神と悪魔とインシャアッラー 映画『デビルズ・ダブル』

『影武者』と言えば、黒澤彰監督の作品みたいに、戦国の大名のような国の重要人物のセキュリティの為に、顔や体格の似通った人物を本物ソックリに仕立て上げ、常に影のように添わせて敵の目をくらませるわけだが、ドラマの中では、しばしば本物が命を落とし、国の動乱を避けるために影武者が本物に成り代わる。そして「本物の武田信玄」「本物の徳川家康」を演じるうちに、一介の野武士にすぎなかった男が大将の器に目覚め、ついでに本物の正妻や愛人とも好い仲になって、偉大な指導者として国を統治する……という「男版・マイフェア・レディ」のような顛末が主流なのだけど、映画『デビルズ・ダブル ~ある影武者の物語~』は、文字通り「悪魔のような本物=ウダイ・フセイン」に人生をめちゃくちゃにされ、狂気のような悪行の中で葛藤する影武者の苦悩と戦いを描いた力作だ。

ウダイ・フセインと言えば、あのサダム・フセインの長男で、その常軌を逸した蛮行と気質から「ブラック・プリンス」と呼ばれ、殺人、窃盗、拷問、レイプなど、数々の悪の所業で知られている。

そのウダイに「顔が似ている」という理由だけで「影武者」を強制され、狂気の現場に立ち会わされたラティフ。

『デビルズ・ダブル』は、彼の手記やインタビューを元に制作された非常に生々しい作品であり、何の予備知識もないままに見たら、その残虐さに吐き気をもよおすにちがいない。

もちろん、映画はあちこち脚色されているし、実際、ウダイがどんな人物だったか、平和な日本人には知るよしもない。こちら側に伝えられるフセイン一族の印象も、「歴史はつねに勝者の側から書かれる」という言葉もあるように、どこまで真に受ければいいのかも分からない。

そうした歴史の背景を抜きにしても、映画『デビルズ・ダブル』は一つのドラマとして楽しめる。
まさに「悪魔」と呼ぶにふさわしい狂気の権力者ウダイに善の心をもって対抗し、己の良心に忠実であろうとするラティフと、彼を支える家族の姿は胸に迫るものがある。

監督は「007/ダイ・アナザー・デイ」を手がけたリー・タマホリ。イラクを舞台にした作品ながら非常にスピード感があるし、BGMにハードロックをからめて劇画的な味付けにしているのもポイントだ。

<ここからネタバレになりますが>

物語は、国の行く末を憂う青年ラティフが、何の事情も知らされないままウダイの元に連行される場面から始まる。ウダイの異常な性格は学生時代から知っていたこともあり、話し合うまでもなくラティフの答えは「No」だったが、自身はともかく、家族の命も人質に取られたら頷くしかない。

そしてウダイの影武者となり、二十四時間、行動を共にするようになったラティフが見たものは、金ぴかの豪邸にずらりと並ぶ高級車やブランド物の数々。夜な夜な高級クラブで繰り広げられる乱痴気騒ぎに女漁り。スポーツ選手を拷問にかけ映像をコレクションにしたり、婚礼中の花嫁をレイプして自殺に追い込んだり、道行く女子学生を誘拐して絞殺した挙げ句、野原に遺棄したり。まさに「悪魔」としか言いようのない蛮行の数々であった。

だが、次第に、ラティフは良心の痛みに耐えきれなくなり、ついにウダイに反抗して、逃走を試みる。

そんなラティフに対してウダイがとった手段は、ラティフの最愛の父に銃口をつきつけ、「自由か、父の死か」を選ばせることだった……。

この映画の一つのクライマックスは、ついにウダイの手がラティフの家族に伸びる場面にある。

それまでは脅しに過ぎなかったが、ラティフが逃走したことで、現実のものになった。

だが、ラティフから詳しい事情を聞くまでもなく、すべてを察した彼の父親は言う。

「(我々が無力で、直接手を下すことができなくても)いつか必ず神の裁きが下る。お前が自由を得ることで、私が死ぬことになっても、それは神のご意志だ。インシャアッラー(すべては神の御心のままに)」

言うまでもなく、彼らの神は「イスラム」であり、普通の日本人にとっては遠い世界の偶像のような存在だ。

だが、キリスト教徒がイエス・キリストの愛と奇跡、そして神の大いなる業を信じるように、彼らもまたイスラムの神を信じ、その大いなる知恵と導きに心を委ねて生きている。

そして、この映画では、しばしば「インシャッアッラー」という言葉が登場する。これもアラブ人の常套句として知られている言葉だが、絶対的な権力者で、悪魔のような人格をもったウダイに対し、ただ善良であるというだけで抗う力もない普通の人間が最後に恃めるのは、唯一、「神」のみである。

明日自分が死ぬとしても、悪魔のようなウダイが栄耀栄華を極めるとしても、すべては「神の御心のままに」。

なまじ人間の正義感で裁いて憤慨したり、己の不運や無力を嘆いたり、復讐を試みたりせずとも、すべてを神の意志に委ねれば魂の平安が得られる……。それは一見、意志や戦いを放棄し、無責任に開き直っているようにも取れるが、これこそ無力な人間に授けられた最高の知恵であり、無限の力であると言える。

この世のことは、しばしば人間の理解や努力の範疇を超え、それを自らの手でコントロールしようと思えば必ず不条理に打ちのめされるが、すべては「神の意志」と思えば、受け入れがたいことも受け入れ、無益な怒りや憎しみから解放されるからだ。

ウダイのことも、まともな人間の感覚で考えれば絶対に許せるものではないし、出来ればこの手で裁きたい、復讐したいと思う。だが、その思いに取り憑かれれば、今度は自らが憎しみの鬼となり、正常な理性や判断を失ってしまう。

そうではなく、もっと高次な視点──神の次元で考えれば、明日自分が不条理な理由で死ななければならないとしても、その事実を受け入れ、真実の裁きを神に委ねることができる。自らが復讐の鬼にならずとも、神の正義を信じれば必ず悪は滅びるのであり、我々は、この魂も、運命も、神の大いなる手に委ね、その意志がなされる日を待っておればよい……という、一歩、突き抜けた諦念なのだ。

そう考えると、父サダム・フセインの権力を傘にきて、己の欲しいがままに振る舞うウダイと、「インシャアッラー」の教えを説くラティフの父は、まさに「悪魔」と「神」の構図だし、最後に良心に立ち返り、悪魔に抗うことを決意したラティフも神の側の人間である。

「デビルズ・ダブル」は、悪魔のコピーになれない人間の良心の物語でもあり(ラティフ以外の取り巻きも含めて)、それを支えるのは「インシャアッラー」の知恵である。

ここに登場する「神」が、イスラムのであれ、キリストであれ、「大いなる存在の御業」を信じることは決して試合放棄ではない。

むしろ、問題が起きた時に、自分の力で何とかしようともがくのではなく、時に「大いなる存在」に身をゆだね、その意志に委ねることで、得られる力や心の平安もあるのではないだろうか。

この作品にはまた、父サダム・フセインも登場するが、悪魔のような息子を生み出した父の哀しさがチラっと滲み出る場面も味わい深い。

ここに描かれているのは、まったくもって、人の世の「神」と「悪魔」なのである。

§ 予告編

良心の人=ラティフと、悪魔=ウダイを一人二役で見事に演じきったドミニク・クーパーの狂気が乗り移ったような演技が見物。アカデミー主演男優賞とれるんじゃないかしら、多分。

映画自体は残虐なシーンがいくつかあるので、拷問・殺戮が苦手な人は映画館で見ない方がいいかも。

また全ての設定を鵜呑みにせず、「ウダイ・フセインをモチーフにした映画」……という感じで、ちょっと突き放したスタンスで見るのがポイント。

私としては「インシャアッラー」の思想を感じながら見て欲しいです。

それにしても、ラティフのお父さんが泣かせる・・。

§ DVD

吹き替えもとても上手いです。特に、本物の「ウダイ」の下品で知性のかけらもないギャハハ笑いが不気味。
残酷な場面もあるし、当然、誇張もあるだろうけど、「権力者の馬鹿息子」をティピカルに描いた、という点では考えさせられます。
スピード感もあって、見応えがあります。