映画『セッション』とゴーストライター事件

この作品は、見終わった後に、評価がぱっくり二つに分かれる映画だと思います。

「めちゃくちゃ感動した!」と「え、こんなもん?」

残念ながら、私は後者の方でした。感動した皆さん、水を差すようでごめんなさい!!

でも、ネットの情報を見ていたら、映画界とジャズ界を代表する方が作品の出来・不出来をめぐって真っ向からバトルされたようですし、一般人の映画ブログでも、純粋に感動した方と、「もうちょっと、こういう部分を掘り下げて欲しかった」と不満が残った方と、大きく評価が分かれているようなので、私も後者の方だな、と感じた次第です。

内容に関しては、至る所に情報がUPされてますので、WikiやAmazonをご参照下さい。

「音楽的」であること

多分、この映画に物足りなさを感じた方は、偉大なジャズ・ドラマーを目指す主人公アンドリュー・ニーマンの音楽観がどこにも感じられなかった事に不満や違和感を覚えたのではないでしょうか。

音楽観というのは、「どんなジャズをやりたいか」というニーマンの強い拘りです。

たとえば、

「フィッシャー先生は楽譜に忠実であることを求めるけど、音楽って、そういうものじゃないだろう。オレは心の底から湧き上がるような即興の部分を大事にしたい。その場その場で表現の仕方は変わるはずだっ!」

「フィッシャー先生は、バンドメンバーと呼吸を合わすことを主張するけど、ジャズの要はリズム。メンバーがオレに合わすのが筋じゃないか。オレ一人が突出しているからといって、何が問題なんだっ!(←エゴ)」

「フィッシャー先生はグルーブ感に拘るが、それはチャーリー・パーカーの時代の話。21世紀のジャズは、もっと新しい方向に舵を切るべきだ。オレがその先駆者となってみせるっ!」

そういう部分がほとんど無くて、ひたすら「偉大、偉大」と繰り返すだけ。

描きたいテーマも無いのに、「漫画家になりたい」と憧れ、なんとか先生みたいなイラストをひたすら描きまくって、肝心のストーリー作りや、それを構築する為の勉強など一切やらない、自称・漫画家志望みたいなものです。

ニーマンもひたすらドラムを叩きまくるだけ。

そこに音楽的な拘りもなければ、音楽家らしい葛藤もない。

あるいは、それを考える余裕も無くすほど、技術! 技術! を要求され、パワハラまがいの指導の中で我を失っていく……というのが監督の意図なら、それはそれで成功していると思いますけどね。

ただ、やはり「映画音楽」としての感動を求めるなら、一部の人は「音楽的であること」を求めると思うのです。

「音楽的」の中には、演奏家としての苦悩、音楽業界における理想と現実のギャップ、技術的な行き詰まり、周囲の音楽観の違い、などが含まれます。

その辺りが、主人公の激しい魂の叫びとして聞こえてこず、ひたすらスポ根的にドラムを叩きまくって、最後も「音楽観の対決」というよりは、「これでどや!」と主人公が一人で押しまくる展開だったので、見る人によっては肩透かしを食らったような気分になるんじゃないでしょうか。

映画音楽で大成した作品といえば、天才モーツァルトと凡人サリエリの葛藤を描いた『アマデウス』が代表的ですね。あれはプロの音楽家も納得の出来だったように感じます。

音楽的にどうこう、というよりは、「神はなぜ自らの代理人に、あんな下品な若造を選んだのか」という、努力家サリエリの怨念が見事に表現されていました。

サリエリもなまじ才能があるが為に、モーツァルトの天才が理解できてしまう。

こんなバカは無視して潰してやりたいが、音楽家としての良心からそれは出来ない。

だが、自分が手助けすれば、いずれ世間も才能の違いに気付いて、モーツァルトの方が天才として後世に名を残すことになる。

この嫌らしいまでの凡人の嫉妬と、音楽に対する敬虔の狭間で、だんだん卑屈に歪み、音楽の神(=モーツァルト)の復讐者となる過程がつぶさに描かれていました。

それは決して奏法や解釈に重きを置いた作品ではないけれど、「音楽の神に愛されなかった凡人の怨念」は非常によく伝わってきたし、クラシックに興味のない人でも、「ドン・ジョバンニって、そういう背景があったのか」みたいな発見がありました。

成功のポイントは何か、と問われたら、それはやはり「今ひとつ天才に及ばない音楽家」サリエリのキャラクター的魅力なんですね。即ち、平凡な一般市民のあなた方の象徴です。

恐らく、映画『セッション』も、「自分はこんな音楽がやりたい」というニーマンの頑ななまでの理想があって、その強固な拘りが、フィッチャー先生のスパルタ的な指導の中で、揺らぎ、壊れ、自分自身に対しても懐疑的になっていく、そうした演奏家としての葛藤がもっと前面に出ていれば、ジャズ・ミュージシャンも納得の内容になったのではないかと思います。

「偉大」を目指すのは分るけど、じゃあ、偉大になって、どんな演奏がしたいの? という音楽家としての核の部分ですね。

ある意味、『感動の音楽映画』という触れ込みが、変に期待をもたせた・・という背景もあるかもしれません。

「感動」というからには、ジャズ通は「音楽的な感動」を求める。

「音楽的な感動」というのは、主人公の音楽観が報われる、もしくは音楽的に偉大な目覚めがある・・という展開です。

たとえば、こんな感じ。

「そうじゃない、オレはこんな演奏がしたいんだ」とフィッシャー先生の指導に疑問をもつ。

音楽観の違いからついに決裂、そして退学。

やはりオレの演奏が間違いだったのか。自信をなくし、ニコルに慰めを求めるが、既にニコルは愛想を尽かしている。

孤独の中で、音楽を諦めることも考える。

フィッシャー先生との再会。

演奏会に参加するが、フィッシャー先生のだまし討ちに遭う。

一度はステージを降りるが、ここで引いてたまるかと舞台に復帰。フィッシャー先生の指揮は完全無視で、自分の演奏を貫く。

やがて観客が魅了され、拍手がぼちぼちと。

他のミュージシャンも、ニーマンの演奏に圧倒され、フィッシャー先生の指揮ではなく、ニーマンのドラムに合わせるようになる。

フィッシャー先生は居場所を失い、フェードアウト。

舞台におけるニーマンの完全勝利。

シナリオ通り、フィッシャー先生と解り合い、微笑み合うエンディングもいいけれど、それならもっと音楽家としてのニーマンの苦悩が欲しかった……というのが、一部の違和感ではないでしょうか。

それでも、監督は撮影当時28歳、シナリオのテンポもいいし、ドラム演奏の編集などもよく考えられて、上出来だと思います。

音楽教育の「ある一面」にフォーカスし、個々の音楽観はもちろん、生徒の自尊心まで破壊してしまうスパルタ指導法の是非や、ドラミングの素晴らしさなどは、非常によく描けてましたしね。

投げ銭的な意味で星五つ、そこには将来への期待値も含まれます。

これを機に、チャーリー・パーカーやバディ・リッチを聴いてみよう、と思った人も少なくないでしょう。

それだけのインパクトを与えた、という点では、やはりパンチのある作品なのです。

だからあなたはゴーストライターに騙される

なぜゴーストライター・ネタを持ってきたか・・といえば、この作品に純粋に感動できる人って、佐村河内氏にも騙されるんじゃないかな、と思ったからです。

こんな風に言い切ってしまうと、語弊がありますけども(ホントに申し訳ありません・・)。

いわば「小手先の凄さ」、本作で言えば、派手なドラミングに目を奪われて、それだけで感動してしまう、という点です。

宣伝で大手の配給会社から「十年に一度の感動作」「全米が泣いた」「天才○○、渾身の作」と触れ込みがあれば、それだけで「感動しなければならない」という前提で見てしまうし、有名な映画評論家や多数のブロガーが絶賛すれば、「これに違和感を持つことは許されない」という雰囲気にもなりますよね。

いわば、「この作品を否定する、お前の方がオカシイ」という同調圧力です。

佐村河内氏の一件でも、「相手は聴覚に不自由がある」=「批判してはならない」という前提から始まって、「あの人も、この人もヨイショしてます。日本全国が感動してます」というフォーマットの中で個々の感覚まで支配されてしまう。

でも、交響曲を聴いて、「は?」と違和感を覚えた人も少なくなかったはずですよ。

たとえば、「作曲者は、19世紀的な世界観を踏襲し、現代に新しい解釈をもたらした」という触れ込みなら、納得したと思うんです。

そうではなく、「既存の音楽を打ち破る新しさ=天才」「現代のベートーヴェン」といったキャッチフレーズで売り出していました。

だけど、多少クラシックに素養のある人が聴けば、あのヒットした交響曲には既視感しか覚えない。

マーラーやブルックナーあたりの二番煎じ、と、すぐに気付くと思うんです。

その上で、「現代に蘇るマーラー」みたいな話なら、まだ納得できるけども、「マーラーなんて一般ウケしないよ。クラシックといえば、やっぱベートーヴェンでしょ」みたいな、マーケティングのあざとさや、聴覚やボランティア云々といった属性の部分で盛り立てた、という点で、特にクラシック愛好家はブチブチっときたんじゃないでしょうか。

というか、共作なら共作と、早く言ってくれればいいのに・・の世界ですよね。

でも、メインの作曲家として、新垣先生のような、凡々としたイメージのおじちゃまが登場したら、「なーんだ」と手の平返したように冷遇するわけでしょう。

そういう意味で、「権威あるもののお墨付き」とか「Googleの検索では好意的な意見ばかり」とか「ドラミング、かっけー」とか、見た目の華やかさに目を奪われる危うさは、誰の中にもあると思うんです。

TVのコメンテーターでも、「市立○○商業高校卒。20年、卸業やってました」という人より、「アメリカの○○大学卒業、マッキンゼーなんちゃら」の方が、一言一言を有り難く感じるのと同じです。

そして、映画『セッション』の場合、純粋に映画に感動した方は、批判的な人が「何を不満に感じているか」、理解しにくいかもしれません。

批判的な人が口にする「音楽的な主張がどうたら」「ジャズはこうあるべき」みたいな意見も、意地の悪いこじつけか、鬱陶しいウンチクにしか見えないと思います。

そして、それはその通りかもしれないけれど、一方で「音楽的な訓練を積んできた人間だからこそ分る、物の見方」も存在します。

たとえば、何の素養もない人には、ピアニストのポリーニとリヒテルの違いなんて、全く分らないでしょう。

誰が何を弾いても、ショパンはショパンにしか聞こえないし、ちゃらららららと早いテンポで鍵盤を叩けば「すばらしい超絶技巧だっ!」と無条件に感動する。

そこに権威者のお墨付きや「世界が泣いた」という触れ込みがあれば、ピアニストの技量を疑いもしないと思います。

映画『セッション』も同じで、ドラミングの迫力やラストシーンの和解など、大勢が心揺さぶられるドラマがあるのは疑いようもないけれど、その一方で、プロのジャズミュージシャンが「音楽的に物足りない」といった不満を覚えるのは何故かということも、ちょっと考えてみるといいです。

単純に、派手な演奏や教師と生徒の心の交流の部分だけを見て、「10年に一度の感動音楽大作だ」と決めつけるのは、まだ早いぞ、と。

でないとね。

また第二の佐村河内氏に騙されることになる。

主人公の熱意や和解の部分だけを見て、自身の感動を疑いもせず、一部プロ界隈から上がっている「音楽的な疑問」に対する意見を拒絶してしまったら、第二、第三の佐村河内氏が出てきた時に、インチキみたいな作品に、何万、何十万と、お金を払う羽目になるよ、という意味です。

そういう意味でも、『素養』って、とても大事です。

音楽に限らず、美術、彫刻、建築、華道、服飾、いろんな分野に、いろんなキャッチコピーが溢れてる。

その全てにプロ並みの知識や技術を持つ必要はないけれど、ダ・ヴィンチの絵画とか、ル・コルビジェの建築とか、ココ・シャネルのブラックドレスとか、歴史的な名作とされるものは、どの点において高く評価されているのか、現代においても人を惹きつけてやまないのは何故か。

ボブ・ディランとビリー・ジョエルは、どこが違うのか。(ビリーもいい歌詞を書くんだけどね)

生け花って、どこがどう芸術的なの?

みたいなことを、興味もって調べたり、展覧会に出掛けたり、いろんな世界に触れて、基礎的な知識も仕込むと、物の見方も二倍、三倍に広がっていく。

そうすれば、実際のチャーリー・パーカーの演奏や生き様を引き合いに出して、映画『セッション』に一言言いたくなる人の見方も分ると思います。

もちろん、異議を唱えている人の全てが正しい事を言ってるわけではないし、また「感動した人」の全てが「騙された」という話でもない。

『感動』の対極には、こういう事情通の意見もあるよ、そこにも一つの真実が含まれているよ、という意味です。

どっかの金持ちが、中学生が思いつきで描いた画を「現代絵画の巨匠の代表作」と思い込み(画廊に騙されて)、1億で購入した、というエピソードは、誰もがバカにしますけど、それと似たようなことは、自分の身近でも小規模で起きています。

そういう感動詐欺に騙されないためにも、これだけITが発達して、賛成意見も批評も等しく読める時代なのだから、いろんな物の見方を柔軟に受け入れ、それにプラスして、いろんな素養を仕込めば、もっともっと感じ方、考え方の幅が広がるよ、というお話です☆

関連アイテム

これもクラシックに親しみがないと、ちょっと入りにくいかもしれませんが、音楽はBGM的に楽しめばOKだと思います。ヨーロッパのコスプレ物や、舞台芸術に興味のある人にもおすすめ。

そして、ついに、日本語吹き替え版が出ましたね。これ、方々から要望があったのだと思います。名作なのに、ずいぶん長い間、日本語吹き替え版は無視されてきました。
今、吹き替え版リバイバルブームなので、この企画は嬉しい。

レイ・チャールズ、ジャズに興味がなくても、ジェイミー・フォックスの神がかった演技には圧倒されると思います。
女にだらしない部分が作品に昇華する演出もすごいですよ。

愛人のマージが妊娠を告げると、冷酷に「堕ろせ」と命じるレイ。その怒りをHit the Roadの中で歌いあげる場面。

これが作中で繰り返し語られる「チャーリー・パーカーがシンバルを投げられた」エピソードです。

これも有名なエピソード。中毒でメロメロ状態でスタジオ収録に参加し、『Lover Man』の出だしをミスし、最後はサックスを投げつける。(映画)

それがそのままレコードとして販売され、今も伝説のセッションと語り継がれるものです。
「チャーリー・パーカー ラヴァー・マン セッション」で検索すれば、いろんな情報にヒットしますよ。

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阿月まり

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