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ブラックジャックの診療報酬  ~「患者さま」時代の医療~

2009年10月1日

私は「かんごふ」時代の看護婦なので、今の医療現場がどうなっているのか、憶測でしか語れないが、「患者さま」と呼ぶのが主流になっていると聞くと、なんとなしに想像はつく。

もちろん、お名前をお呼びする時、「様」を付けるのには賛成だ。

「お薬をお待ちの山田さま~、山田さま~、3番受付までお越し下さい」

というのは、気持ちいい。

医療者間の引き継ぎで、「こちらが患者さまの、山田さまです」と使うのもいいだろう。

だからといって、何でもかんでも「様」と付ければ、人が喜ぶわけでもなし。

尊敬の念のないものは、どんな丁寧な言葉をくっつけても、言葉だけが空回りするものだ。

「さん」だろうが、「様」であろうが、こんなことは、社会人、あるいは人間としてのTPOで使い分けるものだった。

『とにかく、「様」と読んで、統一しとけば、波風は立たない』──そんな動機で患者さまと呼ぶのだとしたら、これほど人を馬鹿にした話もないと思う。

恐らく、マニュアル通りに「患者様」と呼ばれて、「ああ、私は患者として大切にされている」と実感する人など稀だろう。

言葉遣いは丁寧だけど、流れ作業に必死なマクドナルドのアルバイターと同じだ。

それにしても、「甘く扱われること」が、患者にとってそれほど幸せなことだろうか。

たとえば、整形のリハビリ。

「可哀相」「気の毒」だけでは、絶対に良くならない世界だ。

あまりの痛みに患者がボロボロ涙を流しても、「もうイヤだ、やりたくない」と駄々をこねても、「足上げ10回、階段上り下り10回」、指示されたカリキュラムは絶対的にこなさなければならない。

「辛いですか、じゃあ止めときましょう」では、いずれ足腰が立たなくなって、人間としての人生が終わってしまうからだ。

時に、患者に「鬼」と言われ、「あの看護婦はガミガミと厳しい」と嫌な顔をされる。

それでも、患者をベッドから立たせ、着替えをさせ、トイレに立たせる。

なぜ。

やらなければ、そこでその人の人生は終わってしまうからだ。

たとえ憎まれても、患者を元の生活に戻さなければならない。

その為に、涙流しても手出しせず、何十分かかっても一人でやっていただく。

(この際、言っておくが、うんうん苦しみながら一人で着替えしている患者さんの横にずっと付いて見ているよりも、こちらのペースで何もかもやってしまった方が、うんとラクなのだ)

こちらも患者の憎まれ口に斬られる覚悟があってはじめて、寝たきりの悲劇から救い出すことができるのだ。

ところが、この愛の鞭を「鞭」としか感じず、とにかく自分の居心地の良いことだけを要求する患者が出てきた。

それが治療であり看護だと思っている。

病気は「治してもらう」ものだと思っている。

だから、相手が思う通りに振る舞ってくれないと、イライラする。

ちょっと厳しい態度をされると、「冷たい」とか「医者・看護婦のくせに」とか言う。

生半可な知識をふりかざして、「お前らの治療方針は間違っている」とか非難する。

病気が苦しいのは、誰しものこと。

甘い薬だけでは治らないのも世界共通だ。

でも、闘う気がない。

自分が納得できないことでも「理解しよう」という気持ちがない。

病院は「ホテル」だと思っているから。

患者さまは、お客様なのだ。

確かに、横柄な医師や看護婦の態度に傷ついた人はたくさんいると思う。

看護婦があまりに忙しそうなので、尿器にオシッコをいっぱい貯めたまま、ナースコールを押すことさえ躊躇われて、朝を迎えた人も少なくないだろう。

それはまったくもって私たちの責任だし、気配りが足りないのは人としても恥ずかしいことと思う。

だが、それについて改善することと、患者の機嫌をとることは違う。

本気で相手の人生を思えば、本気で怒ることも出てくる。

本気で向かい合えば、こっちだって傷つく。

そういう関わりを避けて、表面だけ取り繕ったもの、耳障りのいいことだけいう者が、「自分にとって最高の治療」と思うなら、本物の薬には出会えないし、誰かに必死で向かい合ってもらうこともないだろう。

そんな風に扱われて、本当に幸せだろうか。

私は、私が歩こうとしなかった時、私のことを「根性なし」と叱り、私が歩き始めた時、その姿を遠くでニコニコ微笑みながら見つめていた医師のこと、今でも忘れないけれど。

医師や看護婦の人間教育は大切だし、接遇としての「さん」付け、「様」付けも、おおいに考慮されたらいいと思う。

でも、それ以上に、病院はホテルではなく、「病気を治しに来るところ」、病気は「治してもらう」ものではなく、「自分で治そうとするもの」だということ。

人が人に真剣に向かい、本気で相手のことを思えば火花が散ることもある──ということを、もう一度、認識し直す時期に来ているのではないだろうか。

*

言わずと知れた手塚治虫の傑作。天才外科医にして無免許医、患者には数千万円の法外な診療報酬を要求するが、本当に治したいと思った患者には見返りを求めない、ダーティーヒーローにして正義の人。
脳溢血で倒れた恩師を救おうとメスを振るうが間に合わず、「医師が人間の命をどうこうしようと思うこと自体、おこがましいのだよ」という恩師の言葉がリフレインする場面秀逸だった。
古い時代の作品ながら、その医療観は今をもって新鮮で、手塚氏の人間洞察と死生観が鋭く冴える芸術的名作である。

ブラックジャックの『診療報酬』 ~メルマガ 【Clair de Lune】より

手塚治虫氏の名作「ブラック・ジャック」は、患者に法外な診療報酬を要求する。

普通の感覚からすれば、「人の弱みにつけこんで、なんたる外道!」というところだろうが、ブラック・ジャックはあえてダーティーな要求を突きつけることで、患者にこう問い掛けているのである。

「君は全力をかけて自分の病気を治す意志があるか?」。

「意志」「意欲」「気概」といった目には見えないものを、「法外な診療報酬」という形で推し量っているのである。

私が好きなのは、彼が貧乏人にも金持ちにも同じように問い掛ける所だ。
“金持ちには多額の報酬を要求し、貧乏人からは金を取らない”というなら、単なる【下町の赤ヒゲ先生】であり、ポリシーの無い偽善者でしかない。

相手が素寒貧と分かっていて、あえて「私の治療は**千万かかりますよ」と吹っかける所に、彼のプロとしての哲学があるのである。

今は「国民皆保険制度」が充実しており、“医療費が値上がりした”といっても、まだまだタダ同然の値段で医療サービスを受けられるのが現状だ。
(“タダ同然”というのは、患者に対して行われる診察・技術・看護サービスに対し、その程度の値段しかついていない、という意味である)

そして人間というのは可笑しなもので、欲しいもの=治療が安く手に入るとなると、自分に対する努力を怠るようになるのである。

悪くなったらまた病院に行けばいい。薬を処方してもらえばいい。

一食分ぐらいの金さえ払えば身体が治るんだから、別に無理して禁煙したり、酒を控えたりすることはネエや……というのが、大方の心理だ。

もし一回の診察代が何万円もするなら、一粒の薬が何十万とするなら、人は必死に健康を維持する努力をするだろう。死にもの狂いで煙草を止め、リハビリをし、一日三十品目の食事を心がけるだろう。“また病院に行けばいい”などという安直な発想ではおられないはずだ。

ブラック・ジャックが法外な診療報酬を通して問い掛けているのは、治療に対するこの「死にもの狂い」の気持ちの有無である。なぜなら、あくまで医者や看護婦は「支援する者」であり、「健康を授ける者」ではないからである。

自分の病気を「死にもの狂い」で治そうという意志の無い者に、薬や治療を与えても、ハッキリいって無駄だ。彼らはまた同じ事を繰り返し、同じ訴えを携えてやってくる。そして挙げ句の果てには「自分の怠慢」を棚に上げ、「お前の治療の仕方が悪い」と食って掛かってくる。

そういう人たちは、自分の人生はもちろん、他人の生命だって大切にはしない。自分の命の責任も取れぬ者が、どうして他者をいたわれるだろう?

助けられた命を自分の為、他者の為に役立てることができるだろう?

本人は、医療行為に対しそれ相応の代価を支払ったつもりでいるのだろうが、医療側はそれ以上のものをその人の為にすり減らしているのである。

「本当に治りたい、何がなんでもこの病気を治してみせる」という気持ちに勝る薬は無い。「病は気から」というけれど、「生きたい」「治りたい」という気持ちが肉体に与える力は計り知れないものだ。それは時として、周りの人間にも生きる力や喜びや感動をを呼び覚ますものである。

そして医者も看護婦も、そういう人こそ全力で支援したいと思うものだ。

天から見ている神様だってそうだろう。

まさに「天は自らを救うものを救う」である。

「私の手術を受けたければ、**千万、用意するんですな」

と平然と言ってのけるブラック・ジャックに、子供の頃は「なぜ?」と感じていた。

だが今ならその問い掛けの意味が分かる。
私だって、もし彼の手術でこの病気が完治するなら、一生かかっても**千万支払うだろう。
「健康」にはそれだけの価値があり、またその価値は病人にしか分からないからである。

初稿:1999年1月27日

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