幸せを相手に依存する

この世には、いろんなメッセージが溢れています。

自分の気持ちに添うもの、取り入れたくないもの、怪しいもの、胸を打つもの・・・本当にいろいろです。

そして、どれを真実のメッセージとして取り込むかはまさに自分次第で、メッセージ自体の良し悪しはさほど問題ではないような気がします。

私も一つの問題に対して、いろんな人からたくさんの意見を聞きました。様々な本や雑誌やインターネット等にも目を通しました。

しかし、どれも本当、どれも真実という気がして、考えるほど、どれが正しいのか分からなくなってきます。

よく「運が悪い」という言葉を聞きますが、本当はこの世に「運」などというものは存在しないような気がします。

もし「運が悪い」と思うような状況にあるなら、それは、誤ったメッセージを取り込み、誤った方向に突っ走ってしまったからでしょう。

いつでも確実な方向に進めば、大きな間違いは起きません。

自分の判断ミスを「運」のせいにする限り、誤ったものを正すことはできないでしょうね。

人生は、決断と行為の連続です。

幸運な生き方をしたければ、自分の感性のアンテナをしっかり磨き、良いメッセージを取り込んで、良い方向に歩んでいけるよう、判断力を高めることではないでしょうか。

■□■ 依存 ■□■

「依存」なんてしてない――

と思っていても、人は何かに依存しているものです。

そして、それに気付くことなく、いつの間にか、自分の心や行動を自分自身で縛り付けているのが「依存」の恐ろしいところですね。

一口に「依存」といっても、麻薬やアルコールのような危険なものから、携帯やネットといった身近なものまで、いろんな「依存」があります。

一見、麻薬やアルコールの方が恐ろしい気がしますが、私はむしろ日常に存在する依存の方が深刻に思います。麻薬やアルコールなら周囲も気付くし、治療法もあるし、病気として認知できますが、携帯やネット、恋愛、買い物、子供、社会運動といった、日常的なものに対する依存は、本人も周囲も気付かないどころか、「依存」として認知されることがなく、自覚した頃には相当深刻な状態に陥っているからです。

それ無しには、一人で立っていられないような気持ち。

それ無しには、心の平安が得られないような状態。

朝から晩まで、その事で頭がいっぱいで、それを中心に生活や人生が回っているような、自分不在の日々。

対象が何であれ、人は知らない間に何かに依存し、何かにすがって生きているもの。

自分ではそんな事はない、と思っていても、冷静に考えてみれば、やっぱりそれに依存している。それ中心に全てが回っていて、それ無しに一人で立てなくなっている。

気が付けば、携帯を見つめ、気が付けば、メールチェックに走り、応答が無ければ、自分は世界中から見捨てられたような気持ちになるのは、立派な依存だし、「彼と別れる」「買い物を止める」という事を想像しただけで恐ろしくなり、それから離れると、とたんに心が落ち着かなくなるのは、やっぱり依存の一つですよね。

だけど、何かに依存して、そこから心の平安を得ようとする気持ち、よく分かります。

人間は弱い。

どこかに自分の拠り所を確保したいと思う。

どんな時も、一人でしっかり立っていられる人など、そうそう無いと思います。

けれど、喜びや安心を与える為のツールが一転して依存の対象になると、あっという間に自分を見失ってしまいます。

依存の怖い所は、手放そうにも手放せなくなって、自分はもちろん、他人も巻き込んで、がんじがらめになっていくところでしょう。

本当は、それ無しにも、ちゃんと生きていけるのに。

自転車の練習を想像してみてください。

後ろから誰かが自転車を補助してくれている。

補助がある限り、転けて傷つくことはない。

私たちはそう信じて、必死でペダルをこぎ続けます。

そうして、ふと気付いたら、補助の手はとっくに放れているのに、ちゃんと自分一人で自転車を漕いでいる。

その時、はじめて、自分の力を信じることができます。

だけど、補助の手に依存していると、いつまでたっても自分の力で自転車を漕ぐ事はできないし、補助する人だって疲れてしまいます。

手が離れても、一人で自転車に乗れるはずなのに、恐ろしくて、それが出来なくなってしまうんですね。

そして、いつの間にか、自分を信じることも、相手を自由にすることも忘れて、後ろを見ながらしか走れなくなってしまう――
依存もこれと同じような気がします。

常に補助の手があるかどうか確認しながらでないと身動きとれない、そんな状態になってしまったら、「自転車に乗る」という目的は二の次になって、「自分を補助してくれている」という事実が第一になってしまいませんか。

そんな中で、自転車に乗る楽しさや、補助する喜びを、どうして感じられるでしょう。

ある所まで来たら、もう補助無しに前に進まなくてはならない。

淋しいけれど、それが定めだと思います。

だけど、補助してもらった喜びが染みつくと、いつまでもそれが手放せなくなるんですね。

もし、そんな風に感じる部分があれば、勇気を出して、補助の手から離れてみて下さい。

転んでも、傷ついてもいいから、一人で漕ぎだしてみてください。

そうすれば、案外、楽に前に進めるものです。

もう補助はしてもらえないかもしれないけれど、少なくとも、自分に対する本物の自信が蘇ってくるのではないでしょうか。

いつも後ろばかり向いて、補助の手があるかどうか確認しながら自転車に乗っていた時よりずっと、さわやかな気持ちになれると思いますよ。

それに、補助する人も、ずっとあなたの走りを見ていてくれるかもしれない。

補助の手は離しても、心はあなたを支えているかもしれない。

ならば、あなたが転んだ時、きっとまた手を差し伸べてくれるはず。

不安げに自転車に縛り付けておくより、ずっと素敵だと思いませんか。

人は孤独を恐れるし、喪失する度に深い傷を負うものです。

だけど、補助の手は決して一つではないし、前に進めば進んだだけ、また新しい力が身に付くもの。

何かに必死にしがみついて、自分を失ってしまうと、その時々は安心するかもしれませんが、ペダルは空回りして、疲れるばかりです。

それよりは、思い切って、補助の手から放れて、自然な風の中に飛び出してみませんか。

勇気をもって何かを断ち切るのも、幸せになる為に必要な事です。

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