恋と女性の生き方

『自分の為だけに生きたくない』という思い ~池田理代子さんの著書より~

2006年6月20日

池田理代子 「あきらめない人生 ~40代からの生き方~」より
 

この五十歳という人生の大変な節目を迎えるにあたって、私の心の内に、これまでにはさして強く意識したことのなかったある感慨がわいてきました。 
 
それは『私は生まれてからこのかた、自分自身のためにのみ生きてきて、他人のために生きたということがない』という思いです。 
 
振り返ってみれば、本当に私は、自分のやりたいと思うことに力いっぱい没頭し、人一倍の努力もし、ある程度の満足がいくように自分の時間を目いっぱい有効に使う生き方をしてきました。 
 
けれども、それらは全部自分自身のためでした。 
 
私が人生において一番なりたかったのは『お母さん』なのですが、様々な肉体的事情からそれを叶えることができないままこの年齢にまで達してしまった結果、どうやら私は『無償で他人に愛を与える』ということを経験しないで来てしまったような気がするのです。 
 
母親の、何の見返りも求めずに自分の時間の大部分を犠牲にして我が子を愛するという態度こそは、無償の愛の最たるものではないでしょうか。 
 
……(略)…… 
 
もちろん、経済的に自立できているということが真に自由であるための基本的な条件であるのは言うまでもありませんが、けれども、自己確立や自己実現というのは、必ずしも外に出て働くということだけで得られるものでもないと思うのです。 
 
それに『自分ではない他人のために生きる』という経験を、人生のある期間もつことは、ほかのどんな経験もが与えることの叶わない素晴らしいものを自分に与えてくれるはずです。 
 
……(略)…… 
 
他人のために生きるというのは、決して犠牲を自分に強いることではなく、より満ち足りた生の実感を得ることなのだと、この年齢になってようやく分かりかけてきた私です。

私は、二十代後半から三十代前半にかけて、自分の持てるものすべてを趣味と生き甲斐に注ぎ込み、何をも顧みることなく、「それが自分にとって正しい生き方なのだ」と頑なに信じて頑張っていた時期があった。 
 
その間には、当然、「どうして結婚しないの」「独りでいるより伴侶がいた方がいいよ」と、耳にタコができるほど言い聞かされ、その度に、いきり立つようにして私流の独身論を力説し、絶対に自分の考えを変えようとしなかったのだが、三十代半ばを前に、とうとう力尽き、「独りの限界」をイヤというほど思い知らされた。 
以来、一度死んで生まれ変わるような気持ちで、自分を改めたのだった。 
 
その時、しみじみ感じたのが、「自分自身の為だけに生きる虚しさ」だ。 
 
その頃、私は、高いアパートに住み、美味しい物を食べ、一席何万もするバレエやオペラの公演に惜しげもなく通い、朝から晩まで読書に耽ったり、自分の趣味に打ち込んだりして、それはそれは優雅な独身貴族を謳歌していた。 
 
それはそれで大きな悦びがあり、決して無駄に生きているとは思わなかったけれど、反面、どこか覚束ないような頼りなさがあり、「幸せだ」「充実している」と言っても、金槌で叩けば、ボロボロと崩れ落ちるような虚しさを、自分でも心の何処かで感じていたものだった。 

24時間を自分の為だけに生きる。 

それも、一つの贅沢な生き方と思う。 
 
が、守る相手もなく、支え合う相手もなく、何かを得ても、自分一人で使い切ってしまう生き方に、私は、魂が真から満足することはなかった。 
 
振り返れば、何かに飢えたように、前に前に進み続けたのも、その虚しさに気付くまい、認めるまいとする、下手な頑張りだったような気がする。 
 
そんな折り、私の目の前に、結婚という選択肢が生まれ、子供を産み育てるという希望が湧いてきたのだけれど、そこに実際、足を踏み入れて、今、つくづく感じるのは、 
 「やっぱり自分を棄てきれない」 
 その一言に尽きる。 
 子供は可愛い。 
 
夫のために、いそいそと食事を作ったり、パンツを洗っておいてやるのも、決して無駄とは思わない。 
 
が、しかし。 
 
ふと我に返った時、籠から手足を出せないで、イライラしている自分に出会うことがある。 
 
毎朝、当たり前のように会社に出かけていく夫の姿を見て、「自分だけ、自己実現しやがって」なんて、憎らしい思いに囚われることもしばしばだ。。 
 
そんな時、『他人の為に生きる』というのは、あくまで『目標』であって、今、現実に、実行している訳ではないのだ、ということを、つくづく思い知らされる。 
 『自分の為に生きる』のは、いつでも実現可能だけれども。 
 
私には、理代子さんの、「他人のために生きたい」という気持ちがよく分かるし、あれほどの名声を築いても、「自分の為だけに生きる」のが物足りなくなる気持ちもよく分かる。 
 が、しかし。 
 
「子育て」しているからといって、「他人のために生きる」という崇高な目標を叶えたかといえば、決してそうではないのだ。 
 
むしろ、生のベクトルは自分自身に逆戻りし、結局、自我を超えられない弱さ愚かさに愕然とする方が多い。 
 
傍から見れば、夫や子供に全力投球しているかのようだが、その間、私は、何を考えていることやら。 
 これを『無償の愛』というなら、世の中の人、みんな、菩薩になれますわな。 
 
……とはいえ、全てが全て、悪いわけでもないのだ。 
 本当に全てが悪ければ、またも「空しい、空しい」と、心が泣いて騒ぐはずだから。 
 
時間も気力も体力も、何もかも吸い取られることに焦りを感じても、損しているとは感じない。 
 
もし、今の私の生き方が、見返りを求めてのことなら、『損な思い』でいっぱいで、やればやるほど虚しさが増すはずだから。 
焦りや、疲れや、もどかしさではなく。 
 
今は、空しいと思うヒマもないほど忙しい毎日に、感謝せねばならない。 
 
そして、それを、心のどこかで、いつも欲していたような気がする。 
 

初稿:2006年6月20日

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