#『質問』の答え ~わたしは永遠の謎でありたい

人にあれこれ質問されるのは苦手。

自問自答は得意だけど、人にいろいろ尋ねられても、答えに窮する方が圧倒的に多いから。

だって、「こうですよ」と答えたところで、相手が100パーセント、正しく理解するわけじゃない。

100人の質問者がいれば、100通りの解釈が有り、人間の真実など、何所にも見えないのが本当じゃないかと思うからです。相当にひねくれてますが^^;

その中で、自分が思う「我」というのも、もしかしたら、その時その時の心象の映し鏡かもしれない。「我」と認識する、そのもの自体が、既に「解釈」であって、実体ではない。そう思うと、人に何を尋ね、どんな答えを得ようと、私たちは決して真実には辿り着けないし、ただ、その場その場で認識される「何か」があるだけだと感じます。そして、それは決して孤独や淋しさではなく、味わいのうちだと。

かつて『ルートヴィヒ二世』は言いました。『私は永遠の謎でありたい』と。私もその気持ちがよく分かります。人に何をどのように見せても、どのように説明しても、その人の心に映る「私」があるだけだし、好む、好まざるにかかわらず、人は結局、自分の都合よくにしか解釈できないでしょうから。

だから『謎』でいい。

自分の望む通りの自分像を分かって欲しいとも思わないし、説明しようとも思わない。

それは決して人間に対する失望でもなければ、社会に対する不信でもない。

この世というのは個々の認識によって成り立つ世界であり、そこに正解も間違いもない。ある人が「我が儘」と感じるなら、その通りなのだろうし、個々の認識までコントロールすることはできません。

一方で、そうした認識があるから、自分にも他人にも間違いが許せるし、お互いに分からない部分があっても当たり前と思う。

こと心の世界において、解釈とか説明といったものは何の役にも立たないのではないか……と今も考えています。

でも、たまには、他人に尋ねられたことに真剣に答えるのも悪くはない。

それが一過性のものであれ、永続的なものであれ、『質問』には答え、それがまた一つの世界を形作るのでしょうから。

そして、それを傍で眺める人の中にも、もう一つの世界が生まれる。

その連鎖によって、世界は絶えず揺り動かされ、姿を新たにするのかもしれません。

https://flyingquestions.tumblr.com/post/162388092675/街中の質問の写真について紹介します2004年東京丸の内周辺エリアに大小さまざまな365の質問が氾

『質問』の答え

旅には常に目的があったほうがいいものでしょうか

旅の意味するところは『解放』だから、自分を解放できる場所や体験なら、たとえ庭先でも『旅』になりますよね。もう諦めかけたバラが息を吹き返して、美しい花を付けた時、今年はダメだと思っていたブルーベリーに大量の実が付いた時、大事な花の上にナメクジを見つけた時。その時、心に訪れる感動や怒り(ナメクジに対する)、そのものが私には『旅』だったりします。だって、その一瞬、昨日とは違う場面が開けているのですから。

『旅』というなら、日常そのものだし、思いがけないものを見たり聞いたりするから旅という。

目的があろうと、なかろうと、「旅する心」は、いつでも新鮮で、多くの出会いに満ち溢れているような気がします。

自分の体のすべてのサイズをいうことができますか

そこまで自分自身を直視できる人も皆無でしょう、プロのモデルやアスリートでもない限り^^;

多くの人は、そこまで正確に知りたくない、知ったところで、何も得るものがない(ダイエットやシェイプアップに成功している人以外は)、見て見ぬ振りで通り過ぎるのが現実ではないでしょうか。。

それはきっと、精神は肉体に現れるのを自覚しているからで、自身を直視する勇気のない者には、スリーサイズさえ知りようがありません。

そういう意味で、精神と肉体は一体のものであるし、「人は見かけではない」というけれど、一方では「見かけそのもの」という気がします。

そんなの知る勇気があれば、もっと痩せてます^^;

何年以前のことを古いというのでしょうか

これはもう、三時間前に書いたものでも、そうです。

自分の中から、一度、何かをアウトプットしたなら――発言でも、文章でも、アイデアでも――その瞬間に過去になるし、昨日考えついたことでも、朝起きた時には古くさく感じることしきりです。

細胞が剥がれ落ちるがごとく、全ては一瞬で古くなる。

そこにいつまでもしがみつくほど、退屈にもなれません(´д`)

あなたが書いた句読点は全部でいくつあったでしょうか

溜め息もカウントするなら、数知れず。

I love you を手紙に書いて出したことはありますか

ないです。

だって、ドストエフスキーが創作ノートに書いてるんだもの。(ソーニャに)『愛している』などと言わせるものか。って。
(出展:謎とき『罪と罰』 (新潮選書)

つまり、愛を表現するのに、直截的な言葉は使うなというポリシーです。もちろん、作中ですが。

その一文を目にして以来、直截的な言葉は私の中でレベルの低いものになってしまった。

そのせいか、実生活では、もっと好意をストレートに表した方がいいと、よく言われます。

でも、言葉にした途端、鳥のように飛び去ってしまいそうで、いつでも一番大事なことは心の奥底に秘めたまま。

「もったいない」……その発想自体が間違いらしいですよ。

あと、残りの質問が画像では見えないので、ここまで。