「おひとりさま」の限界

2017年9月15日恋と女性の生き方

「ひとり」というのは、いいもんだ。

お金も時間も、自分の好きに使えて、イヤなことは距離さえおけば避けられるし、いつも自分の身の回り、半径50メートルの都合だけ考えておけばいい。

もちろん、仕事の責任とか、社会の役に立つ、といった側面もあるだろう。

が、たとえば、仕事として看護業務をこなすのと、自宅で義理親の介護をするのとはまったく訳が違う。前者は社会的に評価され、目に見える形で報酬もでるけれど、後者は誰の目に触れることなく、給料も出ない。

「私だって、ちゃんと仕事してるわ。人の役に立ってるのよ」といっても、それは勤務時間内、自分の都合のつく範囲でのこと。「今のうちに買い物に行きましょう」と思った矢先、おばあちゃんがポータブルトイレに立とうとして転倒とか、夜中に突然徘徊して、明け方までつきっきりとか、自分の1日24時間、1年365日が、介護のためにある。

私も看護職を経験した上でいうのだけども、仕事として職場で介助するのと、自宅で家族として面倒を見るのではまったく質が違う。

だから、一人暮らしの看護婦が社会で果たす責任と、老親を介護する専業主婦と、どちらが肌身に食い込むかと言えば、やはり後者と思わずにいないのである。

私もバブルの時代に独身生活を謳歌し、5万とか10万とか、つつましく暮らす主婦が聞いたら卒倒しそうなお金の使い方をして、映画にもコンサートにも自由に出かけられない生活なんて絶対的に不毛だわ……と考えていたけれど、30過ぎた頃から、「自分のためだけに生きる」ということが何やら居心地悪い、いわば「罪悪感」とでも言うのか、人間としても、社会に対しても、申し訳ないような気持ちを感じるようになった。

それは「結婚してないから」というよりも、「自分にやりたくないことはやらず、自分の目標だけ追いかけて、時間もお金も身体も心も、すべてを自分の為だけに使う」ということに対する『人間的な欠落感』だった。

人生というのは、もちろん自分の為にある。

でも、自分一人で生きているわけではないし、自分で自分を磨き続けても、行き着く先はたかが知れている。それよりも、人に揉まれ、人に傷つき、それでも乗り越えて行く過程の、なんとダイナミックなことか。

本当に成長したければ、もっと豊かになりたければ、「誰かのため」に自分を使うことも学ばなければならない。

自己実現や自己の楽しみだけ追いかけて、自分のためだけに生きてたら、いつか、きっと、バチが当たる。

そんな風に感じたのが、結婚への第一歩だった。

人生のエポックというなら、夫との出会いより、「自分の為だけに生きていいのか?」という問いかけがそうだと思う。

だから、婚活する人も、「出会い」が人生を変えてくれると期待するな、それよりも自分の中の価値観、感情、そういったものが、ある日、ふっと揺らぐ瞬間を大事にしろ、というのはそういうこと。
「出会い」も、突き詰めれば、想念の結晶なのだから。

もちろん、人には様々な精神修養の場があって、山寺に一人こもる中で見事に迷いを昇華させる人もいる。

でも、凡人は、往々にして、イヤなこと、辛いこと、面倒なこと、やりたくないことの中で、心を鍛え、知恵を身につける。

あるアイドル歌手が言ってたそう、「一日に7つ、嫌なことをやれば、魂が磨かれる」(その人は毎日腹筋を50回してるらしい)。

「自分の好きなことに打ち込めば心が高まる」のも本当だけど、嫌なことに尽くすのはそれ以上だよ。

自分一人の世界は平坦だけど、他者と関わり、他者のために自らを使い、「いやだ、やりたくない!」ということも、嫁の気遣い、妻の忍耐、母の思いやり、etc で、どうにかこなしていると、一人の尺度では測れない物事の深みとか尊さとか、そういうの分かってくるからね。

新人研修にトイレ磨きがあるように、人生にもトイレ磨きはあった方がいいのだろ。

「自分の気が向いた時だけ磨く」のと、「認知症のおばあちゃんが大便をなすりつけた便器をエズきながら磨く」のと、胸に堪えるものは違うから。

今でもモーレツに、あの一人暮らしの部屋が懐かしくなるけれど、誰にも、何をも尽くさずに、人生を終わるよりは、これで良かったのかな、と思う今日この頃です。