恋の結果にとらわれない ~本当に幸せな結末とは~

2017年9月15日恋と女性の生き方, 恋愛コラム

原哲夫さんの歴史漫画『花の慶次』という作品に、主人公の慶次が、戦国の定めにより思いを遂げることができなかった武士に対して、『結ばれるばかりが恋じゃないさ』と語りかける場面があります。
恋を語った言葉の中で、私が特に気に入っているものの一つです。

恋をして交際が深くなると、多くの女性が、
「この先、私たちはどうなるの」
「彼は二人の将来をどれくらい真剣に考えているの」
といった不安にかられるものです。
中には結論を急ぎ過ぎるがために同棲や結婚をほのめかし、それが元で気まずくなってしまうカップルも少なくありません。
 
それは、多くの女性が、「愛され、選ばれること」に一番の価値を置いているからでしょう。
愛されれば自分に価値があると思い、愛されなければプライドに傷がつく。
だから、自分のプライドを守る為に、何が何でも相手の心を自分に向けさせよう、
自分の思う通りの結末にこぎつけようとするのでしゃないでしょうか。

恋に結果ばかり追い求めると、自分自身はもちろん、相手の心も見失います。
相手を自分の思う通りに操作しようとして、ますます事態を悪化させてしまうのです。

物事には成就するにふさわしい時期があり、プロセスがあります。
どうあがいても動かない時は動かないし、じっと嵐が過ぎ去るのを待つしかない場合もあります。

その度に、
「ああ、もうイヤだ、こんな辛いことには耐えられない、別れよう」
「彼に何とかしてもらおう」
と逃げ回り、結論を急ぐと、リンゴが熟す前に枝からポトンと落ちるようなことになるのです。

私たちは目隠ししながらマラソンしているようなものです。
その道がどこまで続いていて、どこでどう折れ曲がっているのか、先にはどんな障害物が待ち受けているのか、今、自分がどの地点に立っているのかさえ本人には分かりません。
分かるのは、先の見えない道と、必死で走る自分の息づかいだけです。
目隠しが取れて、道の全容が見えるのは、まさにゴールに辿り着いたその瞬間なのです。

苦しさに負けて、途中で投げ出してしまったら、もやもやした気持ちだけが残り、次に他の人と交際を始めても、また同じ場所で躓いてしまうでしょう。
どんな結末が待ち受けていようと、最後まで見届けない限り、次の道は見つからないのです。

別れは決して敗北ではありません。

恋する女性なら、大好きな彼と愛し愛される幸せな結婚を夢見て当然です。
しかし、現実にはいろんな出来事があって、やむなく別れるケースも少なくありません。
時には、二度と立ち直れないぐらい打ちのめされることもあるでしょう。
でも、どんな人間も、死ぬまで添い遂げられるのは『一人だけ』です。
相手が「その一人」でなかったら、終わるのは自然の理であり、厳粛な神様の取り決めなのです。

もし、今の彼と別れるようなことになっても、それは『運命の相手』に巡り会うための一つのプロセスであって、そこで「終わり」ではないのです。

では、何のために苦しいマラソンをするのか。
最初からダメだと分かっている道を必死で走らなければならないのか。

それは、今走っている道の向こうに、新たな道が続いているからです。
一つの恋のマラソンが終わり、目隠しが取れた時、あなたが『結婚』というゴールにいるか、『別れ』というゴールにいるかは、その時が来るまで分かりません。
でも、共通して言えるのは、そこで終わりではないということです。
『結婚』には結婚の、『別れ』にはまた新たな出会いの道が続いていて、一つの結末に辿り着いたからといって、そこで全てが終わってしまうわけではないのです。

マラソンが苦しくなった時、私たちはどうしても目隠しを取り、道の先を見たいと望みます。

でも、本当に道の先を見ることが叶ったとしましょう。

もし、その道が『別れ』に繋がっていたら、それでも歩き続けたいと思いますか。
あるいは、もうすぐ終わると思っていた道がまだまだ果てしなく続くとしたら──
平坦だと思っていた道が突然険しい道に変わるとしたら──
あなたは途中で走るのを止めてしまわないでしょうか。
 
ある意味、「先が見えない」というのは、神様の情けです。
先が見えないからこそ、人はみな必死で自分の道を歩き、完走することができるのです。
そうして歩き続けるからこそ、いつか幸せというゴールにたどり着けるのではないでしょうか。

「恋を全うする」とは結婚することではなく、「心から愛した」という魂の実感を得ることです。
心から愛したという実感だけが、新しい幸せの扉を開くのです。