同棲か、結婚か

2017年9月15日恋と女性の生き方, 恋愛コラム

三年前、国際恋愛系のメルマガを発行していた時、20歳の女の子から、こんな質問をされて首をかしげたことがある。

「同棲と結婚って、どう違うんですか。私は今、留学中に知り合った彼氏と一緒に暮らしてるんですけど、『結婚とたいして変わらないね』って、いつも言っています」

それに対し、私は、同棲と結婚では「社会的責任」というものが全然違うのだということを説明して、それで納得してもらったのだけれど、今の20歳の認識って、こんなものなのかなあと、ちょっと複雑だった。

先日、世界的なシンガーソングライターのエルトン・ジョンが長年の同性愛パートナーである45歳の男性と、法的に認められた結婚式を挙げ、大勢のファンから祝福されたのだが、これなども、「愛し合っているだけでは、社会では通用しない」という一面をつくづく考えさせられる出来事だった。

もし彼らが「愛だけで幸せ」であるのなら、わざわざ結婚などする必要はないわけで、そこであえて『結婚』という形態を取るのは、やはり「社会的に認知される」ことの重みが非常に大きいからではないだろうか。

「社会的な認知」の中には、法律上の格、財産相続の権利、社会的保護など、いろいろあるわけで、いくら愛し合っていても、その人にとって、「社会的には何ものでもない存在」であれば、やはり社会の中では生きにくい部分がある。

いくらエルトン・ジョンにとって真実の愛の対象であっても、「あんた、何者?」と言われれば、それまでだし、どれほどエルトンの人生に尽くしても、社会的には何ものでもなければ、縁の薄い身内に法的な権利を主張されても、抗う術もないからだ。

言い換えれば、エルトンをはじめ、真摯な同性愛者が、あえて『結婚』という形態を選ぶのは、パートナーに対する、愛と責任と感謝の表れであり、「ただ一緒に暮らしている」に過ぎない同棲は、お互いの自覚や責任において、明らかに違いがあると私は思うのだ。

もっとも、フランスあたりでは、後藤久美子さんみたいに、籍を入れない内縁の妻でも、夫婦としての実質的な積み重ねがあれば、法的な妻と同等の権利を与えられるそうで、それはそれで意義のあることだとは思う。

でも、明らかに、相手の人生に対して、何の責任も負わない、社会的保護も与えない、「同棲」という形をとって、カップルの美味しい部分だけ味わおうという男性については卑怯だな、と思うし、また、そんな目くらましにあって、「私は愛されてるのよ」と自分で自分に言い聞かせているお嬢さんにも、「あーた、もうちょっと、しっかりした方がいいんじゃない」と言いたくなるのである。

もちろん、お互いに結婚の意思が明らかで、周囲も公認で、いわば最後の総仕上げ的な意味で同棲生活を試すのなら、また事情は違うけれど、家事とセックス以外は考慮に入れない、「いつでも無責任に切っていい」状態で、男性が女性に同棲を持ち掛けることについては、私はどうにも賛成できない。

いつか、どこかの恋愛系サイトで、「『カノジョ』というのは、妻でもなければ、母親でもなく、妹でもなければ、友人でもない。切ろうと思えばいつでも切れる存在で、何ものでもない。だから不安になる」という言葉を見かけたことがあるけれど、まったくもってその通り。

だからこそ、女の子は、ついつい身の保証が欲しくて、必死になってしまうのだろう。

それを分かりきった上で、切り札をちらつかせる男も男だけれど。

世界には、同性婚の認可を待ち侘びるカップルが、ごまんといるらしい。

宗教や倫理的問題はともかく、真摯な愛の相手に「責任と保護を示したい」「社会的に認知させたい」という態度には共感できる。

まずは、エルトン様、おめでとう、です♪

記:05年12月22日