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命の値段 ~臓器移植の話題から~

2000年10月26日

とある掲示板を散策していると、興味深い書き込みに出会った。

「重い心臓病を患う女の子の両親が、海外で移植手術を受けるための資金5000万円の募金を募っていた。だが5000万あれば、難民キャンプの子供が何人救えることか。女の子の両親にしてみれば、我が子を救うために5000万円かき集めたいところだろうが、何か釈然としないものを感じる」

というような内容である。

先日も、某新聞は、ドナーカードの携帯率が広報活動の割に低く、登録者数も伸び悩んでいるという事実を報じていた。事実には同情するが、我が事となれば引いてしまう、というのが正直なところか。

それについて、5歳の娘と2歳の息子を持つ友人に話したら、

「うちの子がそんな病気にかかったら、それが寿命と思って諦めるよ。自分の子を延命さすために、他人の死を希み、待つなんて、私らにはできない。移植したって、完全に健康体に戻るわけじゃないのだもの。大手術や生涯にわたる免疫療法などを考えたら、果たして、病状の悪化に怯えながら、細々と生き長らえることが、この子にとって本当に幸福なのかどうかと考えてしまう。

昔は、病気になった時点で死んでいた。技術の進歩が、寿命という自然の定めも死の概念も変えてしまった。もし、この子が、五年の命しか与えられずに生まれてきたのなら、その五年を精一杯、幸せなものにしてやりたい。たとえ五年でも、人間の一生には変わりない」

子供を持つ親にとって、最大の苦しみは、子供の苦しみを代わってやれないことである。

親は、子に何もしてやれない自分を責め、酷い運命を授けてしまった自分を呪う。

そしてまた、口さがない世間は、慰める振りをして親を追い詰めるのだ。

「子供が可哀想じゃないか」「その気になれば、海外で移殖する手もあるだろう。親ならそれぐらいのことはしてやれ」……etc。

親は、子供が病気であるという事実だけで十分苦しみ、生きることに必死に努力しているのに、表面的だけ見て、いろいろ口出しするのだ。

今の社会は、『うちはうち、隣は隣』という距離感を欠き、価値観の相違を認め合うことさえ出来なくなっている。どこの親子にも、それぞれの死生観、幸福、人生設計というものがあるはずなのに、『隣がこうなら、アナタもこうすべき』というお節介な価値観の押付が横行し、親子が自分の家族の在り方について、ゆっくり考える余裕さえ無くなってきている。

一方、腎不全で人工透析を受ける20歳の息子に生体腎移植を申し出た母娘を知っているが、決断は非常に微妙で勇気の要るものだった。

臓器としては、もちろん娘の腎臓の方が新鮮で機能も高いが、娘の将来を考えると母親の腎臓を使ったほうが良いということで、母親が自分の腎臓を提供することになったのだが、いくら腎臓は二つあるといっても、それが半減するとなると大変な負担である。

いかに肉親でも、いざ我が身を差し出すとなると、本当に勇気と覚悟が要るものだ。

他人はその痛みが分からないから、「立派ですねえ」だの「親子だから当然だ」などと平気で言うが、大義を振りかざして扇情する人に限って、当の親子が苦しんでいる時には何の手助けもしてやらないことが多い。『やったら、やりっ放し』というのが、この人の世であるようだ。
みな、移植、移殖と簡単に言うが、人間が人間の身体を切り刻む重みを本当に分かった上で言っているのかと思う。

私はこれまで、剖検や検死、手術等に何度も立ち会ってきたが、人間が人間の身体にメスを入れ、バラすという行為は、料亭の板前がフグの肝を取り出すのとは訳が違う。

ホラー映画の解体シーンだって、ちゃちな遊びだ。あんな物を見て、「実際に人間をバラしてみたい」と妄想する人は、どこかの医大に剖検の見学でも申し込めばどうですか、と言いたいくらいだ。

人間の身体から臓器を取り出したら──というより、人間の身体を切り開いたらどんな風になるか──生きている人間はともかく、死んだ人間の肉体でさえ、その人の生を生々しく物語るものである。肺、肝臓、小腸、骨、心臓……その一つ一つを見れば、その人がどんな所で生まれ育ち、どんな食事を好み、どんな職業に従事し、どんな生活を送ってきたか、いろんな場面が思い浮かぶものだ。

法医学でも『死体は語る』と言うが、人間は死んでも人間である。ペットボトルじゃあるまいし、『どうせ死んだら灰になるのだから、使えるうちに役立てましょう』というリサイクル的な発想で移殖を語る人があるなら、一度、剖検なり手術の場に立ち会って、一個の肉塊と化した人間の身体から何を感じるか、聞かせて頂きたいものである。

そして、注目の脳死移植。これも本当に難しい問題だ。

人が、脳死移植というものに対し、何かしら抵抗を感じているとしたら、それはやはり『死ではない』という思いがあるからだろう。

私も自分の肉親が脳死状態になったら、たとえ本人にその意志があったとしても、即座に臓器提供する気にはなれない。

ついさっきまで、生きて、呼吸して、話して、歩いていた人間が、突然倒れ、「もう脳は死んでいます」と言われても、絶対に納得いかないからだ。

人間には、『存在するだけで心の支えになる』という愛もある。その人がどんな惨めな姿になろうと、たとえ物言わぬ肉塊になったとしても、生きた血の通った温もりがある限り、人は愛せるものだ。

それを思えば、「脳機能の停止=生きた人間としての価値の終わり」とは言い難い。脳死した人間も、愛する者には不可欠だからである。

脳死に基づく臓器提供とは、要するに、まだ生きているかもしれない人間の身体を切り開き、臓器を取り出すことである。鼓動する心臓、血の通う腎臓を摘出し、完全な肉体の死に変じてしまうことである。

こういう表現をすれば、脳死移植推進派に非難されるかもしれないが、臓器移植というものは、一人の人間の死を前提に行われるものであり、その死を決定付けるのは第三者である。

人の死生観はそれこそ千差万別であり、「全ての死は、他人の生に役立つことで有意義になる」とばかり、全体の価値観の統一を図るのは、あまりに短絡的ではないだろうか。

私は、「私が生き延びるために、誰か臓器を提供してくれ」と思う気持ちを否定しようとは思わない。

もし自分が重い心臓病にかかり、もはや臓器移植しか生き延びる手立てが無いと分かれば、通りすがりの人間を襲っても、その心臓が欲しいと切望するかもしれない。

誰しも自分の命はいとしいし、生き延びるチャンスがあるなら、どんな希望の糸にもすがりたいものだ。それが臓器移植によって実現するなら、ぜひ制度を整えてもらいたいし、多くの人が理解と協力を示してくれることを願うだろう。

だが、そこにはやはり『一つの死』が絡む。それも天命ではなく、人間が決定付ける不自然な死だ。

私も以前、臓器移植のキャンペーンに携わったことがあるが、街行く人に「ご登録をお願いしま~す」と呼びかけている人自身が案外登録していなかったり、「だけど、うちの家族に臓器提供させるのはイヤよねえ」などと平気で言う人もあることを思うと、キャンペーンのもつ『善』の雰囲気にはどうしても抵抗を覚えてしまう。

もちろん、キャンペーンは大切だと思うが、それなら“枯れ木も山の賑わい”とばかり、何の覚悟も無い一時のボランティアに頼るのではなく、勇気も覚悟も持った登録者主体でやってもらいたいと思うのだ。

まあ、世の中には、息子が重い腎臓病に苦しんでいるのに、「なんで俺たちが臓器を提供しなければならないのか。腎臓バンクがあるだろう」と、医師に食って掛かる両親もいるぐらいですから、誰しも、我が身を差し出すとなれば腰が引ける、というのが人間として正直なところでしょう。

『脳死』に限らず、現代医療が作り出した不自然な生命現象は数え切れないほどある。

30年前ならとっくに死んでいるような人も、今は生きてこの世に在るし、死にたくても強制的に生かされて、死なせてもらえない人も大勢いる。

かといって、人間が病死の苦しみから解放されたかといえば、まったくで、その本質は4000年の昔から全然変わっていない。

むしろ、新しい問題ばかりが蓄積し、原始の頃に比べたら、生も死も複雑になるばかり、という感がある。

そんな中、脳死のように、「人間が人間の死を決定付ける」のは本当に不自然だし、おこがましいとさえ思う。それでも、なおかつ、他人の命の可能性に賭けて、神の領域(この言葉もあまり適切ではないけれど)に踏み入ろうというなら、私たちは少なくとも『自分自身の命の終わりを何処に定めるか』という個人の価値観だけはしっかり確立しておかねばならない。

社会の価値観とは別次元で。

あえて言うなら、臓器移植は、求める人と意志ある人との間で取り交わすべきものなのだ。

臓器移植は、一つの死と一つ生をもたらす。社会の理解と協力を深めたいなら、社会の関心が必ずしも登録者数に反映されるわけではないということを踏まえた上で、扇情的なキャンペーンは控え、冷静客観に討議を進めるべきだろう。

ところで、冒頭の『5000万の意義』についてだが、人間の生命が一方では重んじられ、一方では軽んじられているというのはよくある話で、必ずしも平等とはいかないのがこの現実社会である。

薬や検査の過剰投与により医療費の増大が懸念されている日本とは対照的に、海の向こうでは、たった一本の抗生剤の不足の為に衰弱した子供がばたばたと死んでゆく。

骨と皮ばかりで救いの手を待つ海の向こうの子供たちに比べれば、薬漬け、検査漬けで、社会資本を使い倒している日本の老人は、神の名の下ではるかに優遇されているというべきだろう。

一人の女の子に与えられる5000万円の募金が、海の向こうでどれ程の価値があるかなど、この際、問題ではない。

もとから人間は、不平等なのである。

初稿: 00/10/26

【命の値段 後書き】

前回の『命の値段』はいかがだったでしょうか。    
    
人間の生死に関わるテーマは、扱いがとても難しいのですが、それぞれに、いろいろ感じてくださったようで、安心しています。    
    
人間の生死に関する考えや価値観は、本当に人それぞれですし、どれが正しい、どれが間違い、ということは、一概には決められません。    
    
私が前回書いた内容にも、賛否両論あるでしょう。    
    
あって当然です。    
    
私は、人間の意志や生命を尊重するということは、「移殖賛成」「移殖反対」の是非を裁く事ではなく、その人それぞれの価値観を尊重することだと思っています。    
    
自分の意志に誠実になれない人が、どうして他人の生命にも誠実になれるでしょう。    
    
自分の生き死にも決められない人が、どうして他人の生き死にを決めることができるでしょう。    
    
ところが、時流や風潮に流されやすい人は、物事の表面だけ見て、「ああだ、こうだ」と決めてかかりやすい。    
    
前回のメルマガでも少し触れましたが、心臓病の子供を持つ親が、本当は安らかな時間を望んでいるのに、「親のくせに何もしない」「海外移殖という手段があるだろう」と常識論で責め立て、追い詰めてしまうことも実際にあるのです。    
    
世の中には、「何もしない」という愛もあり、それもまた大変な勇気と決断を必要とするのですが・・。    
    
仮に、親子が5000万円の寄付金を得たとて、それが本当に救いになるのでしょうか。    
    
渡米して、万事順調に行けば良いですが、そうそう思う通りに行かないこともあるでしょう。    
    
しかし、5000万円の寄付金を受け取った親子にしてみれば、    
    
「何が何でも成功しなければならない」    
    
「絶対にこの子を救って、幸せにならなければならない」etc    
    
5000万円分のプレッシャーがかかるものです。    
    
その上、移殖は一生の問題です。    
    
手術が成功すればそれで終わりという訳ではなく、その後の生を生き抜くために、精神的にも経済的にも、莫大なものを懸けねばなりません。    
    
思わぬ事態が生じた時、もっと困った状況に陥った時、果たして、人は同じように手助けしてくれるでしょうか。    
    
人は簡単に「援助」だ「救済」だ「奉仕」だと口にするけれど、『人を助ける』って、本当に大変な事。    
    
最後まで責任もてないくせに、安易に手先口先だけ差し出す人のどれほど多いことか。    
    
そういう現実を見るにつけ、付和雷同みたいに、「私はこう思う」「私ならこうする」と簡単に言い切ってしまう人の心に、薄ら寒いものを覚えるんですよね。    
    
皆さんも、今後、いつ、こうした場面に遭遇するか分かりません。    
    
それは肉親の死であるかもしれないし、自分の寿命が尽きる時かもしれない。    
    
その時、自分が、あるいは周囲が、どのような選択をするかは、実際、その場面に遭遇しないとなかなか分からないものです。    
    
人間というのは、「オレならこうするぞ」と思い込んでいても、実際、その渦中に投げ込まれると、たちまち自分を見失うものですから。    
    
とにかく思うのは、あらゆる状況に想像力を働かせて欲しいという事。本当は、現場を体験するのが一番なんですけどね。    
    
そうして、本当の意味で、自分の生の重みを知ることが、他人の生命を尊重することに繋がるのではないかと思いますよ。    
    
    
初稿: 00/11/07(火)

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