自分の好きなことだけ知りたい ~ネットと情報の取捨選択~

先日、「ダイヤモンド・オンライン」というサイトで、香山リカさんのこんな記事を見つけました。

計画したことが達成されるだけの人生をはたして「豊かな人生」と言えるだろうか
http://diamond.jp/articles/-/14696

効率を追求すると必要なことを深く知ることはできるが、決して横に広がらない

自分に役立つものだけで時間が構成されているのは不自然ではないか

というのがこの記事の主旨です。

江戸時代を舞台にした小説などでは、徒歩以外に交通手段がないので、どこに行くにも移動に時間がかかっていることがわかります。ちょっと今日はあそこにでも行ってみようかと計画しようものなら、たいへんな労力を覚悟しなければなりません。

さんざん歩いてようやく着いても、肝心の相手がいないということも珍しくはありません。家人に聞くと旅に出たといいます。メールはおろか電話もない時代では、相手の予定を確認する術はほとんどありません。

おそらく、当時は「空振り」というのが日常茶飯事だったのでしょう。自分が会いたいと思って出かけても相手がいないのが当たり前、計画が思うように達成できなくてもそれを無駄と考えることはなく、腹を立てたりがっかりしたりしている姿も描かれていません。

彼らは潔く諦め、頭を切り替えます。

せっかくここまで来たのだから、帰りにどこかへ寄って行こう。当初の計画にはまったくなかったところに目を向けるのです。そんなときこそ、偶然の出会いや新たな発見があったのではないでしょうか。

インターネットの発展で、知らないことを調べる手段は検索が主流です。

検索では、自分が知りたいことにはほぼ確実に出会えます。しかし、それによって失われたものもあるような気がしてなりません。

私が現在勤務する立教大学では、現在図書館の改革を進めています。たまたま、新しい図書館長に就任される教授とお話しする機会を得ました。

教授によると、その図書館のウリは「部屋にいながらにして蔵書検索ができ、注文しておくと図書館に行けばカウンターに出ている」というシステムだそうです。

話していてわかったのですが、その教授も書店や図書館の魅力は十分に分かっている人でした。自分の目で本を探し、その過程でまったく想像もしていなかった本と偶然出会うことに意味があるという考えを持った方です。

教授は、ピンポイントで効率よく探すシステムに限定するのに躊躇し、従来の開架式の書棚も一部残すといいます。しかし、効率の良いシステムが学生に受け入れられれば、書棚の本を探す人はいなくなるでしょう。

この事例でもわかるように、現代は計画したこと、意識したことを確実に達成できる社会になりつつあると思います。しかし、計画しなかったこと、意識していなかったことから何かを得るチャンスは確実に減っています。

たとえば「オトコ」のことで悩んでいるとしましょう。

「ああ、何かヒントになるようなものがないかしら」と本屋の恋愛本コーナーに行く。

書架を見れば、「彼にもっと愛される100の方法」とか「幸せな恋に出会うための心のレッスン」とか、いろんなタイトルがずらりと並んでる。二、三冊手に取ってみると「なるほど」とは思うけど、私が探してるのはこういうモノじゃない。

で、ふと、横を見ると、村上春樹の新刊がどーんと平積みになっている。「あのオッサンも元気だなぁ」と思いつつ、さらに視線を横に流すと、会社帰りのオジサンがえらく熱心に立ち読みしてる。なになに「ダヴィンチ・コード」。なんじゃそら? と思いながら、オジサンが立ち去った後、自分も手に取ってみると、「イエス・キリストとマグダラのマリアが結婚して、どうたら」とかいう話。なんじゃそら、と思いながら、「そういえば最近、宗教本のコーナーに行ってないな」と思い出し、上のフロアにお散歩。途中、ミュージアムの広告を見かけ、「へえ、面白そう」と開催日と会場を頭にインプットした後、目当てのコーナーに直進。……が、待てよ。あっちの書架に面白うそうなあるぞ。ちょっと寄って行くか──。で、最終的に買って帰ったのは美術ムック『ルネッサンスの巨匠』。自分でも「何でやねん??」。でも、久々に、読み応えのある専門書に出会えたわ、ラッキー♥

本屋さんというのは、そういうもんじゃなかったかと思います。

同じ本屋でも、Amazonは、こういう偶然の出会いに乏しい。もちろん「関連商品」や「ベストセラー」も表示されるけど、自分から進んで「ビジネス・経済」や「実用・スポーツ・ホビー」をクリックすることはない。

旭屋書店や紀伊国屋なら、興味はないにしても、書架の前を通り、タイトルを眺めるぐらいのことはするけれど、Amazonだと視界の先にも引っ掛からないからね。よほどの売れ筋は別として。

最初から欲しいタイトルが決まっているならAmazonは便利だけども、いろんな本を物色する場所ではないし、本屋ほど偶然の良き出会いがあるとも思わない。実際、海外に来てから、本に関する情報はAmazonが主流だけど、毎日のように紀伊国屋をうろついていた頃に比べると、「卒倒するほど素敵な本との出会い」はものの見事になくなった。Amazonのデータベースにはそれこそ何十万だか何百万だかの本の情報があるけども、私の視界にはいっさいに入ってこないのだもの。本屋に行けば、それこそ、何千というタイトルがわっと視界に飛び込んでくるけども──。

ネットもそう。「情報の宝庫」とか言われているけども、一日中TVを付けっぱなしにしていた頃に比べると、接する情報の幅ははるかに狭くなった。一つの事に関する情報は深くなっても、横に広がっていかないのだ。映画なら「映画」、旅行なら「旅行」、その中で情報がグルグル回っている感じ。まれに映画サイトからWiki,Wikiからホームページに流れて、「拾いモノ」に出会うこともあるけれど、確率的にはTVよりはるかに低い。

TVだと、見たい、見たくないにかかわらず、流行の歌が流れ、芸能ニュースが流れ、ナントカいう遺跡の秘密が公開され、飛騨の隠れ秘湯が紹介され、記憶の端に引っ掛かって行く。くだらない情報もたくさんあるかもしれないが、「一方的に浴びせられる」という点で、はるかに情報が多いわけ。コマーシャル一つとっても、あの中で、売り出し中のタレントの顔を知り、流行の服装を知り、人気の入浴剤を知り、映像、デザイン、インテリア、音楽までも、目で見て、耳で聞いて、頭の中にインプットしているわけだから。

私も上手く説明できないんだけども、ネットの情報というのは自分で取捨選択できるが為に、「情報であって情報でない」部分も大きいのではないか。

たとえばポータル・サイトのトップに『おうち女子必見! 冬をあったかく過ごす激カワ家電特集』と『世界が支持する成功方程式! 一日十分のトレーニングであなたも年収1億に』という記事があったら、どっち見ます? 『不況に打ち克つ 経営者への20の提言』と『「ブス発言」に●田○子がキレた! ブログ炎上』という記事があったら、どっちクリックします?

インターネットは、『クリック』して初めて情報の意味を持つ。クリックするのは、もちろん私たち。たいていの場合、興味のないものは文字を拾って読むことさえない。

もちろん、TVもどこにチャンネルを合わすかでずいぶん違ってくるし、本だって手に取らなければ無縁の世界だ。駅前に大きな本屋があっても立ち寄ることさえない人もいる。そういう意味では、ネットの取捨選択も変わらない。

でも、「積極的にアクセスする」という点では、ネットのテキストの方がはるかに吸引力があるし、一度に目に入る情報も、本屋や新聞、TVに比べたら、はるかに少ない。というか、ネットの場合、一点集中なのだ。

たとえばYahooのトップページにアクセスすれば、いろんな記事のタイトルが並んでいるけども、その全てを隅から隅までチェックする人がどれぐらいいるだろう。ニュースの項目は素っ飛ばして、「女子ライフ」のエリアに素早く視線を移動し、それ以外はまったく見ない、他にどんなテキスト・リンクが張ってあったかも覚えてないという人が大半ではないだろうか。

Amazonも同じく。「本」のカテゴリーからアクセスしても、いろんなジャンルのタイトルをくまなくチェックする人はまあないと思う。小説なら「人文」、WEBマーケティングに関する本なら「コンピュータ・IT」、そこに一直線に進んで、ランキング上位の10冊か、お目当ての著者の新刊や関連本をざっと見るぐらい。恋愛エッセーを探しに出かけて掘り出し物の美術書を買って帰ることって、まあ、何年に一回か、というぐらい。Amazonはみんなのレビューも見られるし、中古本も探せるし、すごく便利なんだけど、横に広がらない。いわば同じ砂漠のど真ん中をグルグル回ってる感じで、500メートル先のオアシスの存在に気付きもしないし、他にどんなものがあるのか知る手立てもない。一つの井戸を深く掘るのには向いてるけど、下手すればそこだけになってしまう。意外性や偶然性の面白みに欠けるんだな。

でも、そういう違いは、本屋廻りをとことん楽しんだ人間だからこそ感じるものであって、日常では本屋にも図書館にも行かないし、何が楽しいかも分からないという人には、Amazonの本探しで十分満足してしまうのだろうと思う。

今、ネットでもツールでも『自分仕様にカスタマイズ』が当たり前、好きな記事、興味のあるブログをどんどんクリップして、俺様コレクションが簡単に作れるけども、自分の得意なフィールド、あるいは興味の中だけでグルグル回ってる自分に退屈しないだろうか? 気に入らない主張や興味の無い話しは「全部スルー」で済ませていいのだろうか?

どうもネットをやっていると頭の中まで「1か0か」の二進数になりやすい。いやもう、ネットにおける存在自体が「1か、0か」の両極端。検索エンジンに引っ掛からないものは無いに等しく、また、クリックしなければ、何の価値も始まらない。

自分の「好き」と「関心」で塗り固められた世界を「情報の宝庫」と呼ぶには、あまりに間口が狭すぎるのではないか。

もちろんネット・ユーザーのみながみな二進数思考とは思わないけれど、やればやるほど目の前が狭くなり、いろんな情報を吸収しているつもりが実は排他的になっている、という部分もあるのではないだろうか。

リカ先生の話からずいぶん逸れてしまったけれど、『無駄』や『回り道』というのは、ある意味、この世界の99パーセントを形作る要素であり、「自分の興味あるものだけセレクトする」というのは、残り1%の俺様世界に限定されて生きて行くことに他ならない。

だから本来、「自分の興味あるものしか知らない」あるいは「計画した通りのことしか起こらない」というのは非常に居心地良い反面、かなりの部分で損をしているのだ。

それはAmazonで自分の好きな作家と関連作品だけ見て満足するのに似ている。

隣の書架に目を向ければ、そこにこそ、あなたが本当に探し求める本があるかもしれないのに、Amazonではそれが見えないのだから。

あなたがネットに傾倒するほどに、あなたのフィールドも狭まっていく──というのは言い過ぎにしても、「自分の好きなことだけ知りたい」という動機がどれほど有為な情報をもたらすのか、私はかなりの部分で懐疑的だ。

本当を言うと、多くの人は、自分の好みや興味の中だけでグルグル回ることに、もうすっかり飽きてしまっているのではないだろうか。

こっちの記事も面白かったので、クリップ。


広告代理店の世論操作にはもうだまされない – 純丘 曜彰 (アゴラ)

だが、ネットの時代になって、ウソがつきにくくなった。今、何がはやっているか、なんて、ウェブカメラや検索ランキングでダイレクトにわかってしまう。そもそも、連中が捏造した「東京」や「業界」で何がはやっていようと、いまどき知ったことではない。それでも、やつらは、ネットの中にまで、カネでレヴューブロガーを雇って口コミを捏造したり、エージェントに掲示版のコメントを監視させ、ソックパペット(靴下人形)で大量の発言を捏造し、あたかも批判は少数派にすぎないかのように世論操作を続けてきた。こうして、韓流だ、『1Q86』だ、AKBだ、と、いまだに残るM2やF3あたりの情弱連中から搾り取れるだけ搾り取っていた。

だが、もう終わりだ。あんたらの馬脚が見えてしまった。結局、原発問題も、韓流問題も、AKBも、根は同じ。円高と株安、民主党代表戦で大騒ぎの昨年8月25日、NHKのニュースのトップで、ほとんど日本では無名の韓国のシンガーグループ「少女時代」の来日で5分間もはしゃがせ、「KARA」の辞める辞めないで、その後のワイドショーにのさばったものの、今年、7月14日のTBSの『チャン・グンソクSP』の視聴率は、ゴールデンタイムにもかかわらず、結局、わずかに3.9%。

いまの国民はバカじゃない。こういうバンドワゴン型世論操作は、やればやるほど強い反発を買う。そんな当たり前のことが、連中には、なぜいまだにわからないのだろうか。テレビのCMや新聞雑誌の広告なんかに莫大な無駄ガネを使っている企業の商品に、ロクなものがないのは、もはや周知の事実。

同じような世論操作で国民を騙してきたソ連の一党独裁が崩壊して、すでに二十数年。この場に及んでなお、ヤラセだの、シコミだの、サクラだの、典型的な詐欺商法をやっていて、人間として恥ずかしくないのか。

スポンサーも、そんな時代遅れのイカサマ野郎たちに自社の宣伝なんか任せていると、カネばかり巻き上げられ、もっと反発を買って、さらに商品が売れなくなるぞ。