きょうだいは平等に愛せるか

2017年9月15日子育てコラム

私は18歳の時から『北斗の拳』の大ファンです。

参考記事はコチラ 『北斗の拳』名言集 / 80年代カルチャーを振り返る

「こんな暴力漫画、ダメっ!」と眉をひそめるお母さんも多いでしょうけど、(私も、首が飛んだり、目玉が飛び出したりな描写は苦手です)、物語としては、司馬遼太郎の歴史小説を彷彿とさせるような含蓄のある作品で、一つの男の理想を描いた傑作だと私は思います。

1980年代、週刊少年ジャンプにはまった読者ならご存じだと思いますが、あの頃の『ジャンプ』というのは恐ろしいほど高水準で、毎週、600万部以上を売り上げ、「いい年したサラリーマンが電車の中でマンガ雑誌を読んでいる」と世のオジサン達(今のシルバー世代)を嘆かせた、マンモス少年漫画誌でした。

当時のヒット作を挙げてみますと、

「キャッツ・アイ」「シティーハンター」北条司 ← アニメ化
「ドラゴンボール」鳥山明 ← 世界的ヒット
「キャプテン翼」高橋陽一 ← 『やおい』と呼ばれる、ボーイズラブの原形となる同人
誌を爆発的に生み出した。うちの姉妹もハマってました(笑)
このキャプ翼同人作家からプロデビューを果たした漫画家に、「おおや和美」「尾崎南」
がいます。
「魁! 男塾」 宮内あきら ← アニメ化
「キン肉マン」 ← 近年、二世バージョンが発表され、親子ファンを獲得
「聖闘士星矢」 車田正美 ← コアなファン多し

どの作品も一話たりと見逃せず、月曜日は朝一番にコンビニに直行して、最新号を買っていたものです。(日曜の夜から落ち着かなかった・・・) 

わけても夢中になったのが、『北斗の拳』。

私が買い始めた時は、ちょうど「南斗六聖拳」→「ラオウとの死闘」と、まさにドラマの最高潮で、ラオウがケンシロウとの闘いに敗れて昇天した時は、あまりのショックに涙がちょちょぎれるほどでした。

この作品が発表された当初は、「アタタタターッツ」という合いの声や、「アベシ!」と叫んで手足がちぎれるような過激な描写ばかりが話題になり、それだけで批判的な人も多かったのですが(私もそうでした)、物語の核にあるのは「人間とは」「男とは」「生き様とは」という、戦国の英雄を思わせる哲学であり、仏教的な死生観がベースになっているんですね。

しかし、第二の主人公とも言うべきラオウが昇天し、物語が1つの区切りを終えると、とってつけたようなエピソードが多くなり、急速に失墜した感が否めませんでした。

最後もたたみかけるように終わって、『北斗の拳』の最終回とは思えないくらい、あっさりしたエンディングだったものです。

ただ、後半のエピソードの中に、今も心に焼き付いて離れない話があり、その回だけは久々の巻頭カラーで、人気を盛り返したことがありました。

老王アサムと三人の息子の物語です。

*

サヴァ国の老王アサムは、拳の達人でもって知られ、近隣の野蛮人たちから豊かな国を守り続けていました。

そんなアサムには三人の逞しい息子がありましたが、いずれも引かず、譲らずの激しい気性の持ち主で、彼らに国を託せば必ず争いになり、民を不幸にするばかりか、いずれ近隣の野蛮人どもに滅ぼされることが明白でした。
その為に、アサムは不治の病を必死に隠して、今も無敵であることをアピールする為に、毎日、民の目の前で、どう猛な野獣と闘い続けていたのです。

それを見るに見かねた王女サラは、偶然出会ったケンシロウに、「父を助けて下さい」と懇願します。

それを知ったアサムは怒り狂い、「どこの素性とも知れぬ男に我が秘密を知られて、黙って返すわけにいかぬ」とケンシロウに拳を振るいますが、逆にケンシロウに諫められ、愚かな息子たちの生い立ちを語り始めます。

子供たちが幼い頃、アサムは占い師から、

「あなたの息子たちはそれぞれが帝王の星を持っている。このまま生かしておけば、国は三つに割れ、災いが起きるでしょう。今のうちに一人を選び、残りの二人は殺すのです」

と予言されました。

しかし、「国王といえど、父だ!」とアサムは占い師の忠告をはねつけ、息子たちを徹底して平等に育てることに決めます。

平等に育てさえすれば、兄弟仲良く力を合わせ、立派な後継者になってくれると信じたからです。

息子たちは、母を亡くして淋しい思いをしていることもあって、アサムは、子供達に物も、心も、時間も、すべてを平等に分け与え、たとえ末っ子が長兄にお菓子を多めに与えようとしても、

「弟だからといって遠慮することはない。お前も、兄も、平等なのだ」

と、徹底して三等分を貫きました。

その結果、息子たちは、引くことも、譲ることも知らず、常に平等を主張して奪い合う、猛々しい人間に育ってしまったのです。

もはや父王の言葉を受け入れることもなく、後継者争いに目をぎらつかせる息子たちを前に、為す術もないアサム。

そんな老父の哀しみを知ったケンシロウは、ある日、息子たちの前に現れ、「この国はオレがもらう」と宣言します。

「そんなことはさせぬ」と息子たちはケンシロウに襲いかかりますが、拳で叶うはずがありません。

そうして長兄が殺されそうになった時、初めて兄弟は力を合わせ、命乞いをしたのでした。

父アサムの哀しみをようやく理解した息子たちは、心を入れ替え、長兄を中心に三兄弟が一つとなって国を治めることを誓い合います。

その姿を見届けたアサムは、幸福のうちに息を引き取るのでした。

エピローグ、末っ子のサトラは、国を兄に任せることを決意し、恋人の待つ隣国へ旅立って行きます。

「弟は、兄のお下がりを着ることが出来るが、兄は、弟のお下がりを着ることは出来ぬ」

という言葉を残して──。

*

『北斗の拳』が男の読者をつかんだ理由の一つに、壮大な『兄弟げんか』がベースになっている点が挙げられます。

たとえば、全編の核であるラオウとの死闘は、北斗神拳の師父であるリュウケンが、末弟であるケンシロウを伝承者に選んだことが発端となっています。

三男の凶暴なジャギは、

「兄よりすぐれた弟なんて~」

と、ケンシロウを激しく憎み、復讐を仕掛けますし、長男のラオウも、兄としての意地からケンシロウを打ち倒そうとします。

この兄弟間の葛藤が、男兄弟をもつ読者には共感するところが大きかったのでしょう。

「きょうだい」と言えど、憎み、争い、己の全存在をかけて相手に勝ろうとする気持ち、分かる人には分かるのだと思います。


ところで、この「きょうだい」。

親の目には平等でも、きょうだい間には歴然とした力関係があるものです。

やはり弟よりは兄、妹よりは姉の方が、一日の長を認められ、重く扱われたいのが人間の性分ですし、兄(姉)としての『格』を尊重されるからこそ、下の者にも余裕をもって接することができるものです。

親がきょうだい間の「格」を踏みにじり、大人になっても弟に兄の名前を呼び捨てにさせたり、人前で兄の欠点を平気であげつらうようになると、兄の面目も立たなくなり、それは結局、親やきょうだいに対する憎しみになって返ってくるだけではないでしょうか。


老王アサムと三人の息子のエピソードが人気を博したのも、きょうだい育児における「平等の理想」に一石を投じ、兄弟間の力関係を分かりやすく描いたからだと思います。

もし、読者の中に、「兄弟は絶対的に平等であるべきだ」という観念があれば、この話はそっぽを向かれたはずですし、多数の支持を得たということは、やはり「兄」「弟」の格というものを、男の子自身が理解している証でしょう。


きょうだいというのは、どうやっても、相手の方がより多くを得て、愛されているように見えるものだし、親がどんなに表面を取り繕っても、「どの子が一番」というのは何となく分かるものです。

だから、不幸になる──のではなく、親がそれぞれに気を配ることによって(子供にはひねくれて受けとめられることもあるけれど)この理不尽な体験が、他者への思いやりや処世の術を育む面もあると思います。

愛においては『同等』でも、きょうだいの『格』は違うもの。

このきょうだいの機微を理解してはじめて、兄は兄らしく、弟は弟としての、納得行く人生を歩きだすのではないでしょうか。

【追記】

このネタには二つのテーマがあって、一つは「きょうだいの格」の話。

もう一つは、「どうしても片一方が愛せない」という話を織り交ぜて書くつもりでした。

でも、これは似て非なる問題なので、後者は独立して、ここに記したいと思います。


育児の掲示板でもよくありますね。

「下の子は可愛いのに、上の子はそうは思えない」という悩み。


気持ちはよく分かります。


でも、ストレスがらみの幼児育児に関しては、あまり悲観しないで欲しいなと思います。

たとえば、周りに「まだオムツしてるの??」とか言われると、どうしても上の子への風当たりが強くなって、「可愛く思えない」と感じられるようになりますよね。

でも、子供が大きくなり、ストレスが軽減すれば、「可愛い」と思う気持ちも自然に戻ってくるでしょうし、ここ数ヶ月のイライラが一生続くわけでもないと思います。

親子に限らず、人間関係って、ダイナミズムでしょう。

関係が近ければ近いほど、接する部分が増えて、いい時と悪い時の差が大きくなるのが普通だと思います。

だから、今、「この子いや、いなくなって欲しい」とか思ってしまうような状態でも、どこかに解決策を求める限り、幼児なら何ヶ月、思春期なら、何年、何十年単位で、緩やかに変わっていくものだと私は思います。

人間のことって、何が救いになって、何が災いするかは、結局、本人にしか分からないものだし(たとえ相手が子供でも)、ヘタに万能感を持って子育てするより、自分に懐疑的な部分も持ち合わせながら、最善の道を模索する──というタイプの方が、子供には楽なのではないでしょうか。

私も一時期、下の子へのイライラが収まらなくて、『婦人公論』あたりで話題になってるような「母娘バトル」の道を歩んでしまうのか──と本気で心配したこともありましたけど、ある日、突然、憑き物が落ちたように「娘、マイラブ」になって、今じゃ一日、チューチューしまくりですからねえ。

何が原因で、何が幸いしたか、なんて、ほんと説明のしようがなくて。

でも、こういう事もあるんだな、と、自分でもびっくりしています。

今、「どちらか一方の子供が可愛くない」と悩んでおられる方があれば、それが幼児育児であれば、希望を持って欲しいと思います。


ほんと、幼児に関しては、月単位でシチューエーションが変わりますし、子供が成長すれば、気持ちもうんとラクになりますのでね。

一日も早く、「我が子、マイラブ」になるよう、お祈りしています。