17-4 虚偽の強要と科学者の良心

極海

不思議な地下の間隙が見られる南のマウンド群へ潜航場所の変更を申し入れたところ、オリアナはヴァルターに激しく抗議する。
ヴァルターもまた、オリアナらが画像データの改ざんを行った事を指摘し、調査場所の変更は科学的にも意義あることだと反論する。

変更の件はロバート・ファーラーにも伝わり、個人的に呼び出されたヴァルターは遠回しに「見て見ぬ振り」を強要される。
あくまで科学者の良心を尊重するヴァルターに、ファーラーは「学説も金で買える時代だ」と反論する。

引用

WEBに掲載している文章は『第二稿』です。書籍版とは内容が若干異なります。
「メテオラ海丘に関する大半のデータが失われたのは本当よ」
 ファーラーに代わってオリアナが答えた。
「コンチネンタル号の座礁で電気系統がやられ、サンプルを保存していたラボラトリの冷凍庫も、保温器も、何もかも浸水した。研究者個人的に所有していたPCや記録メディアも同様よ。船のデータサーバーと本社のデータシステムをリアルタイムで完全同期してたけど、サンプルが無いことには立証も出来ない。それゆえ、ローガン・フィールズ社の負債もいっそう大きくなった。そうこうするうち祖父は病死し、解散した役員は我先に逃げ出して、残されたデータに見向きもしなかった。それが今、私の父を経て、こうして表に出てきたという訳よ」
「だったら、そのように説明すればいいじゃないか。スパイごっこじゃあるまいし、何の為にそこまで機密性にこだわる? 有用な情報は積極的に情報を公開して、優秀な専門家を誘致すれば、研究開発にも弾みがつくだろう。それこそ、もっと安全に鉱物資源を回収する手立てが見つかって、重労働や鉱害病で苦しむ人も激減するだろうに」
「君もよくよく夢見がちな理想肌だな。みなで仲良く富を分け合い、この世から貧苦をなくすのが最善だと本気で思っているのかね? 今、底辺にいる者たちが、君と同じように最新のIT機器を買い求め、高性能の自動車を乗り回し、最先端の文明生活を享受するようになったら、鉱物資源などあっという間に枯渇して、社会が成り立たなくなる。我々だって、好きで地下数百メートルの坑道に労働者を送り込んでるわけじゃない。だが、彼らにも日銭は必要だ。我々は雇用という形で彼らを救済しているんだよ。よその会社では到底相手にされない、低能やアル中やぼんくらも含めてな。そして、彼らも、君と同じように最新式の電話やPCを買って、快適な生活を享受したい。その為なら高温高湿の地下坑道にも躊躇せずに入る。世の中というのは、そういう矛盾があればこそ回るものだ。君のように綺麗事を並べても、誰も救われない」
「あんたは人間ってものをまるで分かっちゃない。たとえ、そうやって、飼い犬みたいに坑道に繋がれても、個々の自由と人生はその人たちのものだ。あんたは支配しているつもりでも、一人一人はそうは思ってない。にもかかわらず、自分はこの世の王だと自惚れているとしたら、それこそ道化だ。情勢が変われば、あんたみたいな人間から真っ先に街灯に吊される。誰もあんたに恩義も尊敬も感じてないから」
「そうかね」
「ともかく、明日の調査は我々に任せて欲しい。カルデラ底を調べるより、きっと価値あるものが見つかる。音響測深や音波探査ではっきりしてるんだ。あのマウンド群に海のメカニズムを解く何かが存在することが」
「何か、何かと、漠然と言われても分からんね。今回の調査は海底鉱物資源を主眼とするものだ。君ら研究員の科学的好奇心を満たす為に、数千万エルクを負担してプロテウスを投じたわけじゃない」
「あんたも分からん人だね。同じ海底鉱物資源でも、基礎岩を覆う海台クラストと、熱水噴出孔に沈殿する多金属硫化物は、性質も、プロセスもまったく異なる。加えて、アステリアとステラマリスでは海水の成分からして違うんだ。それを理解して初めて、海底の鉱物資源に効率よくアプローチできる。あんたの考え方では、百万回潜航しても、目指すものには辿り着けない」

<中略>

「君はプロテウスのパイロットとして海洋調査に打ち込んでいるのが一番似合ってる。功を上げたければ、海洋科学の世界で腕を振るえばいい。そうすれば、誰の恨みも買わないし、大切な人が争いに巻き込まれることもない。マクダエル社長を見たまえ。なまじ海台クラストに手を出したばかりに、至る所、敵だらけだ。魅力的な令嬢は一人で町も歩けない。君だって、いつかは彼女と幸せに暮らしたいだろう? 海の見える家で、可愛い坊やを育てて、仕事に手応えを感じながら、良き市民として生きていく。だが、それも『人の恨みを買わなければ』の話だ。畑違いのことに首を突っ込むと、後々まで禍根を残すことになる。君も自分の身の回りの幸せを一番に考えて、身の丈に合った生き方をすればどうだ。それが君の為だし、君の大切な人の為でもある」
「だから『黙ってろ』と――何を見ても聞いても、知らぬ存ぜぬで通せと言いたいのか」
「君は物分かりのいい青年だと聞いている。今時珍しいほど真面目で熱心だ。どこに勤めても、一部署の主任ぐらいにはなれるだろう。わざわざ自分から災難を背負い込むような真似はせず、その優れた能力を他のことに活かせと勧めているんだ」
「だが、プロテウスのカメラが捉えたら、知らぬ存ぜぬでは通らぬこともある」
「たとえカメラが捉えても、『誰も見なかった』ものは存在しない。違うかね?」
「科学者に魂を売れと?」
「学説も金で買える時代だよ」
 ファーラーが平然と言ってのけると、彼も怒りを通り越して、虚無感のようなものを覚えたが、これまでの歩みを振り返り、確たる思いで返した。
「俺達が見て見ぬ振りをしても、海は生き続ける。あんたの会社が潰れて、人類が滅び去ったその後も、星を廻り、波を打ち寄せながら、同じ営みを続けるだろう。lactor et emergo(わたしは闘い、水の中から姿を現す)――それが命あるものの本質だ。いずれ頭をもたげ、俺やあんたの目の前に生来の姿を表わす」

Product Notes

こちらも海洋調査の技術について、いろいろ紹介しています。
必要なのは研究者だけじゃない、甲板で調査機器をオペレーションする人、データ解析をする人、調査船を運航する人、様々な職種の人が集まって、一つのミッションを完遂します。
ドローンを飛ばせば、山の全容が観察できるのと大きく異なる所以です。

Ocean Network Canadaの海洋調査の模様
ROV Oceanic Explorer is recovered after connection multiple instruments to the S Node

Jackson, Meghan, and Xi observe a dive while collecting log data

自説を主張して火刑に処されたといえば、ジョルダーノ・ブルーノが有名ですね。
ドミニコ会の修道士でありながら、コペルニクスの地動説を支持し、裁判で異端者とみなされても持論を撤回しませんでした。

哲学者としても有名な方なので、興味のある方はこちらなど。

ウォールのPhoto : http://www.nautiluslive.org/science