれば、もっと取り返しのつかないことになるよ」
 ミムラ委員も強い口調で帰した。
「実際に建設が始まれば、施工ミスだの、悪天候だの、想定外の出来事だの、あれやこれやで経費が膨らむのが目に見えている。ローレンシア島の海上空港だって、結局、最初の試算より一・三倍かかった。もっとも、あれは必要不可欠な施設だったから、政府も必死にやり繰りして完成に漕ぎ着けたがね。だが、パラディオンの予算はそれ以上だ。誤差も海上空港の比ではないだろう。百万、二百万の話なら、別のところを削って建設費に充てることも可能だが、十億、百億、まして兆単位の誤差になれば、『すみませんでした』で謝って済むものではないよ。皆それを懸念しているのだ」
 その時、様観していた協議員の一人が挙手し、「こちらの資料を見て頂けませんか」と大型プロジェクタに新しい試算表を写し出した。
 それは我が目を疑うような数値であった。
 これまで産業省の試算では「総工費二十兆」とされてきたが、別の専門機関がきわめて忠実に工程をシミュレーションし、海洋構造物の維持費や、航路・空路のインフラ整備、上下水道・給電システムの拡張工事など、細かに加算したところ、総額は二十五兆をはるかに超え、アステリアのみならずトリヴィアの財政をも圧迫する内容となっている。
 推進派は顔を真っ赤にし、「でたらめだ! 悪意をもって試算されたとしか思えない」と反論したが、
「でたらめではありません」
 提出した協議員が答えた。
「エルバラード大学の土木研究所で試算させたものです。今まで試算は産業省内だけで行われ、セカンド・オピニオンを仰ぐこともありませんでした。これほどの巨大建設にもかかわらず、最高の権威である土木研究所に一つの問い合わせもなかったのが不思議なくらいです」
 一同がざわつくと、ミムラ委員も「だから不透明と言われるんだ」と諌言した。
「どこの誰が試算したかも分からない机上の数値を振りかざして、全体の益になるなどと大言するから不信を買うんだよ」

*

 オンラインTVにアクセスすると、フランシス・メイヤーとアイデアコンペを主催したペネロペDCの代表が記者会見を開いている。
 彼らは『全体構想』に異議を唱え、直接利益を侵害せずとも、パラディオンの対案を意図しているのは明らかであり、アイデアコンペの権利と名誉を不当に貶めるものだと主張する。
 それに対し、開発協議会の委員長は「全体構想は決してパラディオンの対案ではない」と反論する。あくまでアステリア全体の展望を問うものであり、パラディオンやペネロペDCの利益を横取りするのが目的ではないと。
 だが、メイヤーとペネロペDCの代表は怒りを露わにし、もし開発協議会が公募を続行し、その為にメイヤーとアイデアコンペの入賞者、公社の関係者が不利益を被る場合は訴訟も辞さない構えだ。
 TVカメラの前でメイヤーは断言する。
「たとえ全体構想と銘打とうと、パラディオンの対案であるのは明らかだ。これは一方的に計画を阻止しようとする計謀に他ならない。もし、我々の名誉と利益を傷つけるものがあれば、相手が何ものであれ、今度は容赦しない。徹底して争い、そして、我々が勝利する。それでも来るというなら、わたしも受けて立とう。だが、理想でアステリアは救えない。誰が大衆の味方を気取ろうと、わたしには論破する自信がある。ましてパラディオンに匹敵する巨大建設など、陳腐な猿真似に過ぎない。この愚かな試みによって、逆に有力な支援者がアステリアから遠のき、諸問題の解決がますます遅れを取ることになれば、どう始末をつけるのか。全体構想の公募は多方面の権利の侵害であり、先に名誉を得た者に対する嫉妬以外の何ものでもない」
 それが誰に向けられたものか、言わずもがなだ。
 メイヤーも当然、彼がリングを携えて出てくると予測している。
 その牽制にしては、あまりに姑息で、みみっちく感じたが、事情を知らない者には結構な脅しだ。バックにメイヤー&パーマー・グループが付き、これまでにも大型プロジェクトを幾つも手掛けてきた世界的な建築家に正面から立ち向かうなど、同じ業界の人間なら二の足を踏むだろう。
 さらにメイヤーは言い放つ。
「水上コロニーの火事を利用して大衆を扇情する動きもあるが、火事は火事、開発は開発だ。パラディオンと水上ハウスを同一視し、『だからパラディオンは危険だ』と決め付ける者もいるが、浅はかな感情論としか言い様がない。ステラマリスにもホテル、橋梁、マリーナなど、数多くの海上施設が存在するが、一部が危惧するような大事故は、ここ数百年、起きた試しがない。そんな事を言い出せば、ありとあらゆる海洋構造物が危険の対象になる。ただ一度の特異な例をあげつらい、全てを否定するなど論外だ。近海に堤防を築いて干拓云々という話もあるが、堤防にも決壊の危険性は永久につきまとう。誤った正義感は町を滅ぼすだけだ」
 違う。
 堤防そのものが問題なのではない。
 老朽化や脆弱性に気付かず、管理を怠った人間に非があるのだ。
 実際、予算をかけて毎年のように調査や補修が行われる大堤防で深刻な問題が生じたことはない。そして、何百年と町を守り続けている。
 パラディオンも同じだ。構造物そのものが問題ではなく、それに携わる人間に不信があるから大勢が異議を唱えているのだ。NOを突きつけているのは「作品」ではなく、メイヤーとその周辺で画策している一味だということになぜ気付かない?

*

 ヴァルターはポートプレミエルにある小学校で『海洋開発と国土の創造』というテーマで講義を行った。
 彼に声をかけた女性教師は、ウェストフィリア実況に感銘を受けたという。その後、オーシャン・ポータルで彼のことを知り、今、ローランド島でも問題になっている土地や住宅問題も含めて、子供たちに分かりやすく説明して欲しいと申し出た。
 全体構想の提出期限も間近に迫り、今は少しでも仕上げに時間をかけたいところだが、小学生を相手に説明するのも良い練習になると考え、快諾した。教室には九歳から十二歳の三十五名の児童が集まり、カーネリアンⅡ号やプロテウスの写真、メテオラ海丘の海底に生息する『虫(ワーム)』の動画などに熱心に見入った。
 続いて、巨大な締切り堤防(アフシユライトダイク)によって作り出された内海と干拓地、道路より高い所を流れる運河と排水設備、潮位によって開閉する可動式堤防などを紹介し、「社会の基盤は土地だよ」と強調した。
「君たちが住む家も、野菜や果物の育つ畑も、道路も、工場も、すべて土地に築かれる。その礎となるものが、ちょっと雨が降っただけで土砂が崩れたり、川の水が氾濫したり、道路が傷んでしまうようでは、とても安心して暮らせない。また、土地が痩せて、野菜も果物も育たなかったら、そこに生きる人々も死んでしまう。盤石で豊かな土地があってはじめて、社会も発展するんだよ」
「でも、アステリアには小さな島が二つしかないわ」
と前列の女の子が呟いた。
「今に大勢が水上に暮らすことになるとパパが言ってたわ。ボートを海に浮かべるんですって」
「だからパラディオンを作るんだよ」
 隣の男の子が答えた。
「直径七キロの人工島にホテルやアパートを建てるんだ」
「でも、それはお金持ちの住む豪邸で、普通の人にはとても買えないとパパが言ってたわ」
「だから、いろんな方法を考えるんだ」
 彼はもう一度、様々な海洋構造物や臨海都市のパネルを写し出した。
「パラディオンのように鋼製の構造物を設置して、海上に住む方法。沿岸を埋め立てる方法。内湾を堤防で仕切って干拓する方法。これからアステリアの小さな用地をどう活かすか、君たちで考えて、この島に合ったユニークな方法を考えればいい。その為の勉強だ」
「こんな小さな島で何が出来るの」
「確かに目に見える部分は小さい。使える土地を全て整備しても、許容人口は四十万が限度と言われている。だが、アステリア全体を見渡してごらん。そのうちウェストフィリアにも大型タンカーを係留できる港ができるし、島の南端では鉱業や製造業の基地も開かれる。火山や温泉を利用した観光業も可能だろう。また、ローレンシア海の裏側にも二つの島がある。どちらも絶海の孤島で、ここから数千キロも隔っているが、全く何の価値もないわけじゃない。南極部の大陸も詳しく調べれば何か出てくるはずだ。海そのものが可能性なんだよ。肝心なのは興味を持つこと。そして、調べること。『何も無い』と見切れば、それまでだ。どんな所にもアイデアの種は眠っている。それを見つけて、大きく育てるのが君たちの仕事だ」
 講義が終わると、教室の隅で見ていた女性教師が「話がお上手ですね」と感嘆した。
「特別な訓練でも受けられたのですか」
「いいえ、特別には。あえて言うなら、父が話し上手でした。何でも世界の事象に喩えて、子供にも分かりやすく説明してくれました」
「それも一つの才能ですね」
「才能なんですか?」
「そうですよ。教師でも、知識は深いのに喋りが苦手で、上手く伝えられない方もありますもの」
 そういう考え方もあるのかと、彼は不思議な気持ちで受け止める。
「パラディオンはどうなるのでしょうね」
 教壇の機材を片付けながら女性教師が呟いた。
「本当にあんな大きな施設が必要なのか、みな不安に感じています。大勢が幸せに暮らせるならいいですが、一棟、一億エルクもするような高級住宅をキャッシュで買える層が流れ込めば、私たちの暮らしも大きく左右されますもの」
「それは物価の上昇や住宅不足を懸念されているのですか」
「それもありますけど、みな生活物資の不足を心配しているのですわ」
「生活物資の不足?」
 彼は我が耳を疑った。
「そうです。とりわけ生鮮食品の買い占めですわ」
「それは初めて聞きました」
「お金持ちが上等な暮らしをされるのは一向に構わないんですよ。ただ、良い物はどうしてもキャッシュのある方に流れていくでしょう。ただでさえアステリアは食糧の大半をトリヴィアからの輸送に頼り、生鮮食品も割高で、質のいいものはあっという間にスーパーから消えてしまいます。これも家庭の主婦にとっては頭の痛い問題です。先日も、行きつけのスーパーで、パック入りのイチゴが半日で売り切れました。まさかと思って顔見知りの店員に聞くと、どこかのご婦人が大量にまとめ買いしたそうです。ワンパック、七〇〇エルクもするイチゴを三〇箱も。次の入荷は八日後と聞くと、その場で買い上げたそうですわ。新鮮なうちに冷凍保存して、ジャムやケーキに使うのですって。それも個人の自由ですけど、庶民には庶民の気遣いというものがあって、他の方にも行き渡るよう、無茶な買い占めはしないものです。隣町にイチゴ畑があって、毎日入荷するわけじゃないんですから。イチゴに限らず、レタスでも、白身魚でも、何でもそうです。だから、主婦は戦々恐々としてるんですよ。お金持ちが大挙して押しかけたら、店頭から生鮮食品があっという間に消えるんじゃないかって。それはそれで対策があるんでしょうけど、庶民には脅威ですわ。洋服や日用品は我慢できても、食品は毎日口にする命の糧ですから」
「仰りたいことは、非常によく分かります」
「下らないと思われるかもしれませんが、主婦って、そういう事が気になるんですよ」
「ちっとも下らなくないですよ。俺にも一歳の子供がいます。新鮮で栄養たっぷりな物を食べさせたい気持ちは同じです。俺は豊かな干拓地に育って、店頭から野菜や果物が消えるなど考えたこともなかったけど、ここのスーパーではたまにありますからね。冷凍でいいじゃないか、という話なんでしょうけど、食生活って、そういうものではないですからね」
「そうよ、よく分かってらっしゃるわ。あなた、主婦を味方につければ最強よ」
「そうなんですか」
「当たり前じゃない。政治家に投票するのも、主婦の意見が夫に影響するのよ。主婦の支持を得れば、二票獲得したも同然。パラディオンも、あの虫眼鏡みたいな人、なんて言ったかしら――そうそう、メイヤーっていうの? 主婦の気持ちなんて、何も考えてなさそうだもの。あんなのが本当に建設されて、お金持ちの奥様方が生鮮食品を買い占めるようになったら、最悪だわ。ちなみに、『リング』はパラディオンとどう違うのです?」
 これは意外な質問だ。一見して分からないものだろうか。
「パラディオンは海底に鋼製の構造部を設置して、その上に建物を作りますが、リングは二重ダムの内側の海水をドライアップして現出した海底面に建物を作ります」
「つまり、海水面より低い所に建物を建てるの? すり鉢の底みたいに?」
「概念としては、そうです」
「でも、海の底なんて想像がつかなくて。堤防の中って、どんな感じなの」
 彼はLeopardを開き、ゼーラント州の干拓地の写真を何枚か見せた。
「これは堤防内部の町並みです。海面と二階の屋根が同じくらいの高さでしょう。この家が建っている一帯は二世紀前に作られた干拓地です。最初に自然堤防を築き、徐々に排水して、農耕地や宅地に利用しています。こちらは海水浴場の裏手の駐車場。コンクリートダムの内側の駐車スペースが海面よりはるかに低いでしょう。でも、威圧感はほとんどありません」「写真で見たら、ずいぶん自然ですね。『海面より低い土地』って、もっとおどろおどろしいイメージでしたけど」
「干拓地のど真ん中に暮らせば、気にもならないですよ。俺の友人は堤防のすぐ側に住んでいましたが、二階の部屋の窓から堤防の天端でランニングする人がいつも見えたそうです。でも、それが日常の風景なんです」
「まあ、そうなんですか」
 女性教師は可笑しそうに笑った。
「リングの場合、内周ダムの法面は緑化して、菜園や自然歩道に応用しますし、ダムに添って二車線の環状道路も敷設しますから、この写真の家よりは圧迫感が少ないです」
「それじゃあ、陸上の町とあまり変わらないのかしら」
「真ん中の居住区は干拓地と同じで、ほとんど違和感なく暮らせますよ」
 女性教師は、その他の写真も興味深く眺め、
「正直、素人にはパラディオンもリングも大差ないように感じます。『堤防内部の海水を排水して海底面に暮らす』というのがピンとこないんですよ。その辺り、もう少し具体的にイメージを提示されると、共感を得やすいのではないでしょうか」
 なるほど、と彼は納得した。彼にとっては堤防も干拓地もありふれた光景だが、全く知らない人にはイメージすら難しいだろう。
 今まで専門家の見地にこだわってきたが、肝心なのは知識を持ち合わせない大多数の人だ。そこに分かりやすくアプローチできるか否かで印象もずいぶん違ってくる。
「よければ、集まれる人だけ集まって、プレゼンテーションを聞いて頂けませんか? 二十分ほどで終わります」
「じゃあ、午後の授業が終わった時に」
 女性教師は快諾すると、都合がつきそうな教員に声をかけた。
 直接関係ないからこそ聞いてもらう価値がある。
 それは企画書を完璧に仕上げるよりも、何よりも重要に思えた。


Product Notes

干拓地といえば、オランダのポルダー。海面下より低い土地を上手にいかし、農業や畜産業に役立てています。よそでは見られない、ユニークな地形や風景もしばしば。水際に行くと、よくこんな所に住む気になったなぁと感心すること、しきり。水が家の中に入ってきますよ、奥さん! みたいな所に、普通に家が建ってます。日本じゃ考えられない。

こちらはアメリカを舞台にした未来の高層ビルのアイデア。

そのうち大気圏を突き抜けて、月まで届くんじゃないでしょうかね。

建築も「考えるだけ」なら自由ですから。実際、建設されるとなると、問題は桁違いです。それでも、「やったもん勝ち」といったところでしょうか。物の後先など、何も考えてない建築物も少なくありません。

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