言葉の倉庫2 あちこちに書き散らした思考の断片

私は、美空ひばりさんが好きで、この前もTVのスペシャル番組をビデオにとって観てたんだけど、何が好きって、歌っておられる時の姿が好きなのね。雰囲気とか、表情とか。
一曲、歌う間に、ドラマがある。
そして曲ごとに、表情が違うの。
まるで女優のよう。
前に、『悲しい酒』を歌いながら、涙をこぼす姿を見たことがあるけど、まるで一幕の短い芝居を観ているようだった。
なんでそんな風に歌えるんですか? 何が見えるんですか?
って聞きたくなったわ。

ひばりさんも、「全部知ってる人」なのね。
そしてそれを表現できるの。
だから、あんな風に歌えるんだわ。

もし私が作詞家で、ひばりさんに自分の書いた詞を歌ってもらえたら、感激のあまり卒倒するんじゃないか(笑)
「川の流れのように」を書いた秋元康が、“オレ、いつ死んでもいい”って言った気持ちが分かるもの。

他にもいろんな生き方が出来ただろうに……
普通のお嬢さんとしてシアワセに生きていくことも出来ただろうに、どうしてこの人、死ぬまでマイクを離さなかったんだろう、って、いつも思ってた。
そうしたら、今日、TVの中で、こうおっしゃってたわ。
「自分の選んだ道だから」――

人間、何の為に生きてるかって、自分を完成させる為に生きてるのよ。
それが究極の目的であり、人間にとって本当の仕事なんだわ。

私にはそれが分からなかった。

そう考えたら、それに殉じて生きられたひばりさんが羨ましいなあと思うし、幸せな人だなあと思う。
私には迷いがあるから、まだまだネ(笑)

ともかく、ひばりさんを知ってる人も、全然知らない人も、また機会があれば見てくださいね。
「川の流れのように」は何回聞いても泣けます(;_;)


そして世界にはその一点に集中して
生きている人がたくさんいる
自分を完成させる為に 懸命に生きている人が

追い求めているのは利益でも形でもない
自己実現だ
そしてそれこそが本当の「仕事」なのだ
だから人生への気概や情熱が生まれる

そう思って世界を見れば
全てが新たに生まれ変わる

頭で理解していた世界が
夕べ、アタシの心になった
どうしても入れなかった世界が
アタシのものになった

その後、アタシ、どうしたと思う?
一気に35パーツ クリアしたのよ
2年間 分からなかった課題が一夜にして解けたの
自分でも信じられなかった

でもこういう小さな奇跡がちょこちょこ起こるから
止められないし
人生もまた楽しいのよね

一粒の薬より ちょっとした優しさで
多くのものが救われる
そうして時には アタシ自身が それを求めることもある
ありきたりの御礼なんて言わない
それに勝る宝が他に有るから

そうしてアタシはもう一度
スタートラインに立ち
新しい平原を見つめる
新しい気持ちで
新しい眼で

もうその他のことは どうでもエエわ
今はただ自分を磨くだけ

明日のことは 明日が決めるし
またFortunaの気が向けば
自ずと時機は訪れるでしょう

・・だけど本当にありがとう・・


『オリーブ山の祈り』とか、『ゲッセマネの園』とかいいます。
聖書の中で、そしてイエスの生涯の中で、一番好きな場面です。

かの有名な『最後の晩餐』の後、イエスは、ヤコブとヨハネの二人の弟子を連れて、ゲッセマネの園(オリーブ山)に向かいます。

この時、すでにユダの裏切りを知り、その後の運命を予見したイエスは、ひざまずいて天の父に祈ります。

「父よ(神を指す)、この杯(死と苦難を意味する)を私から取り除けてください。しかし、私の望みからではなく、あなたの御心のままに」

すると天使が天から現れて、イエスを力づけました。
イエスがますます熱心に祈ると、汗が血のしたたるように地面に落ちました。

遠くには、彼を捕らえに来たローマ兵の姿が見えます。
捕らえられば、死は免れません。

イエスも「神の子」とはいえ人間ですから、死は恐ろしいものです。
しかも反逆者として捕らえられるのですから、恐ろしい拷問や辱めを受けるのは必至です。
その過酷な運命を思えば、たとえ父なる神に守られてるとはいえ、血の滲むような苦痛を感じるのは当然です。
だからイエスは言いました。「この杯を取り除けてください」と。
それが人として当たり前の気持ちでしょう。

けれど次の瞬間には、こう言います。
「しかし、私の望みからではなく、あなたの御心のままに」
自分の望みとしては、苦難を取り除けて欲しいけれど、それが父なる神の意志ならば、私はお受けします、という潔さですね。

「運命を享受する」= 潔さ が有るか無いかで、人間も大きく違ってきます。
人間の最高の格好良さって、「潔さ」だと思うんですよ。

たとえば、終わった恋愛から潔く身を引くって、誰にでも出来ることじゃないでしょう。
押して、戻して、「あ、やっぱり駄目だ」と分かった瞬間、さっと身を引くって、ウルトラ級の高等技術ですよ。

そして潔く引いていった人ほど、後々まで深く心に残るんですよね。
「あ、別れなきゃ良かった」って、別れを切り出した方が案外後悔したり。
上手く転べば、向こうの方から追いかけてくることもあります。

人間の器って、どこで決まるかというと、どこまで運命や物事に「決然」となれるかだと思います。
結論に至るまでの過程は、失敗しようが、悶々としようが、遠回りしようが、納得いくまでドッタンバッタンすれば良い。
それこそ、傍で見てても哀れなほど考え込めば良いと思う。
でも一度、心を決めたなら、どんな結果をもたらそうと「決然」と立ち向かう。
そうすれば、グズグズ決めた人よりも、良い結果が出せるものです。
たとえ失敗しても、傍で見ていて格好良いです。恥にはなりません。

ちょっと脱線しますが、三島由紀夫が格好良いこと書いてますよ。

男は死んでも櫻色。
切腹の前には 死んでも生気を失わない様に
頬に紅をひき、唇に紅をひく作法があった。

そのように敵に封じて恥じない道徳は
死の後までも自分を美しく装い
自分を生気あるように見せるたしなみを必要とする。

まして生きているうちには、
先ほどからたびたび言った 外面の哲学の常然の結果として、
二日酔いの青ざめた武士としての
くたびれた有り様を示すものであるから
たとえ上に紅の粉をひいても、
それを隠しおおさなければならない。

美しいものは 強く生き生きと
エネルギーにあふれていなければならない。
それがまづ第一の前提であるから、
道徳的であることは美しくなければならないことである。
しかし それは衣装を吟味したり 女風になることではなくて
美と倫理的目的とを最高の緊張において結合することである。

「葉隠入門:うつし紅粉 より」


数年前、一世を風靡したグラハム・ハンコック著の『神々の指紋』をご存知でしょうか。
1万2千年前、南極に高度な技術をもった超古代文明が存在し、その末裔がピラミッドやマヤ文明を築いたというものです。

あれがベストセラーになった時、上岡龍太郎さん司会で新春スペシャル番組が放送され、今でも時々ビデオで観て喜んでるのですが、何回観ても胡散臭いし、笑えるし、(霊や超常現象に否定的な上岡龍太郎を司会にもってくるところが面白い)――

でも単純な私は、「ピラミッドの配置はオリオン座の三つ星と同じ」とか「昔、南極大陸は赤道により近い場所に有り、文明が栄えていた」とか力説されると、う~む、有り得る話だ (・o・) と、ついつい引き込まれてしまうんですよね。

番組には、「南極大陸は超地殻変動で現在位置にずれ込んだ」と主張するオジサンや、「スフィンクスの足元の縦縞は、古代エジプトが豊かなサバンナであったことを証明している」というアンちゃん等が登場するのですが、とにかく表情が真剣なの。
本気で信じてるんですよ。『1万2千年前、南極に超古代文明が存在した』と。

ああまで真剣に力説されると、(そんなバカな)と思いつつも、(いや、もしかしたら、彼らの言う通りかもしれない)という気になってくるから不思議ですよね。

あんなぶっ飛んだ説を主張すれば、町内だけにとどまらず、世界中の笑い者になるかもしれないのに、彼らは本に書き、世界中の考古学者を向こうに回して、堂々と主張してる――。
自分に揺るぎ無い信頼があるからでしょう。

『神々の指紋』――いつかそれが証明されれば、歴史が根底からひっくり返るし、何も無く過ぎればグラハム・ハンコックは希代のペテン師として葬り去られるし――

でも世界にはああいう事を主張する人も必要なんだワ。
皆が皆、定説をハナから信じる学者先生ばかりだと面白くないもの。

世界は変わる。「変わる」と信じた人が、変えるんだ。

だけどその気概や情熱が何処からくるのか解らない。
資本があるから?
知識があるから?
野心があるから?
援助があるから?

いいえ、きっと、どれでもないわ。

そこに『神々の指紋』があるからよ。
「有る」と分かっているものを、目をつぶって通り過ぎるわけにいかないから――捨てておくわけにいかないから、やるんだわ。
どんな些細な証も、手掛かりに。

何回観ても、グラハムは真剣……信じてるのねぇ。羨ましいくらい。
この勢いで、『火星 超古代文明説』も打ち立てて欲しいです。


小さい頃、うちの近所に美大に通うお兄ちゃんが住んでいた。
そこのおばちゃんととても仲が良かったので、しょっちゅう家に遊びに行ってたら、ある日、おばちゃんに呼ばれてこう言われた。
「うちのボンが卒業制作にあんたを描きたい言うてるんよ。悪いけど、モデルになったってくれへん?」
当時、私は9歳。何だかよく分からなかったけど、「うん」と答えた。

数日後、うちの母に連絡があり、第一回目のデッサンは次の日曜日に行われることになった。
お兄ちゃんが家まで迎えに来て、私はお兄ちゃんの運転する白い軽自動車に乗り込んだ。後部座席には、私が可愛がっていたウサギが檻に入れられて乗っていた。

「ウサギも描くの?」と訊ねると、
「遊んでる姿を描きたい」とお兄ちゃん。
フォーク歌手みたいに肩まで伸ばした長髪(江口洋介みたいにイカすロンゲではない(~_~;)と、袴のようなベルボトムのジーンズが、ちょっとサイケデリックな感じだったのが今も印象に残っている。

着いた先は、地域でも有名な公園。
「まず遊ぼう」ということで、生まれて始めて手漕ぎのボートに乗せてもらった。
実に無口なお兄ちゃんで、話し掛けても、一言、二言しか返らない。
私もどうして良いのか分からず、終いには喋り疲れて「喉が渇いた」というと、すぐにボートを下りて、ジュースとお菓子を買いに行ってくれた。

それからウサギを連れて、緑の茂る公園に行き、いよいよ第一回目開始。
やはりモデルになるのだから、顔を作らないといけないと思い、
「どんな顔をしたら良いですか?」と聞くと、
「いや、自然にしてて。ウサギと遊んで」
何だかよくわからないけど、とにかくウサギを檻から放ち、抱いたり、追いかけたりしていると、突然お兄ちゃん、
「もういい。ウサギは檻に直して、そこに座って」
「えー、ウサギと一緒に描くんじゃないの?」
「ウサギが動き回ると気が散る」
何だかよくわからないけど、とにかくウサギを檻に戻し、お兄ちゃんに言われた通り、芝生の上に膝を抱える様にして座ると、お兄ちゃんはすぐにスケッチブックを取り出し、エンピツでデッサンを取り始めた。
「ちょっと左向いて」「もう少し顔を上げて」「自然に笑って」
私はロボットみたいにカクカク顔を動かしながら、じっとお兄ちゃんの手元を見守る。
モデルだから仕方ないとはいえ、何十分と同じ姿勢でいるのは辛く、つい気が抜けてぼ~っとすると、
「退屈?」
お兄ちゃんがペンを走らせながら聞く。
「うん」とも言えないので、「大丈夫」と答えると、
「そう。じゃあ、あと一時間ぐらい頑張ってね」
その一言で、ふうと気が遠のく。
でも、いったん引き受けたからにはちゃんとやらねばと思い、始終、笑顔を浮かべたまま堪えていると、
「たまには顔を動かしてもいいよ」
とはいえ、顔も一度固定してしまうと、そう軽やかに動かせるものではない。
結局、石膏で固めたみたいになりながら三時間近くを耐えた。

やっと一段落着き、「今日はもういいよ。帰ろう」ということになった時、
「ねえ、描いたの見せて」と言うと、
「駄目。途中経過は見せられない」
あっさり拒否された。クールなお兄ちゃんだった。

それからも二回、三回と家に呼び出され、デッサンは延々と続けられた。
しんと静まり返った部屋に、お兄ちゃんの走らせるペンやコンテの音だけが「シュッ、シュッ」と鳴り響き、私は息を潜めながら、キャンバスに映し出される自分の姿をあれこれ想像する。

不思議な緊張感だった。何か言いようの無い磁力が部屋の中に満ちていた。
私を人間ではなく、もっと何か別のもののように見詰める眼差しや、キャンバスに向かう真摯な表情が、時に恐ろしく感じられるほどに。

それから幾らか経ち、久しぶりに家に呼ばれた時、お兄ちゃんが初めて絵を見せてくれた。
キャンバスの大きさは、縦2メートル、横3メートルほどあっただろうか。
壁際に立て掛けられたその中には、芝生に膝を抱えて座り、無邪気に微笑んでいる私と、足元で草をついばむ白いウサギが、キャンバスいっぱいに描かれていた。
その姿は私であって、私でないようだった。
なぜなら、絵の中の私はまるで羽根が生えたみたいに軽やかで、温かくて、ひな菊みたいに可愛かったからだ。(いや、ホント(~_~;)

「これ私じゃないみたい」
「でも、Marieちゃんはそういう顔で笑ってるよ。Marieちゃんが知らないだけで、Marieちゃんはそういう顔で笑ってるんやで。そういう風に笑ってる姿を見たから、こういう風に描いたんやんか」
何だかよく分からないけど、ふうんと納得したような顔をすると、
「絵を描くというのは、そういう事なんや」

(そういう事なのかぁーーーーー)と分かったような、分からんような顔で我が家に帰ってくると、母が開口一番。
「あんた! 無事に終わってホッとしたわ」
「私も終わってホッとした」
今から思えば、母の言いたい事と私の答えは微妙にすれ違っていたのだが、とにかく初めての大役(?)を務め終えて、肩の重荷が取れた私。

「ねえねえ、この絵ちょうだいね」
後でお兄ちゃんに頼んだが、
「アホか。こんな大事なもん、やれるか」
最後までクールなお兄ちゃんだった。


Fortuna とは『運命の女神』。

宿命と運命の違いって分かりますか?

宿命とは、先天的に定められた「人生の場」。
あなたが生きる人生の舞台です。
人によって、それは花園でもあるし、すさんだ荒野でもある。
残念ながら宿命は変えられません。
役者が舞台を変えることができないように。

でも運命は違います。
運命は、道を歩く者の前に、突如降り立ちます。
そしてそれぞれの器に応じた課題を課します。
その解答によって、次に行くべき道を指し示してくれます。

もしあなたが、学校の教師なら、意欲のある生徒にはどんどん課題を与えて、才能を伸ばしてやりたいと思うでしょう。
また逆に、鼻クソほじって、ぐうぐう居眠りしているような生徒には、授業する気にもならないはずです。

Fortunaもそれと同じです。
Fortunaに気に入られると、必然的に課題が増えます。
解き進めば進むほど、課題もどんどん重くなります。
「もうダメですぅ。難しすぎて解けません」と音を上げれば、それまでです。
しかし20点でも、70点でも、とにかく最後までチャレンジすれば、次の機会を与えてくれます。今度は100点満点が出せるように。
そうして最後には、人の辿りつけぬ境地まで導いてくれるでしょう。

愛の神 Erosと違って、Fortunaは意地悪です。
「こんちくしょう」というような顔をしています。
だから皆、避けたがります。
本当はその先にFortunaの微笑みがあるのだけど。


有吉京子さんの名作バレエ漫画『SWAN ~白鳥~』にこんなシーンがあります。

バレエダンサーの真澄は、国際バレエコンクールの課題に、『愛の伝説』シリンの役を選びます。『愛の伝説』は、自分の美貌を犠牲にして愛する妹シリンを助けた女王メフメネ・バヌーと、シリンが一人の男性を争う物語です。

シリン役にとって最大の見せ場は、恋人フェルハドとの愛に満ちたアダージェ(男性と女性がペアで踊る)。しかし真澄には、自分の美貌を犠牲にしてまで命を救ってくれた姉から、フェルハドを奪おうとするシリンの気持ちが理解できません。
どうしてもシリンの情熱を表現できない真澄に、振付家は言いました。

「よく考えてごらん。人の為に自分の意志を殺すことは美徳だろうか。
それはワガママで身勝手なものだと分かっていながら、
自分に正直に振る舞うことは罪悪だろうか。
人は感情で生きている。
誰の心にも欲望はある。
人生は美しいことばかりじゃない。
人と譲り合い、助け合うのもいいだろう。
が、しかし、何を捨てても貫かねばならないことが人生には必ずあるはずだ。
自分を押し殺せるうちは本物じゃない。
人に譲れる恋なら、本物ではないんだ。
君がバレエを捨てられないのと同じように、
シリンはためらわず自分の恋に正直に生きることを望んだ。
彼を本当に愛していたからだよ」

それに続く回想シーンに登場する詩です。

―― たとえ あなたに関わる人々がすべて
この愛を呪っても
わたしにとっては 我が身であるこの愛を
どうして捨てることができるでしょう

たとえ嫉妬の炎に
心がみにくく やけただれてしまったとしても
想いだけは 鳥になって
地の果てまでも ついていくでしょう――

あなたが望めば
地の果てまでも
ついていくでしょう ――

『SWAN』も名セリフの宝庫なんだけど、一番好きなのが「人に譲れる恋なら本物ではない」という言葉。
これは学生の時から変わらず。

そして、それはどんなものにも当てはまるような気がします。
どんな思いも、何かと引き換えたり、犠牲にしたり、取り下げてしまうなら、本物ではないのです。


恋は、異質世界との融合だ。
「異性」という、異質の人間との遭遇――
「情熱」という、未知の感情との遭遇――
「自分」という、自身でさえ気付かぬものとの遭遇――

『異』なればこそ、憧れ、欲する。
心と身体の≪何か≫を満たそうとして。

恋は変え、恋は解き放つ。
この『魂の変容(メタモルフォーゼ)』こそ、恋の本質と見た。

恋だけが、真の意味で、人間を完全にする。
私たちは皆、片翼の鳥なのだ。


「……僕が、ずっとお父さんに何も言えなかったのは、
お父さんを傷つけるのが嫌だったからじゃない。
お父さんの愛情を失うのが恐かったからだよ」


「人間はね、生のままの姿が一番美しいの。何も隠すことなんてありはしないのよ」


恋をして、日に日に生まれ変わるような感動の中で、 彼は自分の高ぶる情熱に向かって叫ぶ。

「僕は今まで生きていたのか、死んでいたのか――
今日の今日まで、何も知らずに生きてきたような気がする」


『僕は恋のために決然と死ねる人間でありたい。
たとえ、一瞬の情熱で全てを滅ぼそうと、 この一瞬の情熱を偽りたくない。
死を知るからこそ、今、この一瞬に全てを懸けたいのだ』


愛の無い人だったからこそ、私は掛け値なしの想いをあげた。
そして、それを、あの人は心から受け取り、大事にしてくれた。

私はこの人に、自分の想いが偽りでないことを証さねばならない。
あの人が、私の想いを心底信じ、自分のものにしてくれて初めて、
私の想いも生きるのだから。
あの人が今、私という女に、最高に夢をもっている以上、 私は降りるわけにはいかない。

自分の孤独や苦しさを押し殺しても、この想いを貫かねばならない。
貫いたところで、何も無いのは分かってる。
……分かってるけど、全てを無駄にしたくないのだ。

愛の本質は、愛が終わる時にわかるという。
ならば私も最後まで見届けたい。
この出会い、この想い、この男が、“何もの”であるかを。
たとえ、それが無意味なお祭り騒ぎだったとしても、 私はそこからまた何かを学べるはずだから。
人を愛せた自分を誇れるはずだから。


それでも、君には『ありがとう』なんだ。

だって、いまだかつて、ここまで純情かつ誠実な思いを捧げてくれた男性があっただろうか?

目が合っただけで飛び上がらんばかりに驚いたり、 息を呑んで、目を伏せたり、 下手な慰めも言えないほど心を痛めたり、 声を掛けただけで顔を赤らめたり、 ただ認めて欲しいがために、しゃかりき働いたり……

私の気持ちを、ここまで大切に抱いてくれたのも、 君が初めてだ。
たいていは、盛りのついた犬みたいに飛びついてくるんだから。

そんな君だからこそ、「頑張ってね」って手紙をあげた――
この想いを貫こうって、心に決めたんだ。
そして私の想いを大切にしてくれるってことは、私という人間を、大切にしてくれてるってことなんだ。

だからこそ私も、自分という人間を愛しめるようになったんだよ。


私はこの部分の設定を組むために、 いろんな業界暴露本に目を通した。
嘘か真か知らんけど、そりゃもう読んでて腹が立つくらい、 いろ~んな裏事情が書いてあった。

だけど、その中で、一番ショックだったのが、 『必要悪』という言葉だ。

『必要悪』!! ……なんですか、それ?(笑)
それはMarieのボキャブラリーには、影も形も無い言葉だった。

「悪」は、どこまでいっても「悪」であり、 法が「してはならない」と定めたことは、
絶対「してはならない」のだと思ってたから。

『おとなの社会』……こと、支配階級の世界では、 その“行い”を正当化するロジックとして、
『必要悪』という言葉を使うらしい。
要するに、 受注の便宜をはかるため、政治家に金をばらまいたり、 資金援助を受ける為に、企業に便宜をはかったり、 国庫からたくさんお金をもらうために、見積もりを増やしたり ……etc というような“行い”を『必要悪』といい、 その世界では当然のように行われとる習わしらしいワ。
それで商売が上手く回り、皆が利を得るのなら、 それもまた『必要悪』として受け入れられるべきものなのらしい。

だったら、何の為の法律なの?
あれは、所詮、“建て前”なの?
現実の利を得る為なら―― それで皆が食ってく為なら――
どんな不正も許されるの?
ルールからはみ出たことも、『必要悪』と言ってしまえば、
何だって許されるじゃないの……。

私には、そういう世界の“正義”がよく分からない。
「悪い」と知りながら、やってのけちゃう人間の気持ちも。

あるいは、馴れてしまうのだろうか? そういう“習い”の中にいれば――。

「正義」という言葉を辞書でひもとくと、 『正しい道理。正しいすじみち。
人として行うべき正しい道義』と 書いてある。

だけど、何をもって「正」といい、「不正」というかは、 その世界の「基軸」の如何による。

ある国では、泥棒を一刀の元に叩き斬っても許されるが、 ある国では、どんな罪人も権利をもつ人間として保護されるように、 「基軸」が違えば、「正義」も違うし、「罪」の意識も違う。

もしかしたら、 万事万人に共通の、「絶対的な基軸」「絶対的正義」なんてものは、
元から存在しえないのかもしれない。

それでも、そういうものが「無ければ」、 人間や社会は混乱しないだろうか?

皆が、自己の世界に基軸を求め、自己の正義をふりかざしたら……
あっちにも、こっちにも、いろんな“正義”が存在して、
それぞれが正当な利を主張して、譲らなかったら……?

疑問符は尽きない。


ある意味で、私とマルちゃんは、 心情的に繋がっているといえるかもしれない。
唯一つ、決定的に違うのは、 世界を変えるのは『システム』ではなく、 『自分自身』であるという根本的な発想だ。

システムが変わっても人間の本質は変わらない。
どんなシステム下にあっても、 『意味』を拾い出すのは、結局『自分自身』でしかない。


恋する女性に共通の悩みは、『本当にこの人でいいの?』という思いではないでしょうか。

「彼は本当に私を愛しているのかしら」
「彼は本当に間違いのない人物なのかしら」
「彼はどこまで真剣に二人の関係を考えているのかしら」

彼のどこか優柔不断な態度や、人間的に未熟な部分、他の女性とも交際している事実、
離婚歴・・等々、 あなたを不安にさせる材料は、挙げればキリがないですね。

ところで、あなたは何故、そんなに彼の態度や人柄に疑問を持つのですか?

彼に騙されて、バカをみるのがイヤだからでしょうか?
彼と交際することで、自分一人、苦労するのがイヤだからでしょうか?
周囲から、「あんな男と」と非難され、嘲られるのが怖いからでしょうか?

いずれも、そこに『愛』はありません。
「私カワイイ」の気持ちがあるだけです。

本当に人を愛したら、その人がどんな不細工な男でも、欠点だらけのバカ男でも、前科10犯のとんでもない悪人でも、理屈抜きに愛します。

たとえその人があなたを裏切り、他の女に走っても、「彼が幸せならそれでいい」と思い、恨みも憎しみもわきません。
彼の笑顔を思い浮かべるだけで、心がほのぼのと温かく、満ち足りるものです。

自分の痛み、苦しみよりも、彼の存在そのものが愛しいから。

彼の事を考え、不安や疑問、不満がふつふつと沸いて、「本当にこの人でいいの?」と思うとき、そこに『愛』は無いのです。


祖父は、一人の人間の可能性について論じるのが好きだった。
極限まで追いつめられた人間の、劇的な力の発露を信じていた。
どんな凡庸な人間も、断崖絶壁に立たされれば、海を割るほどの知 恵と力を汲み出すというのが祖父の持論だったのだ。

祖父はいつも言ったものだ。

「なあ、アル。人間には無限の可能性がある。自分を捨てることは、 その一切の可能性を捨てることなんだよ」

それは、ともすれば自分を失いがちなアルにとって祈りにも似た言葉だった。

消え入りそうにな心を奮わせ、誰の中にも眠る未明の力を思い出させてくれるのが、「捨てるな」という祖父の言葉だったのだ。


生き生きしたシナリオには生き生きした人生が、
 不満だらけのシナリオには不満だらけの人生が、待っている。


『言葉は人間が作るが、今度は人間が言葉に作られる』


人間の想念は、言葉によって具現化され、潜在意識に刷り込まれる。
人間というのは表層の感情ではなく、潜在意識に支配されるものだから、潜在意識に刷り込む情報は出来るだけポジティブな方が良い。

「俺は駄目な人間だ。何をやっても上手く行かない。不幸なのは、 俺に運が無いからだ。政治も悪いし、社会も悪い。隣のアイツも鬱陶しい。ああ、毎日おもしろくない」

と思えば、そういう人生を送ることになる。

怨念が怨念を呼ぶように、嫌な人間ばかりが集まり、次から次に 不幸も訪れる。 (何をやっても失敗する)と思っている人は、その 通り、何をやっても失敗するのである。


まあ、人間も昆虫みたいなもので、 どんどん脱皮するのが自然ですし――
とりわけ私は人より脱皮のサイクルが早いので周りの方がむしろ犠牲者という気もします。
あちこちに私の脱ぎ捨てた皮が散在しているという・・

そういう事も踏まえて、メルマガのタイトルも、
28日周期で変わる『月の光』にしているのですが、こりゃシェイクスピア風に言うと、不実の象徴ですからネ。
時々、Eclipse(月蝕)もするし。

だけど、表現というのは月の光と同じでしょう。 目に映るのは「月そのもの」ではなく、投影される「光」だから。

肝心なのは、いかに輝くか、ではなく、 どこから光を得るか、なんですよね。


新作『ジャンヌ・ダルク』を完成させた 映画監督リュック・ベンソンの言葉。

Q:なぜ世紀末のヒロインに、 ジャンヌ・ダルクを選ばれたのですか?

 ベンソン: 現代は、信じられるものがない。だから、何かを信じぬいた少女を描きたかった。

ジャンヌが「信じぬいたもの」って何だと思います?
私は、「神の声」そのものではなく、 『私は神の声を聞いた』という
「自分自身」だったと思っています。
この世で最強なのは、信仰をもった人間。
対象は何だって良い。
肝心なのは、「正しい信仰」をもつことです。


ファッション・デザイナー イッセイ・ミヤケの内弟子に、二十代 の優秀な女性デザイナーがいて、ブティックを開いたら、どんどん売れるようになったとか。

ところが、自分の作りたい服と、売れる服がどんどん違ってくるよ うになり、彼女はイッセイに相談した。
「自分の作りたい服と、売れる服と、どちらを主流にすれば良いの か分かりません」 するとイッセイは、
「君は自分の作りたい服を作ることで、ここまで売れるようになったんだろう? だったら、これからも自分の作りたい服を作り続け なさい」

彼女は一瞬で迷いが消え、売れる売れないに関わらず、自分のデザ インに専心するようになったらしい。
もちろん今も第一線で活躍しておられるそうです。
これは皆さんにも当てはまる言葉。
何においても、迷いが生じた時は、 自分を信じて、頑張ることね。
いつも、どんな時も。

初稿:2003年冬

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