32-1 堤防の補強工事をめぐる謀議

2017年9月27日人と社会, 公共事業と人間の価値, 建築土木と社会

ドイツ在住のジャーナリスト、ブリュンヒルデ・シュヴァインシュタイガーはいつものように仕事のメールチェックを済ませ、新聞社からのオファーに目を通す。
その最中、ジャーナリスト仲間のリロイ・ファン・デル・サールからメッセージを受け取る。
リロイが追っているのは、フェールダムの締め切り堤防の補強案に絡む、二十年前の謀議だ。

そんなブリュンヒルデの元に「アンヌ=マリー・ラクロワ」の代理人から電話がかかってくる。
マルセイユに赴くブリュンヒルデの脳裏には「血塗られたラクロワ」の噂が浮かぶ……。

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「君の友人は、ずっと以前、ノルディア・コンサルタンツ絡みの不正を追及したことがあったな。測量や地質調査、開発事業設計などを手掛ける大会社だ」
「ええ、五年ほどコバンザメみたいにくっついて、黒幕を逮捕させるに至ったわ。自治体発注の橋梁工事で、担当者がノルディア・コンサルタンツと密約を交わし、見返りに多額の金銭を受け取った事件よ。でも、本当の黒幕は別にいた。その証拠を掴むのに八〇キロあった体重が六〇キロまで減ったと言ってたわ。それでも会社にしてみたら、トカゲの尻尾切りみたいなものよ。一匹が潰れても、また新しいのがぞろぞろ湧いてくる。ムジナの穴は本当にキリがない。それで、あなたは何を追ってるの? 新人女優のスリーサイズ? それともキンデルダイクの風車がついに核融合に成功した話?」
「ふざけるなよ。今度のテーマは牛とは比べものにならない。大勢の人が家を流され、人命も失われた。もしかしたら前代未聞の集団訴訟になるかもしれない」
「どういうこと」
「フェールダムの話はしただろう。締め切り堤防が決壊して干拓地の大部分が浸水し、最後まで堤防を守っていた七名の作業員が亡くなった」
「覚えてるわ」
「どうやら不正があったらしい。地元で治水に携わる専門家が何度も堤防補強を進言し、自治体の担当も一旦は諒解したにも関わらず、突然、不可解な理由で工事がお流れになった。堤防が決壊したのは、次の冬のことだよ」
「よくある話ね。それもノルディア・コンサルタンツが絡んでるの?」
「証拠はない。だが、治水局や河川調査に関わっていた人の話を聞く限り、どこからかの圧力で補強計画が揉み消され、予算が川向こうの可動式大堤防の補強工事に流れたのは確かだと思う。工事の先延ばしの理由付けに使われたのがノルディア・コンサルタンツの測量データだ。彼らはそれを持ち出して、地元の治水研究会が数年かけて導きだしたデータを否定した。ちなみに、その時、治水行政に力を持っていたのがピーター・バンデンバーグ議員。洪水の十年後、ノルディア・コンサルタンツの理事に就任している」
「なかなか含みのある話じゃないの」
「しかも怪しいのはそれだけじゃない。三年前、フェールダムで再建案を問うアイデアコンペが開催された。その時、実行委員長を務めたのが、復興対策委員会のマルテン・スミットで、スミットの親戚筋はノールト・アセットマネジメント・コーポレーション投資会社の役員だ。そして、この会社はロイヤルボーデン社の大口株主でもある。つまり、ロイヤルボーデン社が実入りのいい工事を手掛ければ、回り回ってマルテン・スミットも潤う仕掛けだ」
「マルテン・スミットとピーター・バンデンバーグの関係は?」
「ノールト・アセットマネジメント・コーポレーションは、しばしばノルディア・コンサルタンツの手掛ける開発事業に投資をして利益を得ている。資金のみならず、コネクションにも一役買っているようだ」
「確たる証拠はないの?」
「なにせ二十年以上前のことだからね。当時の関係者は方々に散らばって、居所を突き止めるだけでも至難だし、既に亡くなってる人も少なくない。それに記憶も曖昧で、有力な証人にやっと会えても、思い出語りだけでは立証のしようがない。正直、『疑い』だけで終わってしまうような気がして悔しいんだ」
「ずいぶん弱気じゃないの。途中で諦めるぐらいなら、乳牛の話でもやってれば?」
「からかうなよ。僕は本気で真相を暴きたいんだ」
「どうしてなの」
「洪水の夜、僕の父親は我先に逃げ出した。建設会社の役員で、運河や橋梁の保全に関わっていたにもかかわらずね。七十歳を過ぎた今も健在だ。復興工事で大儲けして、一財産を築いた。だが、そんな事を誇れるか? あの時、お前の父親は何所にいた、お前は何をしていたと問われたら、僕には答えられない。真相を暴くのは、せめてもの罪滅ぼしだ。父とは対照的に、最後まで堤防を守って死んだ人たちへのね」
「リロイ。あなたの気持ちも分かるけど、不可抗力もあるわ。誰かが死ねば、誰かが生き長らえる。それが世の定めよ。それに逃げたのはあなたでなくて、父親でしょう。何時までも良心の呵責に苛まれることはないわ」
「そんな風に言われても、何の慰めにもならない。一度ばかりか二度までも、僕は傍観してたんだからな」
「どういう意味?」
「三年前、フェールダムの再建案をめぐってアイデアコンペが開かれた。世界的な建築家を相手取って、僕より若い世代が真っ向勝負し、一般投票で一位になった。それだけじゃない。彼らはいち早くボランティアグループを結成し、行政が本腰を上げる前から土壌改良や植樹や瓦礫の撤去に取り組んできた。その間、僕は何をしてた? 故郷の惨状も見て見ぬ振りで、キャリア作りに躍起になっていた。ともかく、ノルディア・コンサルタンツの情報をくれ。どんな小さなことでもいい」
「リロイ。焦ってはだめよ。あなたがムジナの穴を掘り返そうとしているのが分かれば、証拠の方から逃げていくわ。善良な人でも口を閉ざし、大事な書類も闇に葬られる。まして相手は治水行政の大物でしょう。当然のこと、企業、金融、四方八方に太いコネクションを持っている。確たる証拠もなしに突き崩せる相手じゃない。だからといって、諦める理由もない。たとえ疑惑で終わっても、問題を提起し、人々の注意を喚起することにジャーナリズムの意義があるのよ。そこはあなたの筆力次第。あなたも物書きの端くれなら、ペンの力を信じなきゃ」

Product Notes

マルセイユも伝統のあるユニークな港湾都市なのですが、リュック・ベンソンあたりの映画を観られた方なら「フレンチ・マフィアの巣窟」のイメージも強いのではないでしょうか。
実際、『フレンチコネクション』という映画でも実話ベースの麻薬組織撲滅が描かれていますし(マルセイユ-ニューヨーク間の取引)、人身売買やら密輸やら、いろいろ手広くやってるみたいです。私の知人も「観光はいいけど、住みたくない」と言ってました。

ちなみに「丘向こう」というのは完全に私の創作です。丘陵はありますが、Google Mapで見た限り、豪邸がぼこぼこ建つほどの敷地面積は無いです^^;

これも面白かった。でも、マルセイユは怖い。