フジ子・ヘミングさんが教えてくれたこと

最近、見つけた、「会社生活の友」というホームページに、中尊寺ゆつこさんの、「この人を見よ」という四コマ漫画が掲載されていた。
旬の有名人を鋭く、面白く分析したもので、特に、「フジ子・ヘミング」さんに対するコメントが印象的だった。

ちょっと引用させて頂くと……

『何故みんなフジ子に感動するのか。フジ子がピアノしかやっていないからだ。ピア ノ以外のほんの少しのことがあるとすればとても不器用。私たちは日々、ネットワ ークだ、パソコンだ、テレビだ、人間関係だ、人付き合いだ、買物だ、ブランドだ …など、本来の仕事には直接関係ないことにマルチに時間と労力を膨大に使う。も ちろんそれも大切なのだが、フジ子の場合、時間とエネルギーの使い方はピアノを 弾く=95%、猫に餌をやる=3%、その他=2%くらいかな。

そこまで何かに熱中している何かの専門家はもちろんいるとは思う。しかしフジ子 は欲も家族もなく、その運命や生きてきた年齢、国籍なども考えるとやはり壮絶な ものがある。フジ子・ヘミング、時代を越えて、芸術を手段として、私たちに大切 なものを訴えかけてくれる。』

つい先日、ヤンキー先生が母校をお辞めになるというニュースが全国版で流れ、ご自身のブログにも、辞職に至る背景みたいなものを、二、三、コメントしておられたのだが、このニュースを知って、多くの人は、こう思ったのではないだろうか。

「有名になりすぎたんやなあ」

私も現場を知っているわけではないので、何とも言えないのだけれど、ブログなんか見ていると、この方の活動は、「私立高校の一教師」を通り越して、それ以上の何かになっておられるような気がする。
誰がどう考えても、「本を書き」、「全国で講演をこなし」、「インタービューに応じ」等々、学外以外の活動に従事しながら、現場の責務もきっちりこなす……というのは、不可能に近いからだ。

もちろん、そうなったのは、この方のせいではないし、不本意なことも多々あるだろう。

「誰が悪い」「こうすべき」を追及したところで、万人が納得行くような結論は得られないと思う。

この一件もあれこれ言い出せばキリがなく、たとえば、『言論と社会的責任』――公的なブログで、同僚やPTAとの軋轢について発言して良かったのか――、『一身上退職の光と闇』――たとえ不条理な目に遭っても、「自分の立場」を説明しようとしてはならない――、『メディアの恐ろしさ』――人物像は意図的に作られる――等々、いろいろ考えさせられた。

惜しむらくは、この方の周りに、現場と学外の活動を上手に調整できる、優秀なブレーンが無かったのかな、という点で、この方の若さを考えると、世間を渡るのに、まだまだ「大人の導き手が必要である」と感じずにいないのは、私だけではないはずだ。

理想の高さと、現実を生きる知恵は、必ずしも一致しないから。

……なんて思っていたら、いろいろお節介にアドバイスしてくれる、先輩教諭もおられたんですね。

文藝春秋 自著を語る

『――先輩の先生から何か言われたりすることもあるんじゃないですか?

● 研修会などでよその学校の先生と会うと、お説教というか、アドバイスしてくれる人はいますね。「今はまだ若いからいいけど、変化球も覚えなくちゃ身体が保(も)たないぞ」とか。でも、それも違うと思うんですよ。おれ自身が、散々大人の投げる変化球に翻弄されてきた経験からいって、そんなの今の奴らには通用しないですから。』

この「変化球」の意味、すごく深いと思うけどなー。

でも、三十代前半なら、このように反応するのも仕方ないかも。。。

「一所懸命」って、確かに素敵なことだけど、時にはそれが思いもよらぬ波紋を投げかけることもある。
本人は良かれと思ってやったことが裏目に出るなんてのは、この世界じゃしょっちゅうだ。
(特に、サラリーマン社会)

「熱さ」と「独善」は、本当に紙一重で、そこをバランスよくいかないと、結局、みんなに迷惑かけることになる。

それが見えないところが、若さと勢いの恐ろしいところなんだ。

このニュースの少し前、フジ子・ヘミングさんのコメントを読んだだけに、この方の残念な顛末が余計で気になった。

思いがけず注目されて、ひとたび顔と名前が世間に知られると、自分では制御のつかない大きな渦が巻くものだ。

そしてまた、「正義の人」になってしまうと、正義のイメージを維持するために、本業とはかけ離れたところで、膨大なエネルギーを費やす結果になってしまう。

あるいは、自分自身がそのイメージに引きずられて、がんじがらめになったり。

みんな、「注目されたい」「成功したい」と望むけど、自分のスタンスを見失うことなく、それを維持するのは、本当に難しいことだ。

この方も、今度の経緯を教訓にして、良い方向にやり直して頂けたらと思う。

その点、フジ子さんは淡々として、あれだけブームになったにもかかわらず、全然変わらなかった。

「ピアノが弾けたらそれでいい」

本当にそれだけの人だった。

人は自分の本分に忠実に生きていれば、幸せになれる。

時々、立ち止まり、振り返りしながら、自分の足場をしっかり固めていきたいものです。

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辛いことがあっても、私は負けなかった。正直にやっていれば必ず大丈夫だと思っていた…。奇跡のピアニストが語る、人生、家族、恋愛、お気に入りの世界について。生きる勇気をくれる、待望のビジュアルエッセイ。

フジ子さんらしい淡々とした語り口調の中に、長く、つらかった、海外での一人暮らしを通じて培った心の強さ、気高さが感じられる。
この人にしか生きられない人生と、この人にしか奏でられない音楽がある──。
軽やかなのだけど、打ちのめされるような一冊です。

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タイトル曲になっている「ラ・カンパネラ」では、高音をきれいに響かせて、いかにも鐘の音が遠くからきこえてくるような雰囲気を出す。本来、名人芸を披露するには絶好の曲だが、彼女は決してその誘いに乗ろうとせず、ゆったりと構えている。そのおだやかな演奏が、少しレトロで「和み系」の演奏が、ギスギスしがちなわれわれの心にふっと触れてくる。
「フジ子・ヘミングに癒される」という人が多いのはもっともだろう。

フジ子さんに対する評価はきれいに二つに分かれる。
「徹底して認めない」ものと、「感動した」というものだ。
この方の演奏は評論するために聴くものではないし、また「クラシック」だの「正当派」だのとカテゴライズしながら聴くものでもない。

ただ純粋に音楽として聴く。

その姿勢がなければ、彼女の演奏は、ある種の聴衆にとっては耳障りで、「突如もてはやされたクラシック界の異端者」にしか聞こえないだろう。

が、そんな雑音からも超然として自分の音楽を奏で続けているのが「フジ子・ヘミング」というピアニストである。

彼女の音楽に「何を聴くか」は聴く者次第である。

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