かもめのジョナサンと群れを愛そう

書籍と絵画

先日、カフカの『審判』を読み始めたものの、途中で真綿で首を絞められるような息苦しさを感じ、挫折。(そもそもカフカの作品に幸福感を求めてはいけない)。

その代わりに選んだのが『かもめのジョナサン』だ。

かもめのジョナサンといえば、一人群れから離れ、『極限速度』を追い求める、元祖・意識高い系。

「一族の尊厳と伝統を汚した」という理由でカモメ社会から絶縁され、流刑の場所『遙かなる崖』に追放された、究極の独り者。

前から読みたい、読まねばと思いつつ、食指食指が動かなかったのは、某宗教団体の幹部の愛読書と知ったから。

『極限速度』を追い求めた果てがサリンと麻原か……と思うと、なんともやりきれず、ずいぶん長い間、読みたいリストから外されてきたのだが、そういえば、ジョナサンはどうなったのかと読んでみれば、これがもう違和感の嵐! 嵐! 嵐!

10代から20代の頃に読めば、「ジョナサン、すげえ」と感動したかもしれないが、それなりに年を取り、すっかりコミュニティの一員に落ち着くと、ジョナサンには違和感しか感じない。

そう感じるのは私が異常だからかと焦っていたら、なんと訳者の五木寛之さんも『あとがき』で同じことを書いておられる。

私は最初、この短い物語を読みすすんで行くうちに、何となく一種の違和感のようなものをおぼえて首をかしげたものだ。

<中略>

そんな大したカモメに、ただただ感心して、ひとつおれも食うことにあくせくするのは今日限りでよして、生きることの本当の意味を探る旅へ出発しよう、などと素直に反応するほど現代の私たちは単純ではない。

そうでしょ、そうでしょ??

やはり五木先生も同じことを感じられたかと膝を打ったほど。

その違和感の正体について、五木先生は、

しかし、この物語が体質的に持っている一種独特の雰囲気がどうも肌に合わないのだ。ここにはうまく言えないけれども、高い場所から人々に何かを呼びかけるような響きがある。それは異端と反逆を讃えているようで実はきわめて伝統的、良識的であり、冒険と自由を求めているようでいて逆に道徳と権威を重んずる感覚である。

この『あとがき』は、1974年の刊行時に批判もされたようだが、確かに、あの超人的な物語に水を差すような文言はジョナサンに続こうとする者にとって苦いボヤキでしかないだろう。

平凡な群れに埋もれることなく、高みを目指すことが、なぜ非難されるべきことなのか。

真理を体得したのは群れの長ではなく、ジョナサンではないか。

確かにそうかもしれない。

でも、私が引っ掛かるのはこの部分。

おれのこの<限界突破>のことを聞いたら、きっと大騒ぎして歓ぶぞ。いまやどれほど豊かな意義が生活にあたえられることか! 漁船と岸との間をよたよた行きつもどりつする代りに、生きる目的がうまれたのだ! 

おれはただ、自分の発見したことを皆とわかちあい、われわれ全員の前途にひらけているあの無限の地平を皆に見せてやりたいだけなのだ。

気持ちは解るけど、余計なお世話だって。コミュニティのカモメたちは、口を揃えて言うだろう。

俺は最高のものを体得した! 皆もそれを知れば、同じように幸福を感じるに違いない!

という押しつけがましさが、長老をはじめ、「ほとんどのカモメは、飛ぶという行為をしごく簡単に考えていて、それ以上のことをあえて学ぼうなどとは思わないものである。つまり、どうやって岸から食物のあるところまでたどりつき、さらに岸までもどってくるか、それさえ判れば十分なのだ」というカモメの皆さんに、鼻持ちならない奴と映ったのだろう。

すべてのカモメにとって、重要なのは飛ぶことではなく、食べることだった

それが悪いのか?

だって、現実的に餌をとらなければ、生きてゆかれないだろう?

カモメの皆さんは、(恐らく)善良で、常識的で、勤勉な方々だ。自分の存在が社会の役に立ち、周りの誰かを幸せにしているという自負もある。

そこにいきなり、ジョナサンのような事を言われたら、誰もが戸惑い、違和感を覚えるだろう。

なんでお前が『最高』で、オレたちが『平凡』なのだ。

お前が教える側で、オレたちは教えられなければならないのだ。

その点を五木先生はかのように言及しておられる。

食べることと、セックスが、これほど注意ぶかく排除され、偉大なるものへのあこがれが上から下へと引き継がれる形で物語られるのは、一体どういうことだろう。総じてジョナサンの自己感性が、群れのカモメ=民衆とはほとんど切れた場所で、先達から導かれ、さらに彼が下へそれを伝えるという形式で達成されるのも、私には理解しがたいところなのだ。

そう、まさしくこれ。

ジョナサンって、嫌な言い方をすれば、自分だけの世界で『極限速度』を追い求め、一人で悦に入ってるに過ぎない。

それが最高と言い出せば、誰でもヒマラヤの奥地で仙人になって、「よし、極めた! オレの人生奥義を愚鈍な民衆どもに教えてやる!」というのは簡単なのです。

現実の人の生活というのは、嫌な上司にバカにされ、無神経な隣人の騒音に悩まされ、子供のワガママに振り回され、月々の請求書に悩まされ、それらに耐えてやっと人並みな暮らしができる。これを生き延びるだけでも大変な労苦であり、忍耐ですから、そういう修羅からとっとと抜け出して、自分だけの世界で奥義を究めた人に物を説かれても白々しいだけなんですよね。

それについて五木先生はこのような回答を寄せておられる。

食べることは決して軽侮すべきことではない。そのために働くこともである。それはより高いものへの詩想を養う土台なのだし、本当の愛の出発点も異性間のそれを排除しては考えられないと私は思う。

私もまったく同意見。

当たり前の日常にこそ気付きのヒントがあるし、人々と共に生きて初めて教えが生きてくる。

最初に群れを見下して、自分だけの世界で奥義を究めるのと、群れの中で四苦八苦しながら、何かしらこの世に役立つことを見出すのでは大きな違いがあると思うのですよ。

『群れ』といえば、「皆で同じ恰好をして、同じ事を考えて」みたいに定義されるけれども、皆が同じようにしなければならない『同調圧力』と、社会のコミュニティとしての『群れ』では全く異なるし、恐らく、人の生き方において問題視されるのは前者だと思うのです。群れそのものが悪いわけではない。また、群れに属する限り、ある程度はそこに自分を摺り合わせて生きていかねばならないし、その為の知恵も、ジョナサンの『極限速度』と同じくらい価値があると思うのです。

最初から「お前らはこの程度」と線を引き、自分勝手な尺度で高みを目指しても、同調するのは自分と自分の信者だけ、外部に尊さは伝わってこない。

ジョナサンの極限速度は、彼が彼の世界の中だけで追い求める限り、万人に判りやすい『極限の教え』とはならないのです。

だからジョナサンも首をかしげる。

「一羽の鳥にむかって、自己は自由で、練習にほんのわずかの時間を費やしさえすれば自分の力でそれを実感できるんだということを納得させることが、この世で一番むずかしいなんて、こんなことがどうしてそんなに困難なのだろうか?」

それはジョナサン一人が空回りしてるからだよ、と私は思う。

いかなる『高み』も群れを離れては説得力がないのだと。

しかしながら、ここに一つ救いがある。
これはジョナサンと、弟子となるフレッシャーの会話。

「ジョナサン、あなたはずいぶん前にご自分で言われたことを憶えていらっしゃいますか? あなたは群れに戻って彼らの学習の手助けをすることこそ、群れを愛することなのだ、とおっしゃった」
「勿論おぼえているとも」
「もう少しで自分を殺しかねないほど暴徒化した鳥たちを、どうして愛せるのか、ぼくには分かりませんね」
「フレッチャー、きみはああいうことが嫌いなんだろう! それは当然だ、憎しみや悪意を愛せないのはな。きみはみずからをきたえ、そしてカモメ本来の姿、つまりそれぞれの中にある良いものを発見するようにつとめなくちゃならん。彼らが自分自身を見出す手助けをするのだ。わたしのいう愛とはそういうことなんだ。そこのところをのみこみさえすれば、それはそれで楽しいことなのだよ。」

ジョナサンも、「お前ら、下民」と完全に見下すのではなく、自分なりに群れと生きる道を模索している。

会得した高みを下等なカモメの皆さんに教えてやるのではなく、「それぞれの中にある良いものを発見」し、「自分自身を見出す手助けをする」ということ。

それは自分に異議を唱えるカモメの皆さんに刃向かい、噛み付くのではなく、そうした苦さも超えて、なお一人一人を理解し、支えとなる導師の道である。

『極限速度』をどう読み間違えれば無差別殺人に繋がるのか、私には理解しがたいけれども、少なくとも、かもめのジョナサンはこう言っていた気がする。

「彼らにわたしのことで莫迦げた噂をひろめたり、わたしを神様にまつりあげたりしないでくれよ。いいかい、フレッチ? わたしはカモメなんだ。わたしはただ飛ぶのが好きなんだ、たぶん……

復活した第四章

『かもめのジョナサン』は、実は四部構成で、長い間、最後の第四章は、世間の目に触れることはなかった。

作者いわく、

わたしは『かもめのジョナサン』の物語にこの結末が必要だとh阿信じられず、どこかへ置きっぱなしにした。わたしたちが選び取った自由なき生き方が、やがて規則と儀式によって少しずつ殺されていく物語を、わたしは拒否したのだ。

そして、初版から半世紀後、第四章は完全版として復活した。「これはわたしが書いたのではない。あいつが書いたのだ、あの時のあいつが」という作者の声によって。

最終章では、教えに続く者たちが、ジョナサンと直系の弟子を神格化し、儀式をしたり、石塚を作ったり、念仏のようなものを唱えたりする。

その中で若いカモメのアンソニーは『たとえ百万個の小石を積んでも、ぼくが神聖になることはありません、ぼく自身がそれに値しないのならばね』と現行のやり方に背を向け、ついには『生きることは無益であり、無益ということはすなわち無意味であるとするなら、唯一まともな行動は、海に向かって急降下し、溺れ死ぬことではないだろうか』という、極端な思考に陥ってしまう。

そこから先は本書をお楽しみ下さい……として、私は、第四章を復活したのは正解だと思う。

そうでなければ、ジョナサンは俺様教の教祖さまで終わっていただろうから。

アンソニーという、ジョナサンの教えを正しく理解し、実践する者の存在によって、ジョナサンもまた救われる。

21世紀に突入し、「あんたのいる21世紀は権威と儀式に取り囲まれてさ、革紐で自由を扼殺しようとしている。あんたの世界は安全にはなるかもしれないけど、自由には決してならない。わかるかい?」と感じたリチャード・バックの危機感は、ジョナサンの教えを自分勝手に解釈し、俺以外は全部下等と切って捨てようとした時代の警鐘でもあるのだ。

ということで、初めて完読した『かもめのジョナサン』。

もっと早くに読んだ方がよかったかと思いつつも、いやいや、今で正解と納得する今日この頃……って昨夜読んだばかり。

それにしても五木先生と意見が合うとは、ちとビックリ。

特に、1974年の『あとがき』で、「不可解」という言葉で違和感が綴られているのが非常に興味深い。実は五木先生の書評の方がはるかに面白かったりして^^;

この後、目立ちたがり、癒やしの時代、自己啓発ブーム、と、今に続く流れを思い返すと、五木先生が感じられた『不可解』の正体は、大衆の中から一歩抜きん出ようとする成果主義の焦りや妬みではないかと思ったりする。

そして、それは人間の能力や魅力が数値に現れる現代の評価社会において、いっそう人間本来の自由を歪めているのではないだろうか。