病棟 ~18歳の仕事始め~

2017年9月15日メルマガ書庫

研修が終わると、配属先が発表された。

「3F病棟=産婦人科と内科の混合病棟」である。

日勤の始まる朝の七時に、どきどきしながら3F詰所に向かうと、 モデルみたいに長身の、ボーイッシュな看護婦さんが優しく迎えてくれた。

彼女は、処置台で注射薬のアンプルを切りながら、

「血、こわくない?」と聞いた。

「……いえ、大丈夫です」と答えると、

「そう……産科の助手さんは分娩の後片付けをしないといけないからねえ。 分娩って、そりゃもうたくさん出血するのよ。見たら、ビックリするわよ」

綺麗な標準語だった。

ここの附属看護学校には、全国各地からクリスチャンの生徒が集まってくる。→ それが入学のの絶対条件なのだ。

そのため院内の看護婦さんの大半は近畿圏外出身で、 関西弁を使う人はほとんど無い。

というより、皆が意識して綺麗な言葉を使うからだ。

研修の時も、「美しい言葉、特に標準語を使って下さい。 くだけた関西弁は使わないように」と注意されたが、 なるほど、それにふさわしい、上品な雰囲気が全体にあった。

そして彼女をはじめ、3F病棟の看護婦さんは、 みな綺麗な標準語にふさわしい、心優しく、美しい人ばかりだったのである。

私の理想の女性像は、ここで形成されたようなものだ。

美しい言葉を使えば、自然に立ち居振舞いや雰囲気も優美になる。

そして、それは自ずと人格や表情にも組み込まれていくものだ。

エステに通うより、美しい言葉を身につけた方が良い。

美しい言葉こそが、女性をいっそう豊かに磨き上げる。

やがて、先輩格である助手さんが出勤してきて、私をユティリティに案内した。

そこは病棟の汚れ仕事を一括して行う場所で、 六畳一間ほどのスペースには、大きなシンクやポリバケツ、掃除道具や尿器、便器といったものが置かれていた。

彼女は私より四つ年上の二十二歳だったが、まず丁寧に頭を下げると、 「松原といいます。よろしくお願いします」と挨拶された。

私も慌てて自己紹介した。

見れば、頭は茶髪のサーファーカット、耳にはピアス、 尖った爪には薄っすらピンク色のマニュキアが塗られ、 背中に紋でも入ってそうな雰囲気があった。

……うちの両親が一番嫌うタイプの格好……。

今でこそ茶髪なんて当たり前だけど、昔はヤンキーの象徴だったから。

それでも彼女の挨拶は素晴らしかった。

不安でいっぱいだった私の気持ちを優しく解きほぐしてくれた。

私に社会人としての正しい挨拶の仕方を教えてくれたのは、 松原さんであるといっても過言ではない。

→ 後に、彼女は挨拶や仕事だけでなく、酒や煙草の飲み方まで 教えてくれたんだけどネ

松原さんは、まずユティリティの各所を説明し、

「ここが私たちの仕事場です。汚い所だと思うかもしれませんが、 これが私たちの領分です。これから、いろんな汚れ仕事をすることになりますが、
自分の務めと思って、頑張って下さい」

私は顔を強張らせながら、「ハイ」と頷いた。

“汚れ仕事”――それはまさしく汚物との闘いだった。

看護婦さんは、主に医療業務(観察・記録、投薬、処置など)に携わるので、分娩の後片付けをはじめ、尿器や便器の処理・消毒、器械の洗浄、 ごみ処理や清掃は、すべて助手に任されていた。

中でも「分娩の後片付け」は凄かった。

――これは実際にお産をした人でも、絶対に想像つかない作業だ――

出産時に排泄される羊水や血液、胎盤(1kgほどある肉塊!)、糞便などは、すべて分娩台に設置された金属製の受け皿(バット)に溜められる。

分娩がすむと、そのバットと共に、使用した器械類をユティリティに引き上げる。

そして私たちは、その胎盤の重さを量り、血液の重さを量った後、 羊水や血液や糞便で汚れた器具をきれいに洗浄し、再びセッティングして滅菌室に上げなければならないのだ。

その臭いたるや、壮絶なものである。

血液の生臭さは言うに及ばず、尿と酢を足して二で割ったような羊水の刺激臭、巨大な青紫のレバーみたいな胎盤、ガーゼの中から転げ出る糞便―― これらがこん然一体となって、換気の悪いスペースで作業する私たちの鼻孔を容赦なく襲うのだ。

もちろんマスクなんてさせてはもらえない。

患者さんの印象が悪いからだ。

だから作業の途中で、何度もえずき、息を止める。

ごろんと転げ出た糞便に、思わず悲鳴をあげそうになっては、ぐっと飲み込む。

どろどろに固まり、排水溝に詰まった血液の塊を指でほじりながら、 『これが仕事だ、仕事なんだ』と何度も自分に言い聞かす。

今、もう一度、あれをやれと言われたら、絶対に逃げるだろう。

十八の、何も知らないコドモだったからこそ、必死でやれたのだ。

むろん助手の仕事は“汚れ仕事”だけではない。

食事介助や洗面介助、シーツ交換や全身清拭など、 やるべき仕事は山のようにあった。

日勤の業務は、重症患者さんの洗面介助に始まる。

ぬるま湯をはったベースン(洗面器)をワゴンに乗せて、病室へと運ぶ。

初日、松原さんは、重症を示す赤札のついた個室の前で立ち止まり、こう言った。

「この人、重症だけど、びっくりしないでね」

――戦慄した。

ベッドに横たわるその姿は、とても生きた人間とは思えなかったからだ。

あの「死」独特の、恐ろしい、抗い難い力が、 前には肉付きの良いおばあちゃんだったろう患者の顔を、 げっそり削ぎおとしていた。

松原さんは、まるで酸素不足の金魚のように、ぽかんと口を開け、 半開きに目を閉じている患者さんの肩を優しく叩くと、
「**さん、お顔、拭きましょうね」と声かけした。

そして私の方を見やると、目でタオルをしぼるよう促した。

私は慌ててベースンにタオルをつけると、 研修で教えられた通り、湯の温度を確かめながら、硬くタオルをしぼった。

「じゃあ、こっちに来て、拭いてあげて」 言われて、ベッドサイドに行ったものの、どこをどう拭いていいのか分からない。

触れれば、今にも骨が砕けて、あの世に行ってしまいそうな感じだからだ。

それでも額に、頬に、タオルを押し当て、 ぴくりとも動かない患者の顔を見ながら作業を進める。

どうにかこうにか、型通り顔を拭き終わると、 おそるおそる松原さんの方を振り向いた。

「声かけが無いね」彼女は優しく言った。

「患者さんに触れる時は、まず“拭きますね”と声かけしないと。 いくら重症で意識が無いといっても、患者さんは『分かっている』のよ」

私はタオルを握り締めたまま、「ハイ」と頷いた。

教科書を超えた授業がそこにはあった。

学生時代、“何でも出来る子”といわれ、得意がってきた そこそこの優等生が、己の人格をかけて一から取り組む『生きた勉強』の始まりだった。

今でこそ聴診器をぶんぶん振り回し、 エラソーに若い新米看護婦をご指導している私も、 出だしはこんなものだったのだ。

初稿: 99/04/12 メールマガジン 【 Clair de Lune 】 より