人生以上、人生以下 寺山修司の『邪宗門』

2017年10月4日書籍と絵画

私は舞台は一度も見たことがない。『天井桟敷』の舞台も、最近上演されたものも。

舞台には舞台の面白さがあるけれど、一つだけ難点がある。

それは台詞をじっくり味わうことができない……という点だ。

ホールの仕様などもあり、一言一句、はっきり聞こえてくることは稀。

粗筋は分かっても、せいぜい、決め台詞が記憶に残るぐらい、北島マヤでもない限り、「一度見た舞台の台詞を一言一句、間違えなく記憶してしまう」など、どうやっても不可能。

舞台が、美術、音楽、演出、演技など、総合的に味わうものとすれば、台本となる戯曲は、まさに言葉を味わうもの。

舞台とは違った世界観が広がるので、以下は、気に入った箇所のピックアップ。

あたしはしがない人形使いでございます。名前は<法律>といいます。そらよっ! 
(糸をたぐると人形、爪立ちになり、糸をゆるめるとヘナヘナとくずれる)

思うひとには思われず、思わぬあたしの言うまま、気まま。おかしなことに、この人形は、悲しいときに笑うのでございます。
(いきなり首根っ子をおさえつけると、笑いだす)

あたしの女房は、天文バカで、二十年ごとに見えるという星を待つとかで、洗濯工場にあがったきり、おりて来ず、空ばかり見ててあたしの顔を忘れてしまいました。

いまじゃ、あたしの相手はこの人形ばかり――あたしはさみしくなるとこの人形をいじめては笑い声をしぼり出し、それを聞いてはじぶんをなぐさめる。

人生以上でも、人生以下でもない、シガない暮らしでございます。(と、人形を操る糸をひくが、人形動かず)

いけねえ、糸が切れたか!

この箇所で一番好きなのは、『人生以上でも、人生以下でもない』という表現。

存在の虚しさ、他者との関わりの空疎さを、一言で表せば、人生以上でも、人生以下でもない、となるだろう。

悲しい時に笑ったり、女房に相手にされないので人形相手に暮らしたり、現実にそういう暮らしをしている人は少なくない。

一人で虚勢を張ってみても、その声はどこか空っ風、人形使いの本人が、人形のように、人生以上でも、人生以下でもない毎日を生きている。

人が『人生』を実感するのは、自分の行動と他者が噛み合った時だ。

いくら行動することが生きることであるといっても、憂さ晴らしでトラックでコンビニに突っ込み、死者二人、損害賠償五千万の損害を出して、人生を実感するのは無理だろう。よほど捻くれた悪人でもなければ。

努力も、善行も、突き詰めれば、他者との関わりによって生きてくるもので、向こう1000年、誰も寄りつかないジャングルの奥深くで、せっせと善行に励んでも(虫を助けるとか、緑を大事にするとか)、生き甲斐と呼べるものに到達するのは至難ではないかという気がする。

人生以上でも、人生以下でもない、日々を過ごす人にとって、人生とは何を意味するのか。

というより、人生というのは、本人の認識によって初めて人生の体を成すのであり、意識されないところでは、時の連続でしかない。

この人形使いも、女房が洗濯工場から降りてきて、人形使いとの関わりを始めたら、多分、人生というものが始まるのではなかろうか。

人形を操る人形使い、それを操る黒衣のわたしはくらま天狗、糸の長さが自由の長さなどと思うのは、たわけた話よ。

≪中略≫

じぶんを操る糸が見えるか見えぬかを自由のものさしにしたところで牢の外に出られる訳ではないのさ、マントを着ればだれでも月光仮面になれると思って崖からとびおりて足を折ったおれの高校の同級生の下田よ。

≪中略≫

じたばたするな、かくごをきめろ。糸を切るより、操ってみろ。

手足が自由に動けば、そこに『自由』感じるけども、元を辿れば、人はみな何かの囚われ人。
その大元を探らぬ限り、問題の実体は見えない。
「自由な動き」ではなく、何が『糸』であるのか、それを考えるのが肝要。

黒衣の糸が切れれば、あとは自由の身。おれはもう山本太郎でもなければ、おぎんの倅でもない。さあ、みんな、もう黒衣の衣装なんか脱いで出て来てくれ。
そのお面がこわかった。子供の頃の秋、みんながお面をつけて別な人になって、秋まつりの中に入っていった。
だけど、おれには似合う面がなかったんだ。
おれは、いつも、素顔のままでお面を捜しつづけていた。

≪中略≫

おれは今まで黒衣に操られていた山本太郎だ。だけどおれを操っていた黒衣ってのは、××さnだったのか? だとすれば、その黒衣を操っていたのはいったい誰なんだ?

新高 それは言葉よ。
佐々木 じゃあ、その言葉を操っていたのはいったい誰なんだ。
新高 それは、作者よ。そして、作者を操っていたのは、夕暮れの憂鬱だの、遠い国の戦争だの、一服のたばこの煙よ。

≪中略≫

いいえ、操っていたものの一番後にあるものを見ることなんか誰にもできない。
たとえ、一言でも台詞を言った時から、のがれることのできない芝居地獄。
終わることなんかない。どんな芝居でも終わることなんかない。ただ、出し物が変るだけ。さあ、みんな役割をりを変えましょう。

このあたりの世界観、映画『マトリックス』(映画『マトリックス』が本当に伝えたいこと ~君は心の囚人 / What’s is Matrix 英語で読み解く)を思い出す。

結局のところ、私たちが「こうだ」と認識しているもの、自分自身さえも、自分の潜在意識が作り出した『影』に過ぎない、という考え方。

それは人間のみならず、社会でも、何でも同じこと。

目に見えるあらゆる『事象』には、必ず背景があり、理由がある。

人が口にする『一言』さえ、その場の思い付きという事は絶対になく、それを「言わせる」動機があり、そう思わせる経過があり、そう感じさせる価値観があり、『一言』といえど、その向こうには多彩な要素が広がっているものだ。

そしてまた、言葉の向こうを探る私たち自身の中にも、それに引き付けられる理由があり、解釈する下地がある。

ある言葉について、共感する人と怒り出す人がいるように、『事象』というものは、絶対に見えて、実は限りない解釈の世界なのだ。

「どんな芝居でも終わることなんかない。ただ出し物が変わるだけ」という台詞も、タマネギの皮のように、剥いても、剥いても、実体には辿り着けず、ただ「そう言う人」と「そう感じる人」の、果てしない関わりを思わせる。

私たちが目にする邪宗門の舞台も、一つの劇ではあるけれど、それもまた個々の解釈の世界であって、絶対ではない。

物語の最後に描かれる『解放』は、自己や固定観念や社会通念からの解放であり、やはり、人間、一つの風景に囚われてはいけないと痛感する。

そして、たえず、その事象がどこから来るのか、自身に問いかけ、社会に問いかけよう。

にんげん、誰でも変わる必要があります。わたしは自己批判して、鬼になったのです。

内省もたいがいにしないと、鬼になる。

ところで、自己批判と内省の違いは何か。

それは、感情的に自分を責めるのではなく、客観的に自己分析できるか否かと思う。

感情的に自分を責める人は、「他者が怖い」あるいは「自分で自分の怒りが怖い」という部分があるのではないだろうか。

つまり、相手に向けるべき怒りを自分に向けて、二重の意味で、自分を守るのだ。

本来、相手に向けるべき怒りを自分に向け続ければ、鬼にもなる。

自己を客観的に見詰める視点と勇気は大事だけども、感情は感情として昇華する術を覚えた方がいい。

そして、「怒りや憎しみは悪」という固定観念を捨てること。

山太郎 でも、お母さんがいると嫁は来てくれない。山吹は一つ屋根の下に女ふたりは住めないというんだ。

おぎん あれは淫売だよ、おまえ。おまえみたいな世間知らずは、いいようにだまされているんだよ。

≪中略≫

山太郎 おっ母さん、おねがいだ。おれに捨てられてくれ。

おぎん 山太郎や。もっといい子が、いっぱいいる。あたしが見つけてあげる。

山太郎 おねがいだ、捨てられてくれ、おっ母さん!

おぎん ばば抜きだあ! ばば抜きだあ!

ありがとうございます。嫁姑問題は、まさにこの通りです。

夫はいつも不思議がる。なぜ、自分の母親と上手くやれないのか。オレを好きなように、母親も好きになってくれないのか、と。

ここに母と息子の一体感がある。

嫁の目から見れば、母と息子(夫)は別人格、別個の生き物なのだけど、その『別個感』が夫には理解できないし、許せないものなのだ。

そして、『家事』においては、母(妻)たるものが、一家の主だ。

一つ屋根の下に「女が二人」ということは、一つの部署に、二人の部長がいるに等しい。

二人の部長がそれぞれに采配をふるう部署で、業務が上手く回るわけがない。

でも、夫(息子)たるものには、その感覚が絶対に理解できないのだ。

身毒丸 寺山修司

発行日 1980年3月25日 新書館 (既に廃刊みたい)

表紙は『身毒丸』ですが、『身毒丸』と『邪宗門』の二編が収録されています。

こちらも参考にぜひ → PDF版『寺山修司の『邪宗門』とルイジ・ピランデッロの『あなたがそう思うならそのとおり』に方令ける創造的虚構世界 清水義和』

装丁の作画は誰だろう。インフォメーションは無し。中扉の方が好き。

身毒丸 寺山修司

私にはどんな舞台だったのか、想像もできない。

身毒丸 寺山修司

身毒丸 寺山修司

身毒丸 寺山修司