水原勇気とセクハラと現代のドリームボール

2017年9月15日アニメ&漫画, 恋と女性の生き方

女の子にプロ野球選手がつとまるかい!

漫画家の水島新司さんが「女性のプロ野球選手の漫画を描こう」と思い立った時、いろんな有名選手にアドバイスを求めたところ、ほとんどの選手が、

「女の子にプロ野球の選手がつとまるわけないやろ」

「プロを舐めたらあかんよ」

みたいに否定的な回答だったそうです。

でも、その中で一人、「生涯一捕手」の野村克也監督だけが、

「その女の子にしか投げられへんボールがあれば、リリーフエースのような形で使えるかもしれんな」

と仰ったとか。

それが『ドリームボール』の始まりだそうです。

このエピソードは単行本のあとがきに記されていて、今も心に深く残っています。

私が持ってたのは講談社文庫。確か、この11巻の後書きだったと記憶しています。(うろ覚えで申し訳ない)

その流れで、一年ほど前、アニメ『野球狂の詩』水島勇気・編を見たのですが、今にして思えば、けっこうセクハラな描写が多いんですよね。

・初日、選手の宿舎を訪問した勇気が、突然、コーチの武藤さんに頭をしばかれる。
「バカヤロウ、敷居を踏みやがって! 敷居を踏むということは、その家の主人の頭を踏むことだ!」(私もこれは親や祖父母に教えられましたよ。今でも怖くて敷居は踏めない・・)

・勇気の入浴中、突然、武藤さんが浴室に入ってくる。

・「もっと筋肉をつけろ」と武藤さんが勇気の胸を鷲掴みにする。

・他にも「女のくせに」みたいな描写があちこちに・・

この作品が少年誌に掲載されたのは1970年代。

当時は問題にもならず、けっこう普通に受け入れられていました。

水島新司先生の作品は「あぶさん」「ドカベン」「野球狂の詩」、ほぼ全巻読破していますが、決して女性蔑視の作家さんではないですよ。

同等でありたい

女性が男性と同等の力を持つ。

あるいは、男社会のルールから自由になる。

それは、ボーヴォワールの『女は女に生まれない。女になるのだ』という、あの有名な一節に象徴されるように、近代以前から女性にとって永遠のテーマだと思います。

私の中では、「オスカル・フランソワ」に始まり、キューティー・ハニー、クイーン・エメラルダス、峰不二子、志穂美悦子、シガーニー・ウィーバーに代表されるような、女ながらに知恵も武力も立ち、男性と同等に活躍するキャラクターが憧れでしたし、大人になってからは、ケイト・ブランシェットが演じるような「自らの弱さ・脆さを自覚しながらも、男社会の中で凜として生きて行く」キャラクターに魅了される。彼女たちは決して「スーパーウーマン」ではない。適度に愚かで、適度にヒステリーで、時に同性からも誤解され、女社会で孤立することもある。それでも世間に妥協することなく、自分に与えられた宿命や役割の中で健気に生きて行く、その真っ直ぐで、どこか危なっかしいところが、とても魅力的なんですね。

とはいえ、女性にはいろいろと不利な点が多いし、この社会が「生産的であること」を大前提として動いている以上、女性はどうしたってそこから弾き出されてしまう。

いくら能力に秀でても、男性と完全に同じコンディションで生産することは出来ないし、気力があっても、月に一度は玉姫様のご乱心で普通に立ってるのも辛い時がある(私も重症タイプなので、周囲に仮病と誤解されて傷つく人の気持ちはよく分かります)。

オギャアと生まれた時から、身体半分に重石と空き袋を抱えてて、不利な条件の中、男性と同等の結果を叩き出す訳ですからね。

そりゃもう、男性以上に、精神的に逞しく、ネコのようにしたたかに生き抜かないと。

私も20代から30代にかけて、よくオジサン連中に言われましたよ。

女は頭を使えよ

腕っぷしでも、体力でも、社会における立ち位置でも、男性には絶対に敵わないのだから、その分、男以上に頭を使って、利口に、慎重に、生き抜けという話です。

昨今、ますます男女平等、女性輝け、みたいな話になってますけど、女性の権利は保障されても、身体的、精神的、知識や職能においても、男性と同等、同質になることは絶対にない。

女性にとっての本当のゴールは、同等になることではなく、肉体的な不利や男性との違いを尊重されることですよ。

仮に男性と同等の地位に就き、同等の収入を得たとしても、女性として尊重されているかどうかは別でしょう。

たとえば、31歳の独身女性に異例の昇進が持ち掛けられても、たいていの女性は「いつかは結婚もしたいし、子供も産みたいのに」と足踏みする。漠然とした不安や焦りから仕事に身が入らなくなる時期もあるでしょう。

それを男の側から見て、「男性と同等に昇進の機会も、給料もやってるのに、何が不満なんだ、これだから女は・・」という論調になるなら、それは決して「女性の解放」とは言わない。

生理前中、吐き気や目眩が重症で、立ってられないほど腹痛がひどいのに、「生理は病気ちゃう。田中女史はそんなこと一度も言うたことがない」と切って捨てるのも同様。

女性が本当に尊重され、男社会でも大切にされる、というのは、そういう葛藤や焦りを男性に理解される事ですよ。

その安心感や肯定感があって初めて、自分もこの社会(会社)の一員として尊重されている実感がある。

ある意味、待遇や給与に多少見劣りする部分があっても、その実感があれば「女性も働きやすい職場」として機能するのではないでしょうか。

勇気とドリームボール

水原勇気の場合、こりゃもう完全に体力で劣るし、気力でも男性には敵わない部分がある。

「女は胸が弱点や。ピッチャー返しで潰したれ」と、阪神タイガースの打者に立て続けにピッチャー返しされて、その度に「キャーっ」と逃げて内野ヒット、新聞や観客から「これだから女は・・」と批判されるエピソードもありました。

ちなみに巨人の槙原投手もピッチャー返しに恐怖してマウンドにしゃがみこみ、「惰弱」と笑いものになったことがありましたよね??(槙原じゃなかったかな?)

水島新司に「女の子のプロ野球選手なんて・・・」と批判的だった有名選手の意見も「ごもっとも」かもしれません。

だけども、勇気と鉄五郎はプロの猛者にも勝てる必殺の決め球を編み出す。

それが『ドリームボール』です。

打とうとしたら身体が揺れて、名うての打者でも空振りしてしまう、不思議な変化球です。

でも、勇気はそれを連投しない。

一度だけ投げて、「水原のドリームボール」をセンセーショナルなニュースにした後、「我こそは」と意気込む各球団の強打者を相手に、わざと平凡なカーブやストレートを投げて翻弄します。

水原がマウンドに立てば、「来るか、ドリームボール!!」と、観客も審判も固唾を呑んで見守る。

百戦錬磨のバッターも変に力が入って、まともな判断力を失ってしまう。

それを逆手にとって、リリーフの「一球」で屈強な男たちを仕留める訳です。

女性ならではの戦略ですよね。

女性の水原勇気が正面からピッチングしたって永久に男には勝てない。

男の百倍、練習を積んでも、それでもやっぱり体力や度胸で敵わないだろう。

だけども、まったく勝てないわけじゃない。

柔軟で、素直な女性だからこそ、男の意地や競争心を逆手にとって打ち負かす方法がある。

それを鮮やかに体現したのがドリームボールであり、水原勇気の女の子らしさだと思います。

こういう場面、男はどうしても「このオレが」という我が前面に出る。

でも女の子の勇気には変なプライドがない。どんな風にでも自分を合わせ、自分の信じたものをとことん信じ抜ける素直さがある。

もし、勇気が男性で、なまじ己の実力に自信を持ち、鉄五郎の戦略を疑ってたら、たとえドリームボールを完成しても、それをマウンドで活かすことは出来なかっただろうから。

最終的に、ドリームボールは前コーチである武藤さんに打ち取られ、この戦法は通じなくなるのだけども、勇気の中にはプロとしての自覚が芽生え、これからも戦う決意が固まる。

また、興味本位で見ていた世間も、可愛い女の子だからチヤホヤするのではなく、「一人の投手」として評価するようになる。

ただ単に「女性もプロ野球選手になれますよ。男性と同等に戦えますよ」という権利や資格の話ではなく、女性だからこそ編み出せる「勝負球」の物語です。

現代のドリームボールも決して容易くはない。

なまじ対等であることが、女性自らの足を引っ張っているような気がしないでもないです。

だけども、水原勇気がプロ野球というガチガチの男社会で正当な評価と尊敬を勝ち得たように(たとえドリームボールは打破れても)、不利な条件でも自らを花開かせることは可能でしょう。

そして、女性が本当の意味で自立や充実や生き甲斐を実感するのは、男性と同じ地位や給料や職務を得た時ではなく、女性として尊重され、女性ならではの知恵や発想が社会に役立った時だと思います。

後付け

ちなみに、21世紀に入ってから水島新司先生の作品は未読です。(日本を出ちゃったからね)

水原勇気やドカベンの続編もあるようですが、全然見てません。

ゆえに、上記の文章も、1970年代に連載された「オリジナルのみ」を前提に解釈して頂けると助かります。

続編を読めば、印象もまた違うでしょうから。

*

堀江美都子さんの「勇気~ 勇気~ ドリームボォオル~」のフレーズは今も忘れない。。。


Photo : 新装版 野球狂の詩 水原勇気編(3) (講談社漫画文庫)