音楽

子供の声は妬ましき『幸福の象徴』

2014年10月4日

以前、私の知り合いの女性がこんな事を言ってました。

「上の女の子、チョーうるさい。父親が帰ってきた途端(アパートの生活音、筒抜け)、ドンドン、ダンダン、飛び跳ねて、あれ何とかならんの??」

「そりゃー、お父さんが帰ってきたら嬉しいから、女の子も飛び跳ねるでしょ」

と他の子が言うと、

「そんなことはない。あれは絶対に母親のしつけがなってない。うるさい。ムカつく」

そんな人でも子供が出来ると途端に考え方が寛容になるものです。(というか、制御不能の現実を思い知る)

*

ある意味、『子供の声』って、幸福の象徴ですよね。

男と女が恋をして、結婚して、一戸の住まいを構えて、子宝に恵まれ、温かい鍋でもつつきながら、オホホ、アハハと微笑み、支え合いながら、ささやかな幸せを味わう。

その光景は、たとえ奥底に「我慢」「諦め」「秘めた怒り」「欲求不満」等々があっても、外から眺める限りは完成された構図でしょう。

やはり人と産まれたからには、誰かと愛し合い、安定した暮らしに恵まれ、子供も育てて温かい人生を送りたい、という願いを多くの人が持っている。

だけど、今の時代を見渡せば、働いても働いても十数万しか稼げない、職場では低く見られ、数年先の見通しも立たず、結婚なんて夢のまた夢、恋人だってできない人、たくさんいらっしゃると思います。

特に成績が悪いわけでもなければ、ずっと不良で過ごしてきたわけでもない、二十年前なら普通に就職して、普通に安定した人生を歩めた人がどんどん取りこぼれて、若い男性でさえ生きるか死ぬかのところまで追い込まれている。

そんなギリギリの生活で、夢も希望も持てない精神状態で、他人の幸せを見せつけられたら、惨めになるし、妬みもする。イライラすれば殺意にも至るでしょう。

「子供の声がカンに障る」のは、物理的・生理的にウルサイのもありますが、『妬ましい』というのも往々にしてあるような気がします。

お前らの幸せを見せつけるな。オレらは今日を生きるのも精一杯なんだぞ、って。

*

社会にも、人の心にも、まったく余裕がない。

余裕を持ちたくても、自分一人を支えるだけで精一杯。

そこに公共心とか寛容とか理解とか求めるのも、ある一面では酷だろうし、それならもっともっと社会全体をボトムアップして、人が精神的にも金銭的にも追い込まれないような状況に持っていくのが本当に急務だと思います。

私も覚えがあるんだけども、人間、日銭のことで頭がいっぱいになったら(強欲という意味ではなく生活不安)、尋常でない精神状態になるし、社会的にも精神的にも自分が惨めで惨めでたまらなくなる。

そんな時に「幸福な一家」の姿を見せつけられると、いっそう傷口に塩を塗られるし、自分だけが社会の出来損ないみたいに感じて、卑屈にもなります。

もちろん、そこでスランプ脱出に前向きに生きて行くか、とことん落ちて行くかの違いはありますが、多くの人間は大なり小なりコンプレックスや負い目を感じて生きています。

そういう理由や心理に思い巡らすのも、この世を無事に生きて行く一つの術だと思います。

*

ところで、梶原一騎の名作漫画 『愛と誠』に、こんなエピソードがあります。

愛ちゃんと誠さんは、「悪の花園」と呼ばれる不良の吹きだまりのような高校に転校します。

そこには投げナイフの使い手である「影の大番長」を筆頭に、人殺しも厭わないようなスケバングループが幅を利かせていて、教師も自分の身を守るのに精一杯、授業も学校生活もメチャクチャな状態にありました。

そこにブルジョア令嬢である愛ちゃんのボディガードとして天地大介という若い体育教師が赴任してきます。
天地先生はスポーツ万能で、森田健作を絵に描いたような溌剌とした好青年。
「僕はスポーツを通して不良たちを叩き直してみせるっ!」と、悪の花園に乗り込んできます。

そして、その言葉通り、不良たちの威嚇をものともせず、自信満々で体育を指導します。

そんな天地先生に尊敬の念を抱きながらも、愛ちゃんはこんな風に懸念します。

『天地先生は太陽のように明るい。けれど、ずっと地中にいたモグラは、太陽の光を目にするとあまりの眩しさに敵とみなしてしまう。その明るさが仇にならなければいいけれど』

その悪い予感は的中し、天地先生は投げナイフの餌食になって、ついに狂ってしまう・・というオチです。

*

子供の笑顔、笑い声、時には泣き声さえも、親にとっては嬉しいものだし、社会にとっても希望の光です。

けれど、一方で、受け止める側の精神状態によっては、妬み、憎しみ、破壊の対象となる。

眩しいからこそ、敵意を持つのです。

これが人間のもう一つの心理です。

自分では可愛いと思っている子供の笑顔や笑い声が、一方では、他人を苛立たせ、憎しみすら掻き立てる。

それはモラル云々の問題じゃない。

人間の心というのは、そういう風に出来ていて、誰もが鬼や悪魔になり得る可能性がある、という話です。

正論で諭して変えられるものでもありません。

あなたが子供を連れて歩いているだけで、それは妬みや苛立ちの対象となるかもしれない。

それについて、人の心理をどうこう操作できるものではない。

ただ、親として出来ることはただ一つ。

周りを刺激しないこと。

刺激したと分かったら、即座に謝ることです。

たとえ自分が間違ってなくても素直に頭を下げる。

それだけで人の怒りは緩和できます。

それを無寛容だ、無慈悲だと騒いでも、その時その時の他人の感情までコントロールすることは出来ません。

「なによ、このオッサン、子連れなんだから仕方ねーだろ」と言いたい時でも、とりあえずその場は謝って、相手の怒りを宥める方がうんと重要。

それは「母親の権利」とか「社会の寛容」云々の問題じゃなくて、とっさの処世術です。

そこで舌打ちすれば、あなたも子供も憎まれるだけ。

自分の悔しさやプライドと、子供の安全と、どっちが大事と問われたら、後者に決まってるでしょ。

社会に寛容さを求めるなら、別の場所で主張すればいいだけのこと。

子供を守るためにその場で頭を下げるぐらい、一瞬で済むでしょ? 相手はどうせ名前も知らない通りすがりの他人なのだし。

*

自分にとっては我が子の可愛い笑顔も、笑い声も、受け止める人によっては怒りや苛立ちの対象になる。

安全面からも、それを常に意識することです。

建前、「社会は子供に寛容であるべき」だけども、人間の心理はそんな甘いものじゃない。

社会のスローガンで人間の感情を良い方にコントロールできるなら、警察も病院もいりません。

理不尽に感じても、悔しくても、とりあえず、その場では「すみません」と頭を下げておきましょう。

舌打ちしたオジサンも、布団に入る頃には「大人げなかったな」と反省するかもしれません。

子供を他人の怒りや妬みから守るためなら、謝るぐらい訳ないはずです。

それは社会に対して理解を求めることと、まったく別の処世術だと思っています。

You Might Also Like