ワーキングプア時代を生きる 非正規雇用について

2017年9月15日子育てコラム

このワーキングプア問題は、私としては「ついに来たか、ここまで来たか」という感があり、他人事として見過ごすことができないのです。
なぜなら、私も、短期間ですが、『派遣社員』を経験し(10年ほど前)、その社会的経済的、しいては精神不安というものを痛感した覚えがあるからです。
(私の妹も、ずっと美容師をしていたのですが、激務で身体を壊し、派遣社員として携帯電話の支店で事務の仕事をしていた事がありました。でも、やはり半年ぐらいで喪失感や社会的不安定を感じ、再び美容師の仕事に戻りました)

ワーキングプアの時代は、これを読んでおられる親御さんのお子さんがいつか必ず直面する問題でもありますので、この機会に認識を深め、『就職』=『仕事の決定』という人生の基本ラインを決定づける最も重要な場面に、親として適切な助言が出来るよう、参考にして頂けたらと願って書きました。

私が就労していた時代に比べたら、ますます状況が悪化し、感覚的にズレている部分もあるかもしれませんが、あくまで一意見として読んで頂けたら幸いです。

まず、『ワーキングプア』についてですが、Wikiでは、「ワーキング プア(working poor)は、正社員並みにフルタイムで働いても(またはその意思があっても)生活保護の支給額にも満たない収入しか得られない就業者のこと。直訳では「働く貧者」だが、働く貧困と解釈される」とされています。

その具体例については、こちらのサイトに上手にまとめておられるので、ぜひご一読下さい。
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/workingpoor.html

今、非正規社員として働く就労者の割合は、若い世代を中心に中高年層まで広がり、その格差は今後ますます大きくなっていくことが予想されています。

それに拍車をかけているのが、いわゆる『派遣社員』の拡大――正社員でもなければ、普通のパート・アルバイトでもない、どっちつかずの不安定な雇用形態であり、人件費を削減を優先するあまたの企業が進んで取り入れているものです。

私が以前、勤めていた会社も、退職者の空きを正社員で埋めようという動きは無く、さして重要でない雑務は派遣社員に任せて(書類のコンピューター入力、伝票のチェックなど)、職場全体がどんどん平均年齢を上げていく――といった感じでした。

そうした「新卒は必要ないし、これからも採用するつもりはない」といった職場の方針を聞いた時、これから世の流れは、わずかな正社員と、使い回しのような大多数の派遣社員で構成され、若い世代はどんどん門戸を狭められていくのだな、と実感したのが、6年前のことでした。

その間にも、こうした動きは加速的に進み、ついに「ワーキングプア」と呼ばれる言葉を生み出すまでになったのです。

私は、「派遣社員」そのものが決して悪いとは思いませんし、「派遣」という雇用形態も、たとえば子育てを終えた主婦が、パート感覚で社会復帰するには参加しやすい形態だと思いますし、「午前中は働いて、午後からスクール。資格取得後に本格的に就職活動する」など、目的がはっきりした上での短期就労なら、上手に活用できるかもしれません。

しかし、それで一生通すとなると、幾多の問題が指摘されている通り、やはり非常に厳しいです。

こんな言い方をしたら語弊があるかもしれませんが、「派遣社員」といっても、結局は、体のいいパート・アルバイトみたいな部分がありますし、派遣先の正社員でもなく、派遣会社の社員でもない、「どこの何者でもない」、中途半端なポジションです。
また、ボーナスもなく、交通手当や住居手当もなく、まさに日給が全ての形態です。
そうした労働が経済的にも精神的にもいかに不安定か、正社員待遇を経験した方なら、誰でも容易に想像がつきますよね。

私は、派遣社員として働く人がダメだと言いたい訳ではありませんし、派遣という雇用形態が100%悪だと言いたいわけではありません。
現に、派遣であっても、真面目に仕事に取り組んでおられる方が大半ですし、正社員のようにガチガチに拘束されたらかえって働きにくいという人もあるでしょう。どうしてもやりたい仕事があるけれど、正社員としての再就職は難しい、でも派遣なら割と希望の職種に就きやすいというメリットもあると思います。

だからこそ、本人の意欲や能力が給与や待遇面で反映されにくい非正規雇用は多くの問題を孕んでいるし、それを承知で、企業が人件費を浮かすために正社員を減らして派遣の枠を増やしている事に疑問や危機感も感じます。
本人に資質があればあるほど、そうしたデメリットが人間の社会面や精神面に及ぼす影響は大きく、「真面目に働いて、お給料もらってるんだから、それでいいんじゃないの」では済まされない問題があると言いたいのです。

確かに、傍目には、派遣も正社員も見分けがつきません。
たとえば事務職の場合、派遣社員もそこの正社員と同じ制服を着ていることが多いですし、拘束時間もほとんど同じです。
恐らく、仕事用のデスクも正社員と同じエリアに置いているでしょうし、顧客や他部署に対する応対も同じようにしていると思います。
(問い合わせの電話で、「私は派遣だから分かりません」とは答えさせない、等)
しかし、業務や責任、待遇などにおいては、厳然たる区別があるのです。

たとえば、私は、3ヶ月ほど派遣社員として大手メーカーに勤めたことがあるのですが、私が採用された頃から受注が極端に減って、事務所全体が今までになくヒマになってしまったことがありました。
正社員の人は本来任された業務がありますから、それを黙々と続ければいいだけの話ですが、私のように、正社員では手の回らない事務処理を引き受ける派遣社員は、やる事が何も無くて、正社員に声をかけてもらうまで、自分のデスクでぼーっと待機するような有様だったのです。

「ぼーっと座っているだけで、一日一万円以上も日給がもらえるなんて、ラッキーじゃない」と思う人もあるかもしれません。
でも、なまじ意欲もスキルもあって、「ちゃんと仕事しよう」と思って来ている者には、生殺しみたいなものです。
周りもいろいろ気を遣ってくれましたが、それより、スタッフの一員としてきちんと仕事を任され、どんなに忙しくても達成感を味わう方が、「何もすることないけど、そこに座っていて下さい」というより、よっぽどいいですよね。

その職場には、私以外に、別の派遣会社から派遣された若い女性がおられたのですが、三年勤めても時給は150円ほど上がっただけで、これから先、何年勤めても、たいして昇給もせず、また重要な仕事を任されるわけでもなく、派遣でいる限り、その職場の「お手伝いさん」でしかないのは容易に想像がつきました。
それに、正社員の女の子たちからも、ずっと「派遣さん」と呼ばれ続けて、その扱いはあくまで「外から来た人」。
職場の飲み会はともかく、会社全体の行事に参加することはありませんし、スポーツジムや英会話教室などの福利厚生、もちろん有給休暇も利用することもできません。
三年も勤めて、職場の信用もありながら、彼女と正社員の女の子の間には厳然たる差違があり、これが派遣社員の置かれた立場なんだな……ということをしみじみ実感したのです。

彼女は、私よりもっとレベルの高いスキルを持っていたので、
「どうして正社員の仕事を探さなかったの?」と聞くと、
「なんとなく、派遣でも一緒かなーと思ったから」と。

でも、私が、
「それだけの技術があれば、他の会社でも正社員として十分やっていけるでしょう。
派遣と正社員では、給与も待遇も違うし、派遣はどこまで行っても派遣でしかないよ」
と言うと、「うーん、そうか、最初から派遣だったから、そんなこと考えたこともなかった」と納得したみたいで、結局、彼女も派遣を辞めて、そこよりうんと小さな会社ですけど、正社員として再就職したのでした。やはり手応えが全然違ったみたいです。

同じようなケースは、私が最後に勤めた職場でもありました。
そこにも五年ぐらい派遣として勤めている女性があったのですが、彼女の対する周囲の見方もやはり「外から来たお手伝いさん」。
社員としてのキャリアは私よりうんと上なのに、彼女がどんな仕事をこなそうと「お手伝い」と言われ、正社員の私に対しても、「手伝わせて頂きました」みたいに、二歩も三歩も遠慮されているような感じでした。
彼女もまた会社全体の行事には参加できませんし、福利厚生の為の会費を集めたり、重要なミーティングがある時も、「彼女は派遣だから」という理由で参加する必要がなかったり、仲間であって仲間でないような、宙ぶらりんな立場でした

その事についてどう思っておられるのかは分かりませんでしたけど、これから十年、二十年、どれほど真面目に勤め上げようと、彼女の立場はずっと同じで、同じ年頃の正社員の女の子が倍近い年収をとっても、彼女の収入はほとんど変わらず、病気や出産で連続して出勤できなければそれで終わりだし、定年まで勤めても正社員みたいにがっぽり退職金が入ることもなく終わってしまうのだな、と思うと、派遣なんて本当に割が合わないとつくづく思ったのです。

もちろん、非正規雇用という形態をライフスタイルに上手に取り入れて、「正社員のようにガチガチに拘束されない」といったメリットを活かせば、働きやすい形態だとは思いますし、イジメも差別も無く、職場の仲間と楽しくやれるのなら、派遣というものに、それほどこだわる必要もないのかもしれません。

しかし、独立した所帯を持つとなると――まして子供の養育が必要ともなれば――時給だけが頼りの雇用形態は非常に不安定なものです。
正社員が有給を取って一日休むのと、休んだ分、日給をまるまる引かれるのとでは、精神的プレッシャーも桁違いに大きいです。

その上、いつまでたっても職場のお手伝いさん的な役回りでしかなく、いくら「責任」「やり甲斐」といっても、実質的な部分で正社員と差を付けられるのは避けられません。
上昇志向でなくても、昇進とか、社を代表するような重要な仕事を任されるとか、仕事上でのステップアップが図れなければ、やはりモチベーションも下がりますし、頑張っても頑張ってもいつまでも平行線で、自分の後から来た若いキャピキャピした子が、正社員であるというだけで倍ほど給料を取って、重要な仕事を任されていく姿を見れば、自己の無価値感に苦しんだり、自尊心が傷つくこともあるでしょう。

ギリギリの生活には耐えられても、社会人としての自分に自信が持てなかったり、「どこの誰でもない」という社会から切り離されたような無所属感は、人の心をじわじわと痛めつけ、希望を損ねてしまうのです。

私は、人生の幸不幸を決定づける一番大きな要素は「仕事」だと思っています。

「仕事」と言っても、○○会社に勤めて、お給料は幾らもらって……という話ではなく、その人にとって本当にやり甲斐があること、そして、自分が属する社会に役立てることです。

どんな小さな職場でも、安月給でも――あるいは社会的に職業として認知されていないことでも(たとえば、ガーデニング上級者やケーキ名人、絵画や音楽、専業主婦なんかもそうですよね)、その人がその仕事をすることで「生きていて楽しい、これをする為ならいくらでも頑張れる」と思えるものに巡り会えることが、人生を幸せにする最大の秘訣であり、子供から大人になる過程というのは、「自分の仕事」を探す道程であるといっても過言ではないと思います。

それだけに、そういう気持ちを損ないやすい非正規雇用の増加は、今を生きる子供達にとって非常に深刻な社会問題だと私は捉えているのです。

職業選択は本人の責任とはいえ、正規雇用の絶対数が少なければ不利ですし、努力したからといって、社会システムが明日から変わるわけではないからです。

そこで私が声を大にして言いたいのは、「どうぞお母さん、いつまでも子供の良き理解者であり、サポーターであって下さい」という事です。

子育てというと、子供が社会人になったら完了! みたいに思われているフシがありますが、私はむしろ親のサポートが一番大事なのは社会に出てからであり、一番慎重にならなければならないのは、仕事を選んで、最初の一歩を踏み出す時だと思っています。
なぜなら、社会に出てからの悩み、躓き、いじめ、妬みの方が、学生時代より対処が難しいからです。
(たとえば、イジメによる転校は衣食住にはほとんど響きませんが、イジメによる退職は生活に関わる問題ですよね)

今のように、非正規雇用が拡大して、まともな生活を維持することすら難しくなっている時代に、
「正社員でも派遣社員でも大して変わらないよ、真面目に働いたら、それでいいよ」
「気軽に勤めてみれば。イヤになったら辞めればいいんだし」
みたいな考えでは、子供を漂流させる原因になりますし、
「まともに就職できないお前はダメだ」
なんて態度は言語道断ですよね。

また、派遣で働き始めて、毎日真面目に勤めているからといって、「この子はもう一人前」と気を緩めるのは危険ですし、「この就職難の時代に、仕事があるだけマシと思え」というような態度もNGです。

見た目にも安定した正規の職に就いて、本人が充実しているのが手に取るように分かるならともかく、こうした時代の流れの中で、非正規雇用の道を歩かざるを得なくなった時、親として何が出来るか、また何に注意すべきか、その時にこそしっかりサポートしなければ、学校の優等生だろうが、評判のいい子だろうが、その子がそれまで積み上げてきたものが全部水の泡になって、精神的にズタズタになりかねません。

学業の躓きはいろんな形で取り返しが利くけれど(学年最下位のヤンキーが料理屋に就職した途端、支店長にまで上り詰めた……なんて話、案外多いですからね)、仕事の躓きは、本人や周囲の生活をも巻き込んで、ドミノ倒しに悪化する傾向があります。
社会生活におけるブランクは、年月が経てば経つほど取り返しがたい不利になり、「年齢制限」という厳然たる壁の前で何の力も持たなくなってしまうのです。
そんな時、オール5の通知簿や、「いい子だね」という近所の評判や、○○賞を取った写生大会の絵を見せたって、何の役にも立ちません。
社会人としてのスタートラインは、学業のそれより、もっとシビアなものだと私は思います。

だからこそ、この時に、親は最大の注意を払って上手に子供を導いて欲しいし、仕事で問題を抱えた時は、一日も早く解決できるよう、力になってあげて欲しいのです。

これから私たちの子供が直面する社会というのは、私たちが思い描いている以上に厳しいと思います。

正社員しか経験したことのない親には、非正規雇用の微妙な立場は想像しにくいだろうし、好況で就職にもそれほど苦労した経験のない世代は、「頑張っても、頑張っても報われない」今の厳しさを甘く見てしまうかもしれません。

しかし「親に相談しても仕方ない」と子供が距離を置いてしまったら、何かあった時、子供一人で問題を抱え込んで、最悪自殺してしまったり、ドミノ倒しに歯止めがかけられないまま、もっと取り返しのつかない状況に陥ったりします。

親の力で社会システムを変えることは出来なくても、子供の置かれた立場を理解し、その努力を認め、解決に向けて具体的にアドバイスしたり、ちょっと資金援助する……といったことは十分可能だと思うのです。

私は、今時の子育てを見ていると、多くの親は学業の出来不出来や「いい子か、そうでないか」という事ばかりに目を奪われて、社会に出てからの最初の一歩こそが人生の幸不幸を大きく決定づけるということを、きちんと認識してないのではないか――と感じることがあります。

学生時代に特急列車の一等席を確保しておけば、最後まで特急で行けるだろう。
特急にさえ乗せておけば快適だろう。
――そんな感覚です。

でも、現実を言えば、どんな子供も、学生時代から社会に出た時点で、一度、列車を乗りかえなければならないのです。
一流校の秀才だろうが、高卒の鈍才だろうが、「乗りかえ」はみな同じです。
ただ学生時代に特急に乗っていたら、次も特急に乗って、目的地に一番乗りできる確率が高い――というだけの話で、じゃあ、その特急がどこへ行くのか、乗り心地はどうなのか、という事は誰にも分からないのです。

だから、たとえば、各駅停車の鈍行で来て、次も鈍行に乗ったとしても、一駅一駅、確実に前に進めば、本人にとってはそれが幸せになることもあるし、方向の誤った特急に乗って途中下車した人よりも、うんと遠くまで行ける可能性もあるのです。
要は、社会という新しい列車に乗りかえた時、「自分で納得して選んだか」「乗り心地は最適か」「進みはゆっくりでも正しい方向に向かっているか」という事が大事であって、特急か、鈍行かということは、二の次なんですね。

その列車の乗り換えにおいて、親は、案内人であり、車掌であり、線路の整備工みたいなものです。

子供がどこに乗りかえればいいかわからない時は、「こんな列車があるよ」とアドバイスできる。
子供がどうも誤った方向に向かっていると気付けば、「こっちじゃない」と指摘できる。
ちゃんと正しい方向に進んでいるのに、子供が行き先不安になっていれば、「それで大丈夫だよ」と励ますことができる。

これがきっちりできて初めて、「じゃあ、人生の一人旅、ゆっくり楽しんでおいで」と送り出すことが出来るのではないでしょうか。

「就職なんてまだまだ先のことだし、本人が決めるだろう」なんて思わず、今から情報収集だけはきっちりされることをお薦めします。

今、雇用情勢がどうなっているか、社会のサポート体制はどうか、世の中にはどんな職種があって、どんな門戸が開かれているか、若い世代や管理職世代の考え方はどうなのか、新聞や雑誌、ネットなどを通して、親も認識を深め、自分の子供が学業を終える頃にはどのような状況になっているか、ある程度、予測しておくことが大事だと思います。
親がそれについて助言できず、「あなたの好きにしなさい」と任せてしまったら、最初の一歩で躓く原因を作ってしまうからです。

どんなに賢い子供でも、世の中の先にあるものを予測することはできません。
それを予測できるのは、社会経験のある親だけです。
親に反発されたら、子供はきっと言うでしょう。
「それぐらい出来る、分かってる」
でも、真に受けてはいけません。
どんなヘリクツを並べようと、高尚な理想を語ろうと、社会経験のない子供には、世の中に渦巻く矛盾、不運、妬み、現実といったものは、到底理解できないのです。

だからこそ、「自分の好きな仕事をすればいい」「真面目に働きさえすればそれでいい」なんて、決断を丸投げして、横で黙って見ているようではダメなんです。

その為にも、子供にとって「いい仕事」が見つかるように、そしてその仕事を通じて、人生がますます豊かになるように、しっかりサポートしてあげて下さい。

その為の人生です。

生んだからには、そこに導くのが最重要の親の務めだと私は思っています。

ちなみに、私は、高校卒業と同時に看護助手になって、寮生活を始めたのですが、それをアドバイスしてくれたのが伯母でした。
それまで、一応大学受験を頭に置いて、受験勉強らしきものもしていたのですが、自分のライフワークはもちろん、生き甲斐、自立、親との確執など、いろんな心の問題が一気に押し寄せて、「これじゃない、これじゃない」と葛藤しながらの受験生活でした。
でも、願書受付寸前になって、私は大学に行くのをやめて、自活する道を探し始めたんです。
卒業式の頃には、進路も何も決まらず、まったく白紙の状態でした。
進路指導の先生にもやかましく言われましたが、「分かりません」としか答えられませんでした。
そういう状態を見かねた母親が、「気分転換に伯母さんの家に泊まりにいっておいで」と言い(これはもしかしたら伯母の方から示唆があったのかもしれません)、数日、滞在させてもらったのですが、この一年間、自分が心に抱えてきたモヤモヤや葛藤を伯母に話したら、
「あんた、看護婦になりぃよ。資格の欲しい高卒の若い娘たちは、みんな住み込みで働いて、学校に通っているよ」

それで決まりでした。

家に帰ってきたら、電話帳で、京都の総合病院に片っ端から電話して、卒業式から三週間後にはそこで働いていました。
仕事を始めた時は、本当に幸せでした。
こんな私でも社会の役に立つことがある、人が感謝してくれる、初めて「魂が輝く」という気持ちを体験しました。
今、思い返しても、一人ではこの決断は出来なかったと思います。

それからも本当にいろんな事があり、激しく浮き沈みして、今に至るのですけど、その頃のことを振り返ってもつくづく思います。
人生の幸不幸は仕事=その人がどんなライフワーク(社会的に職業として認知されていないものも含めて)に従事できるかで決まる、と。

テストで100点取ったり、学級委員に選ばれたり、って、長い人生から見ればほんの通過点に過ぎません。

「いい仕事に就く為に、良い学校に行って、良い成績を取らなければ」――ではなく、そもそも「いい仕事」とは何なのか、親も子も、正しく認識するところから始まると思います。

<2009/02/14 追記>

こちらは雑誌『宝島』の元編集長さんで、文章教室やメルマガ発行を手がけておられる村松恒平さんのメルマガ
 [プロ編集者による] 文章上達<秘伝>スクール】に掲載されていたものです。

ぜひご一読ください。

通算240号  【世界の中心に本があった】 バックナンバーはこちらです

【富と不況のお話】

久しぶりに文章と関係のないことを書きます。
気が向いた方は読んでください。

世の中、不況の話ばかりです。

坂本哲志総務大臣政務官という人が「本当にまじめに働こうとしている人たち
が集まっているのかという気もした」と言ったことに対して、ネットで読むと
「よく言ってくれた」という声が半数近いのに僕は驚きました。

派遣村というものの性格や内情についての反感が多いようですが、それは一つ
のシンボリックな事柄であって、その中に派遣労働者全体に対して、自業自得
である、自己責任である、という空気があるのですね。

細部の議論はいろいろあるでしょう。でもこれが自己責任というのはよくない。
いちばん考えないといけないのは、富の偏在ということです。

世界の資産の約半分は1パーセントの人々が持っているといいます。
そういってもピンと来ないでしょうから言い換えます。
100人の人がいて1人が5000円を持っている。残りの5,000円を残りの99人で分
け合っている。あるいは、奪い合っている、という状況です。

つまり、その1パーセント以外は全員が貧乏人なのです。
日本人はよくセレブといいますが、ずいぶん貧乏臭いセレブです。
海外では、セレブといったら自家用ジェットくらい持っていなければいけない。
それも仕事に使ってはダメで、昼飯を食べにいくのに下駄代わりに使うようで
なくてはダメです。

ジェット機というのは、買うのもたいへんですが、維持するのもたいへんです。
パイロットを雇い、常にメンテナンスをし、格納庫を借りて、燃料費を払う。
この費用の1~2年分で会社員の生涯賃金なんて飛んでしまうくらいだと思いま
す。
そういう費用が痛くもかゆくみない、という人種が世の中にはいるのです。

その人たちは別にたくさん働いたわけでもなくて、たまたま石油王やら、財閥
の家に生まれただけなのです。
働いてお金を作った、というのは、マイナスです。いわゆる成り上がり者とい
う部類で、セレブの仲間には入れないのです。
ホリエモンも、自家用ジェットを持っていましたが、あっという間に叩き落と
されてしまいました。
成り上がりの末路です。

そういう世界に目をやると、つまり、その1パーセント以外は全員貧乏人だ、
ということがわかります。「目くそが鼻くそを笑う」という言葉がありますが、
派遣の人を蔑んだり、逆に少しだけ生活が上の人をねたんだりするのは、目く
そな態度というべきです。

貧乏人がいがみあってもどうにもなりません。
貧乏人は義理と人情を大切にしないとね。
今の世の中は貧乏人ほど心がささくれていくのが切ないのです。

アメリカでは、大量に食べられる食品が捨てられている。これを拾って食べる
フリーガンという人たちのニュースを見ました。まだ賞味期限も切れていない
食品が大量に捨てられていくシステムなのです。
フリーガンの人たちは、乞食やオームレスではなくて、そういう現状をアピー
ルするために、家も仕事もありながら、活動しているようです。

富は1パーセントに集中し、世界には飢えている子どもがたくさんいるのに、
アメリカでも日本でも食品が大量に捨てられている。
富や食糧がないわけではないのです。

世の中の仕切りが硬直しているから食えない人が出るのです。
仕切り自体をなめらかに流動的にできたら、誰も飢えないだけの生産力はじつ
はあるのです。

ほんの10数年前には、日本は「一億総中流」と言っていたのです。
それだけ豊かなものを実現しながら、今や下手をしたら餓死者が出そうな情勢
です。
そこで何が起きたのかをよく考えなければいけません。

これは、一つはIT化の流れの結果でもあります。これはもともとOAなのです。
オフィスオートメーション。オートメーションとは、つまり自動化による合理
化、人がどんどんいらなくなるシステムをすごい勢いで作っているのです。
だから、IT産業は隆盛ですが、彼らが働けば働くほど失業者が増える。

職人の手作業をコンピュータで代替すれば、職人はいらなくなる。
しかし、職人の手を離れれば技術は硬直して、やがて滅びるのです。

人が単純労働から解放されたら、その分もっと創造的な何かをすればいいと言
われたけれども、現実はそうなってはいない。ますます労働の質は断片的で非
創造的なものになっている。
生産力が上がったら飢える人がいなくなると言われたけれども、富はますます
偏在傾向を強めて逆のことが起きている。

派遣の人たちの労働意欲を云々する前に、そういう全体を真剣に見ないとどう
にもならないのです。

働く気がある人は、豊かではなくても、それなりの仕事がなくてはいけない。
そういう人を社会の外へと押し出してしまえば、結局生活保護にぶら下がり、
僕たちの税金に跳ね返ってきます。
しかし、その人たち個人の責任にして批判する前に、もう少し全体の構造につ
いて公正に考え、発言する人が増えていかないと、ますます住みづらい世の中
になるでしょう。

何でも「個人」に起因するのは簡単なことです。

でも、同時に、全体を見つめ、物事の本質を理解しないと、責任の所在をうやむやにし、ますます解決を遅延させる原因になります。

皆が「自己責任論」で片付けてくれたら、政治家としてこれほどラクなことはありません。

果たしてそれは国民みんなが望むことなのでしょうか。