「人を助ける」ということ

2017年9月15日Notes of Life, 人間のこと

人間の圧倒的な苦しみ、哀しみの前には、なすすべなく、立ち尽くしかない──。

この世には神様にしか癒せないものがたくさんあって、何かすれば人が救われる、なんて考え自体がおこがましいのではないか……というのが、何年も看護業務に携わってきた私の強い実感でした。

そして、恐らく、あの3月11日より、「人助け」というものについて、これほど国民全体が考えたこともなかったのでは、と思います。

でも、一方で、「人を助ける」という行為を絶対的善と思い描き、自分自身に期待してしまうと、現実とのギャップから燃え尽き症候群になりやすい。

圧倒的な悲劇を前にしたら、人ひとりの「優しさ」とか「正義感」なんて何の役にも立たないことを思い知らされる。「役に立てる!」と思って張り切って来た自分は何だったのか……と、打ちのめされる瞬間です。

が、こうした無力感を経験して、初めて人は謙虚になれるし、自分の限界を知ってこそ、適切な援助ができるようになる。

相手に対してどこか万能感があるうちは、物事に批判がましくなり、援助も上手く行きません。

お腹の空いた人にオニギリをあげさえすれば相手が満足する、というものじゃないんですよね。たとえその人の空腹が満たされたとしても。

『助ける』って、本当に難しい。

簡単に言うけれど、「本当に相手の為になる援助」って、誰もが考えて出来ることじゃないです。

ヘソを曲げられ、嫌みを言われ、時にはケンカになり、様々なプロセスを経験してはじめて、「援助する側とされる側の距離の取り方」というのが分かってくる。

だから、看護学校でも、「プロセスレコード」を徹底的に訓練されます。自分の行った援助について、患者さんはどのような反応を示したか、自分の判断や行為は適切だったか、いわば自省の塊のような分析レポートを毎日山のように書かされて、やっと臨床に出て行ける。

それはまた、自分の一番嫌な部分と向き合うことでもあります。

どれほど意気揚々、助ける意欲満々で出かけていっても、

「もう~~、こんな小さなことで、いつまでも落ち込まないでほしいなぁ。。他にもっと大変な人がいる、その人達は笑顔で頑張ってるのに・・」

「この人、どんどん要求がエスカレートしてる。みんな遠慮してるのに、なんか、厚かましくない??」

そういう不満って必ず出てきます。

その時、自分の狭量さに愕然とすることもあれば、他の大らかな援助者の態度に、人間としての卑小さを感じて落ち込んだり……。

ある意味、人助けというのは、自分の器を思い知らされることでもありますね。

「あれでよかったのか」「もっと適切な言葉かけがあったのではないか」、毎日が反省会です。

自分の仕事に満足することなんて、ありません。充実感はあっても、いつも何か足りないような気がするものです。

そこで自分の弱さから目を背けると続かなくなる。

正直、「誰かに何かする」より、突如として自分の中に湧き上がる苛立ち、無力感、不条理感、疑問、etc、そういったものと闘う方が、うんとしんどいかも、です。

だから、「人を助ける」ということは誰にでも出来るけど、「的確な」となると、誰にでも出来ることじゃない。

自分という人間の限界、あるいは適性というものを知った上で援助の手を差し伸べないと、お互いに傷つくことがある。

その難しさを、「絶対的善」のオブラートに包むことなく、本音で語り合える場ももって欲しい。

援助、援助、とかけ声するだけでなく、「援助の本質」というものを考えないと、過剰な期待でどちらも潰れちゃうしね。

援助されている皆さんは、善人になろうとして、心が燃え尽きて、疲れてしまわないように。

そして、行政は、援助を絶対善のオブラートに包まないように。

常に現実的な視点がそこにあることを願っています。

§ 香山リカさんの寄稿より

著書では批判も多い香山さんですが、この原稿はいいな、と思いました。

特に若い人は正義感だけで先走る。私もそうだったけど。

所々、省略してますが、参考にどうぞ。

かわいそうな被災者」という勝手なイメージを押しつけてはいけない

今回の訪問で強く感じたのは、被災地には人の数だけ問題があるということです。家も家族も仕事も失った人もいれば、家族は無事で一緒に避難所生活をしている人、また被災から逃れた家で暮らしている人もいます。被害の情況もまちまちであれば、負った悲しみや苦しみへの思いも人それぞれです。それをあたかも、被災地にいる人がすべて同じような苦しみに喘いでいるかのように、一様に「頑張ろう」と言われても、それぞれの被災者の方のこころに届くのだろうか。そんな疑問を感じます。

東京に限らず、いろいろなところでチャリティーイベントが開かれています。

「いま自分にできることをやる」

その意義はよくわかりますし、イベントに来ている人や、壇上に立つ人の善意を疑うつもりは毛頭ありません。しかし、それは被災地のそれぞれの人の事情とはまったく関係のないところで行われていることを自覚することは大切でしょう。

例えば「私の歌を聞いてください」とYouTubeで自作の歌を流す。もしかしたら被災地に届いて癒される人がいるかもしれません。何かをせずにはいられないという気持ちもわかります。

私たちは、すべての被災者を同一視し、勝手なイメージを作り上げていないでしょうか。その像に基づいて「心は一つです」「東北がんばれ」と連呼する押しつけがましい支援になっていないでしょうか。

被災地の多くの人は「ありがたい」と口にします。とはいえ「がんばれといっても、これ以上何をがんばればいいのかねぇ」とため息を漏らす人もいます。被災者にとってはピントの外れた支援にも、感謝の言葉を並べなければならないのが現状なのです。

原発問題をはじめ、日本の社会のありようについては、超長期にわたって考え続けていかなければならない問題です。だからこそ、現実逃避をすることでこころを平静な状態に戻すべきだと思います。

もちろん、震災のことを考え続ける人もいい。しかし、もしいまが辛い状況だと感じていたら、テレビやラジオやインターネットから離れて、震災のことを考えない日を作ってもいいと私は思います。

ひとときだけでも気を紛らし、現実逃避をすることによって、再び現実に戻ったときにこれまでと違った向き合い方ができるようになっているかもしれません。

§ 心が動けば、人が動く。人が動けば、世界が動く

それでも「何かしたい」という気持ちは、大事に持ち続けて欲しいですよね、特に、若い人。

今為すべきことが分からなくても、心が動くだけでいい。

その時、感じた、同情、衝動、正義感、持ち続けて考える。

10年後、20年後に結実するかもしれないしね。

写真はhttp://www.boston.com/bigpicture/2011/04/japans_crisis_one_month_later.htmlより。