書籍と絵画

寺山修司の『時速100キロの人生相談』~高校生の悩みに芸術的回答~

2012年1月28日

故・寺山修司さんが当時の高校生向けの雑誌に連載していた人生相談集より。
当たり前のことを当たり前のように書かず、斜め横から真実を突き刺すような喩えが素晴らしい。
「エスプリ」とはまさにこのことであると感嘆せずにいない。
現代、このような回答ができる大人が不在であることは、社会的損失とさえ思う。
知恵と真実、そして人間への愛がいっぱい詰まった、芸術的回答である。


20数年前、気鋭の詩人・劇作家が受験雑誌「高3コース」を舞台に〈ジ・アザー・ハイスクール〉を開講し、高校生との激論を交わしていた。この本は寺山修司から、いま高校生のきみと連載当時高校生だったあなたへの、エキサイティングな贈りものである。

寺山修司が今の世にないこと

2012年1月28日:追記

この人が生きていたら・・この人さえ生きていたら──と、しょっちゅう思う。

おそらく、今、私が知りたいことに明答してくれる世界でたった一人の人で、「文学の力」を実証してくれる数少ない一人だから。

だけど、今の世は、もう寺山さんには合わないような気もする。「書を捨てよ、町へ出よう」も「家出のすすめ」も、今の若い人には届きにくいだろうし、ブログ論壇だの、炎上だの、この人の世界観とは正反対の側にあるような気がするしね。

そう考えると、47歳の若さで逝去されたのも、神様の思いやりかな、なんて思ったりもする。

私も、ネットの記事や掲示板なんかで、こてんぱんに言いがかりつけてる人のことなど見たくないもの。

こういう本が再版もされず、中古のマーケットだけでクルクル回ってるのが悲しい。

もっとも大手を振って表に出たところで、どれぐらいの人が理解できるかは分からないけども。

§ 寺山修司から高校生へ

真実も地獄もいっぱいあるさ

神はぼくらの幻想が作り出す存在で、何体あってもいいのではないか、と思う。「正しい」なんてことは相対的で、毎日変わる。それをきめる尺度は道徳にも法律にも無い。そんなものを探すのも遊びの一つかもしれないけど、そんなに楽しくないのではなかろうか。

ぼくは、真実が一杯あって、地獄も限りなくあるところに現代人の苦悩があるのだと思う。

何が正義で何が悪かがはっきりわかっていればカンタンだが、悪の中にも正の中にも真実は限りなくあり、その概念は入り乱れて、ぼくの正が君の悪だったりするところが面白いのではないか。

生が終われば死も終わる

山口由美子さんは「生と死は比べられない」と書いている。
『死は生の次の世界』だというわけだ。

だが、「死は生の次の世界」ではない。
死は、生きている人間の中のイメージでしかないのである。

他人の死は「物体」であり「数」である。
だけど自分の死は決して手で触ることはできない。
生が終われば、いっしょに死も終わるのである。

淵上毛銭が書いている。

じつは大きな声では言えないが
過去の長さと未来の長さとは
同じなんだ

死んでごらん
よくわかるから

幸福はもっと、たけだけしいものだ

現代人が欲しいのは「幸福」そのものではなく、「幸福論」であり、だれもが幸福とはいったい何であろうかということを捜しているのです。ルナアルは、「幸福とは幸福を捜すことである」といっています。
「規則なり約束なりを守り、それをもとにして人の為に何か役立つ」というのはキレイゴトであり、管理され飼育される小市民的な発想のような気がする。

幸福とは、もっとたけだけしいものだ、と僕は思いたい。
幸福とは、何かを守ることではなく、新しい価値を創造することです。

地獄を肉眼でとらえなさい

知識人の特色は「孤立した個人の内部へ、かぎりなく退行してゆくことだ」、とドイツの詩人エンツェンス・ベルガーは書いています。
あなたの、この散文詩も、きれいな文書で書いているが、ぼくには「きれいごと」にしか感じられない。
出会いもなければ、出会いへの幻滅もない。
これでは、ただの独白です。

ぼくは、滅びたいと思うものは形を持つべきだと思います。
形のないものは、滅びることなどできないのだから。

世界は今、神の不在によって満たされています。
あなたは一度地獄を肉眼で見て、そのことについて書いてみてはどうですか。

書く前に走れ!

きみは、この日記を書く前に100メートルを全速力で走るべきだった。
僕は、「生きる」などということを10行ぐらいで書いて悩むような軽薄さを好まない。

小説の価値は作者の実生活と無関係

ぼくは、小説の中で提起した問題を、実生活でも反復することが「作家の良心」だとは思っていません。
小説は「悲惨な老人」を書き、「問題を投げかけることができて」も、その解決を、作者自身の責任において実践すべきことだとは思っていません。
もし「本を売るために」、一時的に老人問題に熱中したとしても、それは何もしない人よりは、社会的に有益だということになるのです。

だが、小説は所詮、小説です。
有吉佐和子さんが、その印税の億というお金を、ポンと老人救済に投げ出した「美談」も、小説とは別のこととして論じられるべきで、そのことで小説の価値が変わったりするものではないのです。
あなたは、できあがった社会の偽善性に腹を立てているわけですが、その腹の立て方は「感想」にとどまるものであって、何ら創造的でも破壊的でもない。
小説家は、世界を半分しか書くことができず、後の半分は読者が書くということは、あなた自身の読書にも向けられるのだということを考えてみてください。

「女」がくだらないのではなく、あなたの「女」に対する固定化した考えがくだらないのです。

老人のうた(高校生の投稿作品)

光の中に顔をうずめ
老人がうつむいている

もう 何十年も前から
動かない石のようにすわっている

きみは想像したことがあるか
五十年後の世界を

動かない石のようにすわっている」などとは、何と非現実的で、人生にたかをくくった表現だろう。
恐ろしいことは、肉体の年よりも、精神が老衰してしまうことです。
この詩を書くときのあなたは、まさに、「動かない石のようにすわっている」のです。

君には、だれかが作った概念がいっぱい詰まっていて、きみ自身の肉声がない。
肉声を軽蔑するものは、軽蔑すべき肉声しか持つことができない。

怒るなら、もっとでっかく怒ることです。

むかし、畠山みどりが歌っていたよ。

あんた この世へ何しに来たの
女ばっかり追いかけず
なって頂戴 大物に

想像力で人生を変えなさい

きみは被害妄想ではありませんか。

ぼくの高校時代の友人には、自殺や病気で、ある日突然、教室から姿を消してしまった者が数人いました。それと比べたら、自分のせいで一年落第したことなど、大げさにいうほどのことでもないし、まして同情する気など全く起こらないのです。

「人生は一度しかない」と、昔の道徳家たちは教えましたが、考えてみれば、人生にはやり直しのきくことが無数にあるものです。高校生活をやり直したければ、もう一度、どこかの高校に入学すればいい。女を抱きたければ、街へ出て次々と女を口説けばいい。失敗したって、そんなことは少しも恥ずかしいことではないのです。

きみは「ただ年を取る」ことと、「人生」とを勘違いしている。
人生は、自分の想像力一つでどうにでも組み立てることができるものだと、ぼくは思っています。

わずか一行の思想でも責任は本人が負うべき

わずか一行の詩にも、書き手の思想はあるのです。
だとしたら、その思想についての責任を「匿名のだれか」ではなく「本名の実在者」が負う、というのは当然ではないでしょうか。
この一文は、ぼくが阪田公子さんにあてた返事であり、「私たち子供」といった観念的な集団にあてたものではないのです。
だからこそ本名で、本気のことをいってきてほしいのです。

ぼくの「書を捨てよ、町へ出よう」という言葉は、「書を読むな」ではなく、「書を捨てよ」であることに留意しておく必要があります。
これは、「知識」の超克であって、「なま」であることを知識に先行させようというものではないことです。そして、こうしたフレーズ自体が、書物として書かれているという事実も前提として考えなければなりません。
ぼくは、知識を軽蔑しているのではなく、知識による支配を否定しようとしているのです。

それにしても、きみに限らず、だれもかれもが臆病すぎる。
カシアス・クレイは、フレイザーと戦う前に、「あなたはどれくらい強いですか」などと手紙を書くだろうか。

歴史には目的がない。もちろん、人生も目的なんかありません。
それを作り出してゆくのが、日々の営みだといえるでしょう。
価値観は、経験のあとで付け加えられるものです。生きたいように生きるのがいいのであって、それをことさらに「虫けらのごとく」などと卑下するのも無用のことだと思います。
ぼく個人についていえば、ぼくはいつも病気に取りつかれています。
それは、「人類が最後にかかる希望という名の病気」です。

人間は進歩するのではなく、変化するのです。
「発展」とか「進歩」とかいうのは、幻想にすぎない。

もし、ぼくにシッポがついていたとすれば、シッポの文化、シッポの表現があったに違いない。シッポがなくなったから、進歩したなどというのは、先走りの近代主義者の独断だ、と僕は思っている。

きみは「過去の未熟な時期の思想の責任はとれない」というが、その「未熟な思想」によって世界戦争が引き起こされ、数百万人が死んだとしても、「いま、成長を遂げてその思想を否定している」などと開き直っていられると思いますか?
思想は、表現されたときから、一つの生物である。
そして生物は、名づけられ、そのレゾン・デートルを持つのは当然のことなのであり、甘ったれは許されない。
五歳の子供にでも、ものをいう権利と、その社会性はあるのです。

家出と旅は別のものだよ

家出とは、文字通り「家」を出ることであり、旅と混同されるようなものではありません。悪い意味での家出とか、よいい身での家出とかいった区別もありません。そのことは「家」という幻想の形骸を撃つ行為です。
何よりも、実践です。
「一般的概念しかもってないオレ」などと甘えてはいけない。
一般的概念を越える時に、初めてあなたが、あなた自身になれるのです。

生きるだけなら、誰にでもできます。
雑草はハエでも、生きているのです。
問題は、そのための方法なのです。

自分の心象が暗い時には、世の中も暗く見えて、センチメンタルになりがちですが、そうしたときには、体操でもやって、身体を鍛えて気分を変えてください。

君の詩は、人生に甘えすぎだし、感傷的すぎて、いい「方法」だとはいえません。しかも三年前の「入試で悩んでいたころ」の詩を、今でも大切にしているなんて、感心できません。

「悩んでいたころ」のことなど、きっぱり忘れてしまうべきです。
いい女友達でも捜して、人生を楽しく、別の詩を書いてください。
詩は毎日書くくらいのエネルギーが必要です。
「三年前のものなど、三才下のやつにまかせておけ」と、僕は言いたい。

なれなれしい口をきくが、どうも「平凡パンチ」あたりの読みすぎではないだろうか。
「女の略奪法」を男から教わろうというような了見では、とても女の子にもてるはずがないように思われる。
誰だって、敵に塩を送るようなことはしたくないのである。
上手い方法があれば、それを使って、ぼくは僕自身のために女の子を略奪することを考えるに決まっている。
もし、君がホントに女の子にもてたいと思ったら、他人の仕事の感想をいったり、人を当てにしたりすることをやめて、自分の方法を見つけることだ。

カミユがいってるよ、
「思想を持たない者は、せいぜい方法ぐらいは自分で持つことだ」と。

投稿を軽蔑するものは、軽蔑すべき投稿しかすることができない。
そして女の子を軽蔑する者は、軽蔑すべき女の子しか手に入れることができない。

もう一度きみは冷たい水で顔でも洗って出直してきなさい!

家出について

少年少女たちが都会に憧れて家出してゆくとき、それに対する「両親、兄弟、姉妹の悲しみを考えたことがありますか!」とあなたは言っています。
だが、一人の少年(少女でも同じだが)が、自分の人生設計を立て、家を出て一人で自活しようと思い立つことが、どうして『悲しみ』なのでしょうか。
それが門出であるならば、むしろ励まして、「ガンバレよ」と声の一つもかけてやるのが、ほんとの愛情ではないでしょうか。
感傷的に、いつまでも「両親、兄弟、姉妹」が一緒に暮らしていることだけが幸福だと考えているとしたら、それは全く無力だとしか思われません。
ぼくたちはカタツムリではないのであり、いつも「家」を背負って歩くわけにはいかないのです。
新しい出会いを求めてゆく中にこそ、ほんとの思想生成の機会が見出せるのです。
家出を勧めることが「若者を食い物にする」ことだとほんとに思っているとしたら、あなたは「食われないように」家の中に隠れていればいいでしょう。
ほんとのオオカミは街頭にいるのではなく、怠惰と現状維持の心の中にこそ隠れているのです。

人間にとって生き甲斐は「出会い」です。

新しい言葉、新しい事物、新しい人間との「出会い」が、自分の存在を確かめてくれるのです。
それなのに、初めから人間を薄っぺらなものと決め付けて、孤立した内部へ退行し、閉じこもろうとするのは、病気としかいいようがありません。
一度、医者にみてもらってください。

友情を軽蔑するものは、軽蔑すべき友情しかもつことができない

初稿:2000年秋

書籍のキャプチャ

寺山修司

寺山修司 『時速100キロの人生相談』

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寺山修司 『時速100キロの人生相談』

寺山修司 『時速100キロの人生相談』

§ 寺山修司のおすすめ本

文学・音楽・歌謡曲など、寺山の心を打った名言や名台詞をピックアップ。
説教くさい、堅苦しいものでなく、人の心の淋しさや人生の奥深さを謳った言葉が集められている。
手軽に読める一冊。

「あなたにとって幸福とは何ですか?」という問いかけに、大勢の人々が「昼寝」や「テレビをみること」、「美味しいものを食べること」と答えているのを見たならば、あなたはそれをどう感じるだろう。
“私たちの時代に失なわれてしまっているのは「幸福」ではなくて、「幸福論」である”と記す著者が、古今東西の「幸福論」に鋭いメスを入れ、イマジネーションを駆使して考察した新たなる「幸福論」。

「おまえは走っている汽車のなかで生まれたから、出生地があいまいなのだ」。一所不住の思想に取り憑かれた著者は、やがて母のこの冗談めいた一言に執着するようになる。酒飲みの警察官の父と私生児の母との間に生まれて以来、家を出、新宿の酒場を学校として過ごした青春時代を表現力豊かに描く。虚実ないまぜのユニークな自叙伝。

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