e な症候群

2017年9月15日メルマガ書庫

インターネットを始めて、もうすぐ三年になる。
その三年の間に、いろんなものが急速に様変わりした。

始めた頃は、プロバイダーの接続料も高かったし、ISDNも無かった。
メルマガだって、私が初めて創刊した時には、「まぐクリック」のような広告はもちろん、バックナンバー機能も無かったし、申請者には「まぐまぐ」創設者のHayamiさんから熱いメッセージ(もちろん定型句だけど)が届いたりして、[私も遂に発行者になるんだなあ]なんて妙に感慨深かったものだ。
⇒ 今は無いですけどネ。

それにつけても、最初の頃はどっぷり浸かってましたね。ネット・サーフィンとフォーラムに。とにかくクリックすれば、次から次に画面が現れて、いろんな情報が飛び込んでくるんだもの。それに、いろんな人とのメッセージのやり取りも交換日記のようで楽しかった。

とにかく家に帰れば、まずPCセットアップ。それから直ぐにネットに接続して、メールチェック。次は、お気に入りのフォーラムを回って、レスが有るかどうかチェック。レスが有れば、いったん接続を切って、メモ帳にお返事を書き、また接続してレスして回る。それが日課。

「ネットはいろんな人と知り合いになれるし、活発な意見交換もできる。スゴイよう」なんて真顔で友達に吹聴したりもしてたのだ、あの頃は。

そんなネットに対する見方が変わったのは、とある『談話室』での出来事がきっかけだ。
私は建築が好きで、あちこちの建築系サイトを巡回していた。
中でも一等お気に入りだったのが、某シロウトさんの主催する、『ばかけんちく探偵団』というコミカルなページ。
特に、今で言う掲示板の形式を取っていた『談話室』の意見交換は秀逸だった。普通、プロと素人が入り混じれば、「プロのくせに拙い」「素人は黙れ」のノリになるのだが、その『談話室』では非常に冷静な討議がなされていて、「プロは素人の感性を甘く見がち、素人はプロの専門性を無視しがち」というスタンスで、建築の面白さや難しさが、時にジョークを交えながら、真剣に語られていたものだった。。

ところが、そのサイトも有名になり、アクセス数もうなぎ昇りになると、『談話室』で語られる内容がどんどん批判や中傷めいたものに傾き始めた。
以前は、せいぜい「丹●●三の新作は、まるで宇宙基地」みたいなオチョクリだったのが、批判を通り越して、妬み・やっかみとしか思えないような罵詈雑言に変わっていったのである。

また『談話室』のまとめ役として積極的に発言されていた某建築家さんに対しても、ここぞとばかりイチャモンのオンパレード。どうせやるなら、同じ土俵に上がって堂々と勝負すれば良いのに(というより、同じ土俵に上がるだけの才覚が無いから、こういう場所で匿名で書き込みするのだろうけど)、リクツばっかり並べて、とにかく言い負かそうとするのだ。

そうして『談話室』が一変バトルの場になると、当然、良識ある発言者は去り、似たような『ルサンチMAN』(現社会への怨み“ルサンチマン”に満ちた人間)ばかりが寄り集まる結果となった。今や便所の落書きのような書き込みばかりが延々と続き、当時の面影は全く無い。

そうかと思えば、ニフティの某フォーラムは、五分おきのレス合戦に加え、会議室をまたがるバトルトークの嵐。とにかく、どちらかが折れるか、消えるかするまで、絶対に止めない。

何をそんなに熱くなることがあるのか──所詮、どこの誰かも分からぬ匿名の書き込みじゃないか──と思いつつも、人間の理性や自制心を麻痺させるネット特有の体質に一種の危惧を感じずにいない。
そして、ネット特有の体質が何所にあるかと言えば、やっぱり『覆面性』の一言に尽きるのだ。

前にも少し書いたが、私は以前、癒し系のエッセイを発行していた。
もちろんメルマガを発行するのは初めてだったし、「発行者はテキストを配信するだけ」「読者は読むだけ」という頭しか無かったから、いわゆる『読者メール』というものが続々と届いた時には、正直、ビックリしてしまった。
なぜなら、その大半は、延々たる悩みの独白だったからである。

「こんな事を話せるのは、アナタしかいません」「アナタなら、僕の苦しみを分かってくれると思うのです」「アナタの人間性に触れてみたい」・・etc

何と孤独で淋しい人間が多いのかと思った。匿名で語る見ず知らずの人間に愛と理解を求めてどうするのか、とも思った。

何より、彼らの頭の中にいる『アナタ』とは誰なのか。

発行者“M嬢”は確かにこの世に存在するが、ネットの中に居るのはあくまで断片であって、全てではない。それは実体の無い影と同じで、言葉から解釈され、個々の頭に作り出された、極めて個人的なイメージに過ぎない。

彼らがメールを書いている相手は、実在する“M嬢”ではなく、自分の頭の中に棲む“イメージM嬢”であり、『対話』と言いながらその実、自分の内なる“M嬢”に向かって『独白』しているのである。

もちろん、苦しみを吐き出したい気持ちは、人間誰しも経験する。
ネットを通じて知り合った人に、いろんな心情を吐露したい気持ちも分からなくもない。実際、私もそういう時があった。
だからといって、それに依存する気になれなかったのは、現実の人間関係の方がはるかに面白く、より深い安心感と絆を与えてくれるからである。

以前、月刊SPA!(何月号かは忘れたが)で『eな症候群』という特集が組まれたことがある。
例を挙げれば、
「一日に何度もメールをチェックするメール依存症。誰からもメールが来ない日は、たちまち孤独感に襲われブルーになってしまう」
「自分の書き込みにレスがあるかどうか、そのレスは否定的でないか、など、何度もチェックしないと気がすまない掲示板依存症。自分の望むようなレスが得られなかったら、たちまちキレて、暴走する」
「自分の悪口がどこかのサイトで書かれていないか気になる検索中毒。あらゆる検索エンジンを使って、自分のハンドルネームを検索しまくる」などなど。
中には、携帯電話のメールの打ちすぎで、親指にメールだこを作る人もいるらしい。私の友人の同僚は、携帯電話とメールがキッカケでノイローゼになった。

『eな症候群』の最大の特徴は、どこまでも自己中心的であるということだ。──というより、ネットそのものが、自己解釈によって成り立っているというべきか。ネットにあるのは、『言葉だけ』。その言葉を解釈するのは、『自分だけ』である。

複数で同じパソコンを使って、「この言葉は、こういう意味じゃないかな」「この人は、こういう事が言いたいんじゃないかなあ」なんて話し合いながら、ネットの画面を見ている人など無いでしょう。ましてや、それを書き込んだ人間と、「これは、どういう意味ですか?」などと、リアルタイムで意志の疎通を図ることも無いだろうし。
⇒ チャットはどうか知りませんが。そりゃもう、ひたすら、画面に現れる言葉を自分の中で「あーでもない、こーでもない」と解釈して、一人、パソコンの前で、喜んだり、傷ついたり、落ち込んだり、怒ったりしているわけでしょう。その様、客観的に見れば、『妄想』に近い。

何時間もパソコンの前に座って、どこの誰とも分からぬ相手に語りかけている姿も。

もちろん、自分の想念を言葉に具現するプロセスを否定しようとは思わない。なぜなら、雑然とした無形の感情や思考を具体化することで、自分を客観視したり、新たな一面を発見したり、感情を沈静させたりすることが出来るからだ。

悩みをメールに書くことで、気が収まるならそれもいい。腹が立つなら、メモに、ありったけの罵詈雑言を並べてみるのもいいだろう。書き終わる頃には、ウソみたいに心が鎮まっているかもしれない。

問題は、発信すれば、その言葉の先に相手が居る、という事だ。
メールは「私の秘密日記」ではない。
送信すれば、全ての言葉は相手に放たれる。
フォーラムや掲示板なら、何千、何万という不特定多数の人間が目を通すだろう。
そして、その全てが好意的に解釈してくれるとは限らない。

にもかかわらず、そうした事実を意識しながら慎重に言葉を選んでいる人は少ない。分かっていても、時にプッツリと自制心が切れて、取り返しのつかない失敗をやらかす人もある。かく言う私も、何度か失敗した。相手が現実に良く知った人間でも、ネットやEメールの手軽さは、どこか自制心を麻痺させるものがある。

時に、こうしたバーチャルな人間関係や、似たもの同士が寄り合うネットのコミュニティに救いや慰めを求めるのも良いけれど、それだけに偏ってしまうのは余りに淋しすぎる。……というより、「自分の身近に何でも話し合える友達がいない」というのは大問題ではないか。

世界で初めて電話が実用化された時、「これで人間は孤独から解放される」と大いに期待されたそうだが、実際には、人間はいっそう孤独になった。鳴らない電話を待ち続けたり、電話の有無で愛情を推し量ったりと、むしろ新しい孤独を作り出したような感さえある。

今や携帯電話も爆発的に普及し、たくさんの人が当たり前のようにネット・コミュニケーションに首を突っ込むようになったが、それで人間が孤独から解放され、人間関係も親密になったかといえば、そうでもない。
コミュニケーション・ツールばかり発達し、スキルの方は全然だ。

まともに人と話せない人が、今の世の中、余りにも多い。

§ DVD

ハリウッドでも他作出演で知られるケヴィン・ベーコンが主演。誰の目にも触れなくなった途端、エゴを剥き出しに冷酷な殺人鬼となっていく変化が見物。B級なりの面白さがあります。

初稿:00/11/19