『子育て』とは、子供時代をもう一度生き直すこと

2017年9月15日子育てコラム

息子が2歳になった時、知人に『ファインディング・ニモ [DVD]』のDVDをプレゼントされ、家族で見ていたら、特典映像の中で監督さん(アンドリュー・スタントン)が次のようなことをコメントされていた。

『親になる』ということは、子供の気持ちと、親の気持ちと、両方わかることなんだ

本当にその通りだな、と思った。

親は「親」であると同時に「子供」でもある。

子供を育てながら常にフラッシュバックするのは、自分の子供時代であり、我が親のことである。

親に甘えられなかったり、十分に愛されなかった思い出を持っていたりすると、子育ての途中に苦しくなるのは、我が子を通して自分自身を見てしまうからだろう。

泣いてわめきちらす我が子も、全然言うことを聞かなくて可愛げのない我が子も、どこか自分の幼い頃を想起させる。

子供の「ギャン泣き」を聞いていると胸が苦しくなるのは、我が子の泣き声を通じて、自分自身の泣き声を聞いているからだろう。

ダダこね育ちのすすめ』で幼児の癇癪との付き合い方をといておられる阿部秀雄先生も『子育てとは、もう一度、自分の子供時代をやり直すこと』と書いておられるように、子育てというのは今一度「自分の子供時代」と向き合いながら、壊れたピースを繕い、我が親の気持ちをなぞり、理解と感謝に辿り着く過程なのかもしれない。

「子育て」というと、「子供を育てること」だと思っている人が多いけど(もちろん子供を持つまでは誰でもそう思う)、第二のミッションは「親の気持ちを知る」ことにある。

これははっきり断言できるけど、「親の気持ち」というのは親になってみないと絶対に分からない。

親が子供の気持ちを推し量ることは可能でも、子供が親の立場で物を考えることは限りなく不可能に近い。たとえ想像力に長けた人が親の気持ちになりきることができても、やはり「推測」の域を出ない。

それは「妻子をなくした父親役」を演じても、ちっとも父親に見えないレオナルド・ディカプリオとよく似ている。妻子をなくした悲しみや孤独を演じても、全然説得力がないもので──(ワタクシ、10年来のファンですが)

だから子育てについて考える時──正確には、「子供を持つべきか、否か」について考える時──子供が居る生活を頭の中でシミュレーションして、経済的にどう、物理的にどう、という問題で捉えるよりも、「このまま一生『子供』のままで終わりたいか」ということを問いかけてみたらいいと思う。

もちろん、子育てにはお金もかかるし、人手も要る。とりわけ女性の場合、生活スタイルが激変する。持つか、持たないか、というのは現実生活に直結する問題に違いないが、そればかりにこだわると『第二のミッション』──もしかしたら子育ての本当の目的である「親の立場と気持ちを体験する」という、大事なチャンスを見過ごすことになる。

「親の立場と気持ちが分かったところで、何がどうなるの?」と言う人もあるかもしれないが、親の気持ちが分かるということは、自分が育ったルーツを理解し、子供時代にどうしても克服できなかった心の問題をクリアし、感謝に辿り着くプロセスである。自分が親になってみて初めて分かる「あの日の親の理不尽な仕打ちの理由」というやつだ。

中には「あんな親、一生許さない」という人もあるかもしれない。でも、自分で子供を育ててみれば、自分の一番嫌いな親の姿を自分の中に見て一度や二度は愕然とするものだ。長年戦ってきた相手がノミの心臓と分かれば、物の見方も変わるだろう。それこそ、あなたにとって最大の処方箋である。

若い人が子供を持つのを嫌がって、子のない所帯が増えたとしても、それは日本の一つの運命であり、自由なライフスタイルには違いない。

でも「子供の立場しか知らない人が増える」ということは、「なにかにつけて子供のケンカが増える」ということでもある。

「そんなことないわ、私は大人よ」という人もあるかもしれない。でも、大人=親ではないし、物事のとらえ方も違う。そして子供の喧嘩で揉めた時には「大人の正論」で説くより「親の器」で話した方が上手く行くものなのである。

子育てというのは、「壮大な赦しの旅」である。

赦す相手は親であり、自分であり、過去に残してきた遺恨の数々である。

「赦し」の感情というのは、ほとんど神的な愛に近い。

抹香臭い言い方をすれば、現世の欲(もっと遊びたいとか、お洒落したいとか)を捨てて、仏門に入るようなものだ。

本当の意味で子供を愛することができるようになれば、少なくともあなたの子供には「慈母の仏」と呼ばれることだろう。

まあ、仏になりそこなったとしても、親の立場で親の気持ちを体験することは決して損ではない。「子供を育てるとお金がかかるから」という現世の損得勘定を捨てれば、様々な得に満ちているものだ。それは直接利益をもたらさないかもしれないが、落ち着きとか信用とか、目に見えない形で財産になるはずである。

人生を二度美味しくする機会と思えば、損して得取る気持ちにもなるのではないだろうか。

オーストラリア、グレート・バリアリーフ。イソギンチャクの新居に住むマーリンと妻のコーラルは、やがて孵化する400個の卵を守りながら幸福に浸っていた。しかし突然、凶暴なバラクーダが彼らに襲いかかり、マーリンとたったひとつの卵だけが残された。マーリンは生き残った子供に“ニモ”と名づけ「お前だけは何があっても守り抜く」と誓う。ニモが6歳になった初登校の日。同級生に度胸があることを証明するために、さんご礁の外に錨を下ろしたボートに触ってみようと、父の静止を振り切って泳いでいく。得意気なニモだったが、現れたダイバーにさらわれてしまうのだった。人間の世界にさらわれた魚は二度と海に戻れない・・・。パニック状態のマーリンは、ボートを見たというドリーに出会う。彼女はニモ探しを手伝うと申し出るが、極端に物忘れが激しいという致命的な欠点があった。一度は協力を断ろうとするが、ドリーに人間の文字を解読する力があることが判明。ニモの行方を追って、マーリンとドリーの旅が始まった・・・。

この作品のおかげでカクレクマノミがすごく売れましたよね。
今見ても、やっぱり可愛いお魚だと思います。ナンヨウハギのドリーも。