子育てコラム

「癇癪は脳味噌の求める刺激」とな

2006年11月9日

11月中旬――私の悪阻が悪化した頃からだろうか。

息子がにわかに扱いにくく感じるようになり、それは、私の悪阻による心的ストレスのせいだと思っていた。

が、一時保育を始めた12月、1月と見てきて、どうやらそれだけではない、このところ著しく「自我」が発達してきたせいだと分かるようになった。

その引き金として、「一時保育が始まった」ことが大きい。

ずっと家に居る時はそうでもないのだが、保育園から帰っての1~2時間というのは、さすがの夫も呆れるくらいの癇癪を起こし、些細なことで、すぐ床の上にそっくりかえって、「ワーッ、キャーッ」と泣き叫んだり、最近では、自分で自分の頭を床に打ちつけたり、額を手の平で叩いてみたり。

私はもう、これは紛れもなくストレスだと考え、そういう時は、とにかく抱き起こして、癇癪が止むまで抱っこしたり、好きな食べ物や飲み物を与えてみたりするのだけど、それだけでは収まりつかないことの方が多く、たいてい、1~2時間は、どうにも手が付けられないほど不機嫌で、結局、子供を預けて楽させてもらっている分、別のところで、等しい苦労は払っているという感じだ。

そんな折、親しくしている知人夫婦の所にお邪魔して、いろいろお話する機会があった。

欧米のママさんと話していると、日本的な育児しか知らない私には、目からウロコが落ちるようなアドバイスをいただくことがある。

その代表例が、『睡眠とは学習によって得られるものである』という考え方だ。

日本の主な育児アドバイスでは、

「夜泣きとは、脳と身体のアンバランスによる生理的な現象で、ある程度、年齢を重ねれば落ち着くもの。これも成長の一過程と思って、辛抱強くお付き合いしましょう」

という結論に終わっていることが多い。

しかし、アメリカやイギリスの主な育児雑誌では、「睡眠とは学習によって得られるものである」という考え方が基本中の基本であり、当然のことながら、夜泣きに対する対処法も、日本のそれとは全く違う。

恐らく、日本でこんな方法を紹介したら、「虐待だ」「ネグレクトだ」って、たちまち抗議の嵐になりそうな雰囲気だが、実際、アメリカでもポーランドでも、「子供が
夜泣きして困っている」なんて両親の話は身近に聞いたことがないし、生後6ヶ月もすれば、一晩熟睡する子も多い。

一歳にもなって、夜中や明け方に起き出して、ケアや飲み物を求めるのは、明らかに両親の躾ミスで、アメリカあたりじゃ、卒乳期の生後8ヶ月~1歳半ぐらいの間に、「夜は一人で眠る」ということを学習させるのが当たり前だそうだ。

私も、最初は半信半疑で義姉さんのアドバイスに従ったのだけれど、本当に三日で夜泣きが止んで、非常に驚いたものだ。

そして、なぜ、こういう方法が日本で紹介されないのか、不思議に思ったのだけれど、双方に大きな違いがあるとしたら、それはひとえに、「子供」というものに対する考え方の違いにあるという気がする。

つまり、こちらでは、赤ちゃんの時分から、「大人」と「子供」の線引きがきっちり為されていて(愛情が薄いという意味ではなく)、1歳の幼児といえど、大人が子供の望むがままに手を貸すのではなく、「自分で物事を理解する」ということが要求されるのだ。

そんな背景もあって、その知人夫婦の奥様にまず言われたことが、

「癇癪は、この子が本来の自分を取り戻すための、大事な儀式なのよ」
「つまり、脳味噌が、癇癪という、激しい刺激を必要としているの」

うちの子の、保育園での評価はすこぶる良好で、「よく食べ、よく遊ぶ、優良児」なのだそうだ。

が、それは言い換えれば、外ではそれだけ自分を押さえつけて、いい子に振る舞っているという証でもある。

一歳児は一歳児なりに、「親」と「他人」の違いを理解していて、「他人様」の前では、お行儀よく振る舞わねばならないことも意識している。

息子なりの処世術で、泣きたい時に泣かず、ワガママも言わず、保育士さんウケする子供で通しているとしたら、家に帰って来た時、自我が爆発するのは必至で、むしろ、そのように振る舞う方が自然なのだ。

大人でも、会社人間から家庭人に戻る時、いろんなリフレッシュ法を試みる。

友達と一杯飲んだり、デパ地下でお総菜を買ったり、CDショップに立ち寄ったり、自分の好きなように過ごして、自分を取り戻そうとする。

でも、小さな子供の場合、そうした手段は持たないから、「保育園から家庭」という環境の変化に対して、どこかで脳味噌を切り替える必要が出てくる。

そこで、うちの息子の場合、床に反っくり返ってわめくことで、抑えつけていた何かを解放しているのではないか、という話だった。

今の息子には、「一時保育」の意味が分からない。

じゃあ、保育園で見せている笑顔が100%ウソかといえば、決してそうではなく、楽しいことは楽しい。

でも、何か違う。

そもそも、何で突然、こんな所に放り込まれたのか、全然理解していないはずだ。

保育園には、ハサミも、コンロも、洗剤の入った戸棚も、危険なものは何もなくて、「ダメ」と言われる回数も、家の10分の1以下だと推測する。

たいがいのことは何でも好きにさせてもらって、母親みたいにガミガミ叱る人もなく、ひたすら遊びに集中できるとしたら、息子にとってはパラダイスみたいな場所だろう。

が、反面、自我をぶつけて、確かめたい気持ちもあって、そういうハードなやり取りは、やはり家庭に限られる。

となると、この時期、息子にとって癇癪は必要欠くべからざるもので、もちろん、「床に頭を打ち付ける」ような自虐行為は癒さなければばならないけれど、ある程度の、激しい自己主張は大目に見て、なおかつ、人間的な方法で自分を表現できるよう誘導していかないとけない。

きっと、息子にも、いろいろ言い分があろう。

が、今は、「アー」しか言えないし、怒り以外に不満を表現する方法も知らない。

ぶつけられる方は大変だけど、むしろ、それは歓迎すべきことと受け止めた方が、ストレスも少ないような気がする。

だって、黒いものを「黒」とも言えず、親の顔色うかがいながら、じーっと自分を抑えるような子供になって欲しくないからね。

欧米でも、2歳児のイヤイヤ期は、「terrible two(恐るべき2歳児)」と言って、両親にとって一つの難関とされている。

昨日、町の広場で会った、同じ一歳半の女の子も、両親の働きかけ全てに対し「NIE(イヤ)」を連発して、うちよりもっと厳しい状況に見えた。

もちろん、必要以上のストレス――たとえば、私たちの接し方に不満があるとか、第2子誕生を前に、得も言われぬ不安を感じているとか、一時保育そのものが気に入らないとか――といったことは、極力、取り除かなければならないけれど、「癇癪=悪い」という発想は捨てて、「それもまた良し」の気持ちで受け止めれば、自然に収まってくるのではないかと、今は考えている。

子供も子供なりに、環境の変化に対し、生き残ろうと必死だ。

それだけは、ひしひしと感じる。

幸いなことに、息子は無類の「お友達好き」で、下の子に対しても、嫉妬よりは、「遊び相手Welcome」の気持ちの方が勝るのではないか――という点に希望も持てる。

なにはともあれ、私は、私に対して、弾けまくってくれる息子の姿を見るのが好きだ。

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