「自殺する」ということ

2017年9月15日子育てコラム, 自殺について, 自殺について

私、一度だけ、自殺の現場に居合わせたことがあってね。

あれは忘れもしない、大晦日の夜。当直室でNHK紅白を見ていたら、夜間受付の男性職員から電話が掛かってきて、「患者さんが裏口で倒れてる」というので、「ああ、治療に来ていた人が気分不良でうずくまってるのかな」ぐらいの気持ちで裏口に行ったら、もう一目で分かったの。「死んでる」って。

血もほとんど流れてないし、外傷らしきものもない。

でも「意識を失って倒れている人」と「完全に死んでいる人」の違いって、一目で分かるの。

死んだら「一つの肉塊」とでもいうのか、完全に何かが抜けきって、まさにそこに「転がっている」ような感じなのね。同じ「意識なく横たわっている」にしても、まだ命がある人と、完全に死んでいる人の違いって、本当、一目瞭然なの。

そして、顔を見て、誰かすぐに分かった。ほんの1時間前、家族に付き添われて再入院したおじさんだ。

この年末年始、一時退院して自宅でゆっくり過ごすはずだったのが、体調不良を理由に病院にリターン、そのやり取りの、わずか1時間後の話だった。そして、倒れ方を見て、すぐに飛び降り自殺だと分かった。気晴らしに病院の周りを散歩していて、たまたま裏口で気分が悪くなり、そのまま心臓停止、という雰囲気ではない。カっと見開いた目や、寒そうな素足から、階上の病室から飛び降りたのがありありと分かる、そういう姿だった。

私に付いてきてくれた男性職員が「どうします、移動寝台持って来ます? 当直の先生呼びましょか?」等々、言われたけども、もう何をどやっても蘇生できないのは明らかだったし、とにかく周りに気付かれないよう、すみやかに診察室に移動しましょうと伝え、すぐに当直の先生を呼んでもらったの。

先生には心得があって、すぐに警察に連絡するよう、男性職員に指示されたわ。私はその時何も知らなかったから、「え、どうして警察? もう自殺だと明らかじゃないの?」と思ったけども、患者に外傷があり、患者が飛び降りる場面を誰も見ていない以上、事件性を完全に否定することはできないし、第一、「自殺」と断定するのは警察の仕事であって、医師はあくまで「死亡原因」を証明するに過ぎない、とのこと。それでやっと私も事の順序を理解し、警察の来訪に備えたわけ。

となると、当然、いろんな書類が要るわね・・と、事務カウンターの方に向かいかけた時、「何をしてる! 早く救急カートを持って来ないか!」と一喝されたわ。「え、もう完全に心肺停止して、死後の処置を始めてもおかしくないタイミングなのに」と思ってたら、

「警察が自殺と断定するまで、僕たちは蘇生をしなければならない。それが医療者の義務だ!」と言われて、再度、目が醒めたわけ。

そうして診察室に救急カートを運び入れ、もう死んで硬直しかけてる患者の喉に気管支チューブをぐいぐい挿入し、ドクターが心臓マッサージを始めた時、数人の警察官が到着し、診療室に入って、私たちの蘇生行為を無言で観察していたわ。

30代半ばのドクターは、もう完全に停止した心臓を、患者の身体に馬乗りになって胸骨の上からマッサージし続け、額から、背中から汗を拭きだしてたし、アシストに来てくれた若い技師さんも、酸素吸入のポンプを必死に押し続け、今にも顔の血管が切れそうなほど紅潮してた。そして、私はといえば、ほとんど硬直した腕に点滴用のルートを確保すべく、ゴム管で血管の上を縛り、ふくらみも浮き上がりもしない血管相手に、ドロリと流れだす屍血と格闘しながら留置針の挿入。

私も少女期に「ああ、死にたい」なんて思ったことがあるし、「自殺したらどんなんかなー」と興味本位に想像することもしばしばあった。

でも、この時──自殺した患者の身体に馬乗りになって、全身から汗を吹き出しながら心臓マッサージを続ける医師の姿を見た時──それがいかに愚かな空想かということを思い知り、これからは冗談でも死にたいなどと思うまい、と痛感したわ。それこそ医師が全力を懸けてる証に、金属の移動寝台がギシギシと激しく軋んで、今にも壊れそうなぐらいだった。ああ、これが「自殺」なんだ、「自殺する」ってこういうことなんだ、って、何度も思ったわ。別に、この患者さんが悪いわけでもない、死にたい人の気持ちも分からないでもない、でも、私はもう考えない、「やんなっちゃう」の言葉の代わりに「死にたい」を使っても、現実にこういう事だけは絶対にすまい、とね。

そうして5分ほど経過すると、警察官から「もう蘇生はよろしい」と指示があって、嵐のような救急救命がようやく終了。「たかが5分」と思うかもしれないけど、全力で心臓マッサージを行ったら、そのエネルギーは、全速力で失踪するのと同じこと。しかも、まだ息のある、助かる可能性のある患者にするのではなく、もう完全に死亡してしまっている人にするのだもの。言葉ではとても言い表せない気持ちだった。

あとから先生が教えてくれたのだけど、こういう場合、医療者が蘇生術を行わなければ、罪に問われるのだそうだ。(注:病院の敷地内での話)

「たとえ死亡が明らかでも、僕たちにはその義務があるし、事件性がある以上、警察もその死を見届けないといけない。死んだという事実より、死に至るプロセスに意味があるんだよ」

それから先生が死亡診断書を書いて、遺族に連絡して、警察が患者の病室と裏口を中心に現場検証を行って、ほとんどすぐに「自殺」と断定されたのだけど、その死後処置ほど怖ろしいものはなかったよ。ほとんど外傷らしきものはなくて、顔もきれいだったけど、目だけがボーッと閉じなくて、何度押さえても開いてくるものだから、「何があったか知らないけど、恨みは忘れて、やすらかに眠ってください」と何度心の中で唱えたことか。

そうこうするうち、奥さんと息子が病院に来て、遺体を引き取ったけども、嘆き悲しむというよりは、せっかくの正月気分を台無しにされたという感じで、私も言葉を失った。深く話を聞いたわけじゃないけど、当てつけ自殺のように感じた。命を捨ててまで抗議したいものがあったのか。それにしても、命の対価は高すぎないか?

こんな簡単に人生が終わってしまうなんて、今まで生きてきた何十年はこの人にとって何だったのだろう?

あと一日生きれば……いや、半日でもいい。もうほんの少し決断を先延ばしにすれば、気持ちも違ったかもしれないのに。

発作的に窓から飛び降りたところで心は救われるだろうか。

もし最後の瞬間に後悔したとしたら?

それは何十年と頑張って生きてきた自分に対して、あまりに酷い仕打ちなのではないだろうか。

自殺そのものは恐ろしくない。

自殺に就いて考えるのは死の刹那の苦痛でなくして
死の決行された瞬時に於ける取り返しのつかない悔恨である。

今、高層建築の上の窓から、自分は正に飛び降りようと用意している。
足が窓から離れた一瞬時、不意に別の思想が浮かび、電光のように閃いた。

世界は明るく前途は希望に輝いている。断じて自分は死にたくない。

白いコンクリート。避けられない決定。

何物も、何物も決してこれより恐ろしい空想はない。

荻原朔太郎:絶望の逃走 (1950年) (角川文庫〈第50〉)

かのようなことがあって、私は「死ぬほど思い詰めること」と「実際に自殺すること」はまた別の意味を持つ──と考えるようになった。前者は心の叫びだが、後者は社会的な意味をもつ。

何人であっても、「きれいに死ぬ」「誰にも迷惑かけずに死ぬ」などあり得ない。

若い女の子で、薬のんだら綺麗に死ねるかなぁ、なんて思い描いているとしたら、甘い甘い。

誰が死んでも、必ず死後の処置というものがある。

自宅や施設や病院で自然に息を引き取ったら、きれいな死に顔も可能だけども、そうでない場合は、上記のような事もある。状況によっては事件性を疑われて解剖もされるかもしれない。「死んだら何も感じないから関係ない」と思うかもしれないけれど、社会においては決してそうじゃないのね。

そして、それは自分の仕事じゃない。

誰かがやらなければならないの。

私の場合、あらゆる処置が終わって、あとは葬儀屋さんが来るのを待つだけになった時、診察室の椅子にボーっと腰を下ろしていると、いろいろ手伝ってくださった夜間受付の男性職員が私の所に来て、

「患者さんの倒れておられた場所、バケツで水を流して、ブラシでこすったら、何とかなりましたから」

と仰ったわ。

すごく有り難いと感じたと同時に、こんなことまで赤の他人にさせて、私なら自分のプライドが許さんな、と思った。

何も「死にたい」と悩む気持ちを責めてるわけじゃない。

でも、実際に自殺して、どこかで死体で見つかったら、これだけの人が動いて、家族もやらない汚れ仕事も引き受けて、心身ともにヘトヘトにさせられて、時には無関係な人間が現場を見たショックからトラウマになってしまうこと、忘れないで欲しいと思う。(あなた自身はトラウマから逃げられて幸せかしらないが)

死にたい、死にたい、死ぬほど思い悩む気持ち──。

それは「感情」であって、「決断」じゃない。

ところが、いつも「死にたい」と思っていると、いつしかそれは「生きるか、死ぬか」の選択の問題になってくる。

「死にたい」という言葉は、「死ぬほど辛い」の形容詞。 I want to die の動詞ではない。

あなたに必要なのは「決断」ではなく、死ぬほど辛い原因をどうにか取り除くことなのだ。

死にたい、死にたい、と自分に言い聞かせることは、呪い師のオババに「お前、死ね。お前、死ね」と呪いをかけられてるのと同じ事。自分で自分に「死ね死ね」と呪いをかけてどうする?

確かに、詐欺、借金、倒産、脅迫、etc。癒しや励ましではどうにもならない、深刻な社会問題に追い詰められて死を選ぶ人もたくさんいる。その場合の処方箋はまた別になろう。

だけど、孤独や絶望、虚しさ、裏切り、そうした心の問題から自殺について考える時、自分の心の声を取り違えたらいけない。

「私なんか、いなくなってしまえばいい」は、「誰にも愛されなくて、つらい」

「私が死んでも、どうせ誰も悲しまない」は、「愛される自信が無い」

「こんなに苦しいなら、死んだ方がマシ」は、「お願い、誰か助けて」

人が死にたいと思う時、それはたいてい自分の一番欲しいものが与えられない時。

だから、ある意味、死ぬほど思い詰めてはじめて、自分という人間が見えてくるチャンスでもあるのよね。

強気と言い訳で周りを巻き込んでグイグイ生きている人よりも、ある瞬間から、劇的に変わる可能性があるわけ。

それでも死にたいと思うなら、高層ビルの屋上から飛び降りる瞬間を想像したらいい。

もし「最後の一秒」で「しまった!」と気付いたら?

30メートルの高さから飛び降りた以上、「やっぱり死ぬの止めます、頑張ります」とはいかないよ。

荻原朔太郎が書いてるように、それこそ人生最大の悔悟でしょうに。

世の中には、「死にたい」という人の話を聞くのが仕事の人がたくさんいます。

今すぐ一気に「いい人」にならなくていいから、あと一度だけ他人を信じて、助けを求めてください。