エセ文化人が美と知性を滅ぼす 映画『コックと泥棒、その妻と愛人』

2017年9月15日映画, 創作と芸術, 愛と耽美の映画

知性とは儚いものだ。

なまじ知性があると、出しゃばらず、欲張りもせず、人間の品を保つことに命を懸けてしまう。

その高潔さゆえに、世間に踏みしだかれてしまう。

その点、知性のかけらもないと、威張り、叫き、やりたい放題できる。

あたかも自身が世界の中心であるかのように錯覚し、世辞と称賛の区別もつかなくなる。

善が、知性が、と尊んだところで、結局は、恥知らずの天下だ。

強欲な者が生き残り、美や知性を尊ぶ者は良心を口に詰められて死ぬ。

そんな皮肉を独特のカメラワークと絢爛豪華な内装で描いたのがヘレン・ミレン主演の『コックと泥棒、その妻と愛人』(The Cook, the Thief, His Wife & Her Lover)。

一見、エログロに見えるが、それなりの芸術的素養があれば、一つ一つに込められた風刺が理解できる。

見る人を選ぶ作品ではあるが、決して高飛車ではない。

それは現代社会において誰もが感じる「違和感」をユーモラスに描いているからだ。

下品な泥棒アルバートの振る舞いに、誰もがこう思うだろう。

「おるおる、こういう奴」

最後のズドンは、あえて批判を口にせぬ大衆の真情だ。

そして、この世の美と知性と良心を平気で踏みにじる泥棒は、死んでもその事実に気付かないのである。

ヘレン・ミレンと作品のもう一つの魅力

残念ながら、私は先にYouTubeで「衝撃のラスト」を見てしまったので、本当の意味で衝撃を味わうことは出来なかった。
その時は本作に全く興味がなく、見る予定もなかったからだ。

それでも、ある種の映画ファンの間ではカリスマ的に人気のある作品だし、やはり一度は見るべきと思い、鑑賞を始めたところ、やはり酸鼻に堪えない。

のっけから暴力。それもヤクザ顔負けの糞尿リンチ。

一流のフレンチ・レストラン『ル・オランデ』のオーナーで、泥棒アルバートの下品な喋りにも辟易させられるが、美しい妻ジョジーナへの絶え間ない侮辱と暴力、従業員への横柄な態度、子供にまで容赦なく手を出す無慈悲に、心底吐き気がする。

コックと泥棒、その妻と愛人

コックと泥棒、その妻と愛人

それだけに、レストランの片隅で読書を楽しむ愛人マイケルの物静かさと、そんな彼に心惹かれるジョジーナの女心が異次元のように際立ち、アルバートの残酷な仕打ちがいっそう惨たらしく感じられる。

コックと泥棒、その妻と愛人

コックと泥棒、その妻と愛人

ヘレン・ミレンというと、ダイアナ妃の葬儀をめぐる英国女王エリザベス二世の葛藤を描いた傑作『クィーン』が素晴らしく、高齢ながら、本物に遜色ない威厳と気品が心に深く焼き付いただけに、「なんでこんなキワモノ映画に出演したかな?」と合点がゆかなかったが、ラストのこの場面を見て納得。

それまでジャン=ポール・ゴルチエの華麗な衣装に身を包み、高雅な貴婦人としてグルメを楽しんでいたジョジーナが惨殺されたマイケルの傍らで「もう疲れた……」と呟き、二度と物言わぬ恋人に「キスしないの? じゃあ朝食は私が作るわね。短かったけど、とてもステキだった」と語りかける場面が胸に迫る。

この場面、ヘレンのアップで、ゆっくりとカメラの方を向くのだけれど、これ以上ないほどボロボロに傷付き、痛みも悲しみも全て使い果たして、感情すら湧いてこない虚ろさを演じきっているからだ。

日本語字幕では「ステキ」と表現されているけれど、英語では「short and very sweet」。
この「sweet」という言葉が全てを物語ってる。
長い人生の、ほんの一瞬の触れ合いだったけれど、溶けてしまいそうに甘く、優しく、女に生まれた悦びを感じた日々。

それに続く告白で、偉ぶっているアルバートが実は性的不能者だと分かり、余計で愛人マイケルと分かち合った悦びの深さが伝わってくる。

この場面がなければ、そして、ヘレンの演技力がなければ、この作品はただの「ゲテモノグルメ」で終わっていただろう。
なぜジョジーナがあれほどに冷酷かつ痛快な復讐を思い立ったか、合点がゆかないからだ。

いや、この場面が無くとも、破廉恥なマシンガントークや暴力だけで十分と思う人もあるかもしれない。

でも、アルバートをこの世から消し去りたいのは、料理人よりも、従業員よりも、誰よりも、長年虐げられ、辱められてきたジョジーナでなければならないからだ。

コックと泥棒、その妻と愛人

コックと泥棒、その妻と愛人

本作において、「芸術」の象徴が料理人なら、ジョジーナは圧倒的な暴力や知性の欠片もない振る舞いに、面と向かって「NO」と言えない、その他大勢の良心だ。

道端で唾を吐かれても、エレベーターで押しのけられても、マナーの悪い客に雰囲気を台無しにされても、たいていの人は黙って耐えるしかない。

「やめて」と言えば、その倍の力で殴り返され、何も言わなくても、八つ当たりの的にされる。

真面目で良心的な大衆は、常に恥知らずのサンドバックであり、物体であり、愚痴と怒りの掃きだめに過ぎない。

皆、それが悪だと解っていても、面と向かって批判はできず、レストランの客のように、ただ黙って理不尽な暴力が過ぎ去るのを待つだけだ。

その中でジョジーナは最もか弱い標的であり、救いもなく、抵抗もできず、この世の地獄を生きている。

だからこそ、観客は納得したい。

ジョジーナが最後にとった行動と、それに手を貸した料理人のプライドに。

下手すれば女優としての評価を落としかねない本作に、演技派で知られるヘレンが体当たりで出演し、全裸の絡みさえ厭わなかったのも、作品の肝となるシーンは私にしか演じられないという自負もあっただろう。

そして、それを顔だけで見事に表現したヘレン・ミレンはやはり一級であるし、復讐に至る動機をべらべら主張せず、非常に抑えた中に女の決意を描いた作り手も改めて凄いと思うのである。

↓ こんな侮蔑と暴力に何年も耐えられる女はいない

コックと泥棒、その妻と愛人

コックと泥棒、その妻と愛人

食と死とエロス

この作品の見所は、人間にとって最も基本的な「食」と「死」と「エロス」が一体になっている点だろう。

終盤、料理人も「食」と「死」の関わりを口にするが、「何かを食べる」ということは「何かが死ぬ」ということでもある。
人間はいちいち意識しないが、魚も、鶏も、野菜さえも、人間が食する度に死んでいるのである。

その一方で、命はエロスに支えられる。
この世から性愛が無くなれば、子孫も途絶えてしまう。

食べて命のエネルギーを得、そのエネルギーで交わり、新たな命を創生する。

それが妖艶な映像と音楽に描かれているのが本作の醍醐味だ。

コックと泥棒、その妻と愛人

コックと泥棒、その妻と愛人

コックと泥棒、その妻と愛人

二人の愛の現場がシルエットで浮かび上がる演出が素敵
コックと泥棒、その妻と愛人

私は、終盤で語られる「黒い料理」の話が印象に残っている。

黒い物は高くする。ブドウ、オリーブ、黒すぐり。
人は死を思い起こすものを好む。
黒い物を食べるのは、死を食べる事と同じだ。
胸をはって言うんだ。
”死よ、おまえを食うぞ”と。
トリュフが最も高価だ。キャビアも。
死と誕生。終わりと始まり。
黒は最も高価な食物にふさわしい色でしょう。
虚栄も高価な食物だ。

私はどちらかというとブリート、ビーフステーキ、ミートソース、カレー、ハンバーグ、カルビーのポテトチップ「うすしお」など、赤い物が好きなので、黒い物に大金を積んでまで食べたいとは思わないが、「黒い物が死を思い起こす」というのは確かにその通り。

赤い物が「血の気」を感じさせるなら、「黒い物」はひたすら地味で、無口で、黒=それ自体が既に死んでいるような気がする。

黒い物ではなく赤い物を好む私は、より多くのエネルギーを欲しているのだろう。

そして、黒い物を好む人は、もうこれ以上、望むものも無いのかもしれない。

黒はそれ以上のものでも、それ以下のものでもなく、突き詰めれば、そこに落ち着くから。

コックと泥棒、その妻と愛人

大食という大罪

子供が元気にもりもり食べる姿は微笑ましい。

だが、大人がむやみにがっつく姿は美しくはない。

一度食べ出したら、止まらない。

腹が裂けるほど食べないと気が済まない。

食べても食べても満たされることのない、際限のない大食はキリスト教で『七つの大罪』に数えられる。

それは健康的に食事を楽しむのとは全く違う。

何をも顧みず、目の前にある全てのものを食い尽くすが如くの衝動と欲求を断罪する。

なぜそれが醜悪なのか。

一つには、大食と美食は、お金をもった人間にだけ許される快楽だからだ。

貧乏人が木の根をかじり、雨水をすすって飢えをしのぐ間も、彼らは肉汁たっぷりの料理に舌鼓を打ち、高級な酒を楽しみ、それで満足するかと思えば、もっとたくさん寄越せと叫き散らす。
施すこともなく、分け与えることもなく、自分の腹を満たすことだけに欲望し、醜く太っていく。

ちなみにアルバートと同席して食事が美味しく感じられるだろうか。
最上級のヒレ肉も、上質なテリーヌも、シェフが腕によりをかけて作った秘伝のスープも、あの下品なトークと中身のないウンチク、頭は空っぽのくせに贅肉だけはたっぷり付いた巨漢を目にすれば、どんな豪華な食事も汚物となり、食欲も失せるだろう。

大食の罪は、食べることそのものを非難しているのではない。

節制もなく、品もなく、目の前にあるだけの物を平らげ、飢えて渇いた者に同情の欠片もない、無慈悲な強欲を断罪しているのだ。

この大食の罪で、レストランの客のみならず、従業員にも、警察にも、不愉快な思いをさせ続けたアルバートは、「人肉」という最も罪深い料理を与えられ、卑しむべき罪人として死んで行く。

このグロテスクな復讐が痛快に響くのは、みな腹の底でこう思っているからだ。

『他人の血肉を啜って太り腐ったブタ野郎、これでも食らえ』

↓ 本物の味わいも分からぬバカは最高級の料理にも塩をぶっかけ・・
コックと泥棒、その妻と愛人

↓ そして、台無しにする
コックと泥棒、その妻と愛人

エセ文化人が美と知性を滅ぼす

アルバートはレストランでも蘊蓄をたれ、仕事でも屁理屈をこねる。
それも中身の無い、どこかで聞きかじったようなグルメ論や人生論だ。

知性のない人間が小金を持つと、すぐに一流の真似をしたがる。

一流人の集う場所に顔を出し、知った顔で理屈を並べ、芸術家や人気者や地位の高い人を所有物のように扱い、いかに自分が力をもった優れた人間であるかをアピールするのに利用する。

そんな卑小な人間にも泣き所はある。

それは真に優れた者には太刀打ちできない点だ。

アルバートの場合、料理人のリチャードには決して手を下せない。
自分を権威づけしてくれる「有名シェフ」の存在は、アルバートにとって自身の勲章みたいなものだからだ。
自身の所有物としながらも、リチャードにはどこかヘイコラしたところがある。
そのみみっちさが、ますますアルバートの卑しい性根を露わにする。

それでも、芸術は金の力には勝てない。

昔も今も芸術は食えない商売で、スポンサーなしに生き残れない。

そのスポンサーに教養があるならともかく、今は知性の欠片もない人間でも、小金さえ持てば、紳士や芸術家の仲間入りができる時代だ。

彼らは芸術の心さえも金でかい、さも自身が芸術家であるように振る舞う。

「まったく吐き気のする連中だ」と、声に出したい人も少なくないだろう。

この作品がとことん抽象的であるのも、高級な揶揄でしか仕返しできない芸術家の立場の弱さを物語っている。

面と向かってスポンサーを批判すれば、どれほど才能のある芸術家もたちまち食い上げ、自らを表現する手段を無くしてしまうから。

高尚を目指せば目指すほど俗世から乖離し、妥協すれば芸術としての質が落ちてしまう。

その葛藤の行き着く先は、冷ややかな復讐だ。

皮肉、風刺、当てこすり。

空っぽな頭には決して理解できないやり方で、芸術モドキを味あわせてやる。

「これが最高級のヒレ肉でございます。世界の珍味でございます」とおだてつつ、イモリの肉を食べさせたり(作中には無いけれど)。

「時価1000万の名画でございます」と銘打って、カスみたいな習作を売りつけたり。

金で才能を買われても、プライドだけは絶対に売らない。

いや、むしろ、陰で冷ややかに笑いものにし、それをまた芸の肥やしとする。

リチャードの人肉料理には、そんな気概と復讐心が溢れている。

エセ文化人が一流レストランを我が物顔で闊歩し、一番上等な席で、一番上等な料理を食らう時、その周りで本物の知性や美や愛は死んでゆく。

マイケルのように、声も上げずに、静かに、そして残酷に。

それでも真の芸術は最後まで死なない。

俗世の喧噪から抜け出し、プライドという刃を研ぎながら、ひたすら己の芸術を作り上げる。

それはジョジーナ=大衆の復讐が終わっても、終わることはない。

あの場面、本当に勝利したのは、史上最低の卑しい料理を一口でも口にさせることが出来たリチャードだろう。

その華麗なる晩餐の皿の上で、知性も嗤う。

「クソでも食らえ」

そう、まさにクソなのだ。

金で芸術を買うエセ文化人は。

↓ これでも食らいな
コックと泥棒、その妻と愛人

↓ネタバレしていい人だけご覧下さい。グロ苦手な人は要注意。

アイテム

舞台美術に興味のある人なら、細部まで神経の行き届いたレストランの装飾やキッチンの作り、トイレなどに目を見張ると思います。これは高画質でじっくり見たい作品。

またジャン・ポール・ゴルチェの衣装も秀逸。毎回変わるジョジーナのファッションにもきっと意味があるのだろうけど、私はそこまで読み取れなかった・・^_^;

何回も繰り返し見るうちに皮肉や象徴が解ってくる、パズルゲームのような作品だと思います。

でも、これを見ると、マイケル・ナイマンの曲は二度と聴けないね。
オエっとなるし、悲しい気持ちになる。

とにもかくにも、ヘレン・ミレンのあの場面がとても心に刺さります。