映画『セブン』と「七つの大罪」 主演:ブラッド・ピット&モーガン・フリーマン

映画『セブン』モーガン・フリーマン&ブラッド・ピッド


4週連続で全米興行成績1位に輝いた大ヒット映画であり、IMDBでは「第三の男」、「シャイニング」を上回る評価を得たデヴィッド・フィンチャー監督による『セブン』。

コマーシャルでは異様な殺人の場面ばかりがクローズアップされていたので、映画全編を見る迄は、猟奇殺人をテーマにした流血サスペンスの類だと思っていました。

しかし、容疑者のジョン・ドウが「最後の殺人現場に案内する」と刑事二人を連れ出し、車の中で説教する場面を見て、考えが180度変わったものです。

キリスト教における七つの大罪――「大食」「強欲」「怠惰」「色情」「高慢」「嫉妬」「憤怒」――に基づいて、次々に繰り広げられる連続殺人事件。

「お前はなぜそんなことをするのか?」というモーガン・フリーマンの問いかけに対し、

「私は、神を忘れた現代人に、神を思い起こさせる為にやった。私は選ばれた人間なのだ」

と答えるジョン・ドウ。

彼の動機は、小説『罪と罰』のラスコーリニコフの「天才はこの世の法則を超えて、無益な人間を殺すことさえ許される、特別な権利を持つ」という超利己主義を想起させ、それはまた、自己の世界に閉じこもった現代人の偏った正義感と根拠のない万能感を連想させます。

ジョン・ドウの理屈は一見、もっともらしく聞こえますが、そこには恐るべき自己中心性が秘められており、「彼の裁き」とは『神の愛』から程遠い、身勝手な思いつきに過ぎません。

にもかかわらず、それを「正義」と定めて、次々に人を殺めていく異常性。

周囲との関わりを断ち、孤立した中で自己肥大すると、他人に対する感覚が薄れ、ついにはその痛みも厭わなくなるという側面を『セブン』は描いているような気がします。

また、残虐な写真や拷問器具、社会への不満や怒りを綴ったノートに埋もれたジョン・ドウの部屋は、外界から完全に隔絶された「趣味の部屋」のようにも見えます。

庶民が平凡に暮らすアパートの一角にこのような不気味な部屋が存在し、またその中で恐るべき殺人計画を推し進める犯人が、これまた誰に意識されることなく暮らしていた――という点も、現代社会の無関心を象徴しているように感じます。

この作品は、モーガン・フリーマンという俳優を世に知らしめ、ブラッド・ピットとギネス・パルトローを結び合わせた話題作でもあります。
夫婦役を演じた二人は、現実生活でも婚約まで発展しましたが、ギネスが由緒あるお嬢様だったことと、そうした感覚にブラッドが付いて行けなかったとかで、結局、破談になってしまいました。
「あの天下のブラッドを振った」ということで、女優としても女としても、ギネスが名を挙げたのは言うまでもありません。
この後、あのジェームズ・キャメロンから「タイタニック」出演のオファーがあったそうですが、それも蹴ったということで、ますますお株が上がった……というエピソードもあります。

流血シーンが苦手な人にはすすめられませんが、私は示唆に富んだ非常に面白い映画だと思います。

Seven Trailer
/video/seven.flv

§ メールマガジン 『eclipse』より

三年前、スマッシュ・ヒットをはなったブラッド・ピット主演の映画『セブン』をご存知だろうか。

若き鬼才、デビッド・フィンチャーが監督したこの映画は、猟奇的な殺人の場面が話題となり、主演ブラッド・ピットの魅力とベテラン黒人俳優モーガン・フリーマンの深みのある演技力が相成って、高い興行成績をあげた。
もっとも観客の反応は好悪二つに分かれたが、評価はおおむね良好、私にとっても印象深い映画の一つとなった。

だが、『セブン』の特異性を決定付けたのは、やはり猟奇的殺人を通して説教する異常人格者、ジョン・ドウというキャラクターだろう。

ジョン・ドウは、大食いの肥満男や強欲な悪徳弁護士、性病もちの娼婦や高慢な美人モデルらを次々に殺害することで、キリスト教における『七つの大罪』──大食・強欲・怠惰・高慢・肉欲・憤怒・嫉妬── を戒める。

ジョンは、ブラッド・ピット演じる若い刑事に言う。

「人に物を教えるには、今の時代、ちょっと肩を叩いたぐらいではダメだ。ハンマーで殴りつけなきゃならない。そうすれば、人は本気で話を聞く」

ジョンに言わせれば、彼は神に選ばれた特別な人間であり、罪人に罪を贖わせるのが仕事だという。

たとえば、大食いの肥満男は椅子にくくり付け、死ぬまでパスタを食べさせる。すると肥満男は、嘔吐し、窒息し、発狂しそうな苦悶の中ではじめて神の名を呼び、大食の罪を自覚するというわけだ。

若い刑事は、そんなジョンに対し、
「お前なんか神の使いでもなんでもない。誰もお前の説教など聞きはしない。お前の犯罪など、せいぜいワイドショーのネタだ」と嘲笑う。

しかし、彼も最後はジョンの術中にはまり、ジョンに妻を殺された『憤怒』の中で神の名を呼び、ついにはジョンを銃殺してしまう。

ジョン・ドウを追い、『七つの大罪』の完遂を阻止しようと張り切っていた熱血刑事は、皮肉にも自らの手で、ジョン・ドウのもくろむ『七つの大罪』を完成してしまうのだ。

『コワい』という映画のキャッチコピーに、血まみれスプラッタや派手な銃撃戦を期待して観に行った人には、やや期待はずれの感があったようだが、この映画の本当の怖さは、猟奇的な演出や分刻みのアクションではなく、現代人の渇ききった心の隙──日常に存在する誰もが犯し得る罪と、神なき時代の描き方にあったような気がする。

もっとも印象的だったのは、ベッドに括り付けられた性病もちの娼婦が、男性客の身につけたナイフ状の性器に貫かれ、惨殺されるエピソードだ。

もちろん、この男性客は、ジョン・ドウに銃を頭に突きつけられ、やむなく死の性交に及んだのだが、彼は取調べの最中、「神様!ああ、神様! お願いです、助けてください!」と絶叫する。

ジョン・ドウの説教は極めて異常なやり方だが、不潔な売春宿で肉欲の限りをつくそうとした男に、確かに神を思い起こさせたのだ。

「罪なき人々を、お前は殺した」と詰る若い刑事に、ジョン・ドウは言う。

「罪が無いだって?あの太った男は、一人でろくに立つ事も出来ず、人がその姿を見れば嘲笑い、食欲も消えうせるだろう。あの強欲な弁護士を殺害した事については、感謝してもらいたいほどだ。あの弁護士は、自分の名誉のために、どれほど多くの人殺しを無罪にしてきたことか。それにあの売春婦は町じゅうに性病をばらまいてきた。──こんな腐った世の中で、罪が無いなんて平気で言える奴の気が知れない。平凡な人間の、平凡な日常における大きな罪が、それが誰にでもあるという、ありふれた理由から、見逃されている。しかし、もう許さない。私が手本を示した。私がやったことを人は考え、意味を知り、それに従うだろう。永遠に」

殺されても仕方のないような罪人は、殺したところで罪にはならない。むしろ、この世から抹殺されて然るべき、というジョンの論法でゆけば、誰でも自分の正義で人を裁き、抹殺する権利があるし、罪も罰も相対的なものになってしまう。

もっと身近な例で言い換えれば、自分をいじめる人間は、殴ろうが殺そうが、その本人に罪があるのだから、何をやっても構わない、ということだ。だが、それは余りに利己的なリクツではなかろうか。

昔から、社会が法を定め、人が神なるものを求めるのは、絶対的な規範でもって人を律する為である。
個々が自由の名のもとに、めいめいの正義を振りかざし、好き勝手すれば、世の中はめちゃくちゃになる。
ジョン・ドウの殺人も正当化される。
相手が、たとえ第一級の悪人であっても、人を殺してはならない。
それが厳然たる、この世の掟である。

にもかかわらず、ジョン・ドウのセリフが不思議な説得力をもち、正義感あふれる若い刑事にも、人生の酸いも甘いも知り尽くしたベテラン刑事にも、完全否定できないところに、この作品の妙がある。

『セブン』という映画をひと言で表せば、『後味が悪い』。なぜなら、大悪党であるはずのジョンが、裁かれることもなければ、報いを受けることもなく、最後は若い刑事の憤怒の罪によって七つの大罪が完成されてしまうという、まったく救いのないストーリーだからだ。

もし、作品の中に、ジョン・ドウの存在を完全否定するセリフが組み込まれ、正義=刑事によってコテンパンにやっつけられていたら、勧善懲悪の映画のように爽快な印象が得られただろう。

だが『セブン』は、ジョン・ドウを完全に否定していない。

最後も、若い刑事の憤怒の銃弾を浴びて死んでゆく。

罪だけが残った。

その罪をこれからどう贖い、どう乗り越えてゆくのか、映画は何も示していない。

『罪だけが残り、誰も救済されない』──という結末は、続発する異様な事件や、崩壊する現代社会を思い起こさせる。

私たちは、事象をあれこれ分析し、犯人探しすることに躍起になっているが、それで誰が救われるというのか。

原因を知り、犯人を裁き、将来への展望を示しても、過ちはまた繰り返され、悲劇の人を作る。

人の世に、本当に救済というものがあるならば、この世の悲しみの種もいつか尽きると思うのだが。

『結局、誰も救われない』──このやり切れなさこそ、映画『セブン』の核である。

悪が倒れ、被害者が救済される、明快な結末を期待していた観客は、永久に解けない不条理の中に投げ込まれ、いつまでも後味の悪い思いをかみ締めるしかない。

そして、デビッド・フィンチャー監督が描きたかったのは、まさにこの『やり切れなさ』ではなかったか、と思うのである。
『ヘミングウェイは言った。“人生は素晴らしい。戦うに値する”。 後者には賛成だ』 ──モーガン・フリーマン

初稿:00/10/19  メールマガジン『eclipse』より

映画『セブン』モーガン・フリーマン&ブラッド・ピッド

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監督はこの作品で「密閉感あるスリラー」の名手と定評を得たデビッド・フィンチャー。(『エイリアン3』も手がける)
モーガン・フリーマンが老刑事、ブラッド・ピットが若手刑事を演じる。
そしてピットの妻にブレイク前のグウィネス・パルトロウが演じている。
二人はこの映画をきっかけに婚約したが、噂によると、グウィネスの両親がこの結婚に猛反対したため、解消に至ったらしい。ちなみにグウィネスの父親はプロデューサー、母親は女優。「演劇界のサラブレッド」といったところです。

こちらが世界中のクリエーターに大きな影響を与えた『セブン』のオープニング・クレジット。
ガラスをかきむしったような不快な金属音と、ピンぼけしたフォトグラフをつなぎ合わせたような独特の映像。
時折、差し込まれる残虐なショットが強烈な印象を残す。
手がけたのは、モーション・グラフィック・デザイナーのカイル・クーパー。
モーション・グラフィック・デザイナーとは、映画の冒頭に必ずある、映画の題名、主なスタッフ・キャストの名前、映画会社の名前などが流れるオープニング・クレジットの映像を制作する仕事で、カイルの作り出す映像はスタイリッシュと定評がある。それだけではなく、彼の作り出すタイトルムービーはその映画の趣旨や雰囲気をよく考えており、その映画にぴったりな映像であると評価されている。タイトルムービーを芸術にまで高めた人物とも言える。

※ Amazonインスタントビデオ『セブン (字幕版)』でもご覧になれます。
一回レンタル200円、ダウンロード1000円から。

§ キリスト教に興味を持ったら・・

キリスト教に興味はあるけど、分厚い聖書を読むのはちょっと……という方におすすめの聖書・キリスト教読本。
世の文学や絵画に影響を与えた感動的なシーンをすべて網羅し、名場面形式で旧約聖書、イエス・キリストの生涯などを紹介するダイジェスト版です。
カラーの図解で見ても、読んでも楽しい本です。

キリスト教における「罪」とは何なのか。それはどういう形で人間、社会、生活に浸透しているのか──を理解するなら、『罪と罰』がおすすめですが、いきなりあの難解な小説を読むのはちょっと……という方に手にとって欲しい本。
こちらの記事を参考にどうぞ。
ドストエフスキーの名作『罪と罰』 米川正夫・訳の抜粋 / 『謎とき 罪と罰』江川卓

「人が人を裁き、神の名のもとに殺戮する」という点では『セブン』と共通したものがある。
なぜジョン・ドウやライトの主張する「正義」は誤りなのか?
自分なりに考えてみるところに、これらの作品の意義があると思う。
関連記事はこちら→『DEATH NOTE』 なぜ人を殺してはいけないのか

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