育児と家庭

自尊心を育む ~本当に幸せな子供を育てるために~

2007年8月1日

「自尊心」と言うと、「自信過剰」や「傲慢」といった悪いイメージと結びつけ、良い意味に考えない人も多いですが、私は自分が生きてきた過程や周りにいた人を振り返っても、『自尊心』こそ、あらゆる能力の基礎であり、幸せの土台であり、真の心の平和をもたらすものだと確信してやみません。

なぜなら、自分に対する肯定的な感情がなければ、何を得ても無意味だからです。

自尊心とは、分かりやすく言えば、

「悪いところや、イヤなところもいっぱいあるけど、こんな自分が好き」
「立派な人に比べたら、私なんてゴミみたいなものかもしれないけど、でも生きていて楽しい」
「私には私の生き方がある。私は自分の信じた道を行こう」

といった気持ちが自然に湧いて出ることです。

たとえ目の前に魔法使いが現れて、「あなたの望みは何でも叶えてあげましょう」と言ったとしても、「今の自分で満足」と思えることです。

「もっと美人だったら」
「あのブランドのバッグさえ持っていたら」
「私だって、あの人と同じような仕事に就いていたら」
といった焦りや見栄、競争心とはまったく無縁で、「今あるもので足りている」と素直に受けとめられることです。

こうした健全な自尊心なくして、あれこれ自分を飾り立てたり、他より秀でようとしたり、周囲の評判を勝ち取ろうとしても、ますます焦るばかりで、心が安らぐことなどありません。

次から次に目の前に現れる、「もっとスゴイ奴」に絶えず心を脅かされて、いずれ自分の生き方や本心を見失ってしまうでしょう。

子供を本当に幸せにしたければ、能力よりも、何よりも、まずはこの自尊心を育むことです。

繰り返しになりますが、どんなに能力を高めようと、人気者になろうと、健全な自尊心なくして、真の安らぎと幸せはあり得ないのです。

ここで、自尊心にまつわる一つのエピソードをお話ししましょう。

私が前に勤めていた職場に、38歳のAさんという女性がいました。
仕事は几帳面で、ミスがなく、職場でも係長クラスの責任のあるポストに就いていて、日常の会話からも、いわゆる「いいところのお嬢さん」であることがありありと分かるような女性でした。
でも、自意識過剰なところがあって、「いつもきちんとしなければ」という緊張感が周囲にも放射しているようなタイプの人だったのです。

そんな彼女とレストランの話になった時、給仕のサービスについてこんな事を仰ったのです。

「一流レストランに行くと、食事の合間に、ウエイターがホウキみたいなものを持って、テーブルの上のパン屑を掃除しに来るでしょう。ああいうことをされると、『この子は食べるのが下手だ』って言われているみたいで、すっごいブルーな気持ちになるのよね」

私はその話を聞いた時、「気の毒やな」と思いました。
レストランのウエイターは、お客さんが気持ち良く食事を続けられるように、思いやりからパン屑を掃除して下さるわけでしょう。
「パン屑をこぼす=マナーが悪い」から掃除に来るんじゃないですよね。

しかし、彼女の場合、レストランで食事している時でさえ、「マナーが良いと思われたい」という気持ちがあって、ウエイターが掃除する行為も、自分に対する非難に感じられてしまうのです。

せっかく一流レストランに来ても、周りの目ばかりが気になって、ウェイターが来る度にブルーになるなんて、心で損していると思いませんか。
周りの人に、少々、「食べ方が下手だ」と思われても、友達とお喋りを楽しみ、一流の味と雰囲気を堪能した方が、どれほど幸せかしれません。

でも、こうした心の動きは、決して彼女一人のせいではないんのです。

その影には、常に「きちんと」を求める親の姿があり、彼女は今でも「きちんとしていないお前はダメだ」というメッセージに支配されているのです。

だから、自分の失敗を笑えないように、他人の失敗も笑えない。
周りも相手していて疲れるし、本人も生きていてしんどいだろうと思います。

もし、成長の過程で、「きちんとすることが全てじゃないんだ。きちんとしていなくても、私は愛されるに値する人間なんだ」と、心の持ち方をリセットすることに成功していたら、彼女も全く違っていたのでしょうけど、親の価値観から抜け出すのが怖かったのでしょうね。

彼女は今でも、親の価値観に従う以外、生き延びる道がない子供なんだな――と、つくづく感じます。

親は、娘が一流企業に就職して、責任ある役職に就いて、それで満足かもしれませんが、38年間生きて、一瞬たりとも「きちんと」の呪縛から解放されることなく、人に自分をさらけ出すことも、安らかな気持ちで食事することさえも出来ない娘の『口に出せない苦しみ』って、計り知れないと思うんですけどね。

つまり、こうしたこと――健全な自尊心を育むことなく、型通りの躾を急ぎ、スキルや能力ばかり詰め込もうとすれば、常に強迫観念にとりつかれたような、自分に自信のない人間を作り出すということを、親である私たちはよく理解した方がいいと思うのです。

ある意味、能力が高ければ高いほど、本当の自分を知られることを恐れ、不安と緊張の中に生きていく度合いが強いかもしれません。

そうならない為にも、子供には「自分の価値」というものを確信させてやらなければならないし、「あなたは、あなたのまま、そこに居ていいんだよ」という安心感も必要でしょう。

勉強が出来さえすれば、クラスの人気者になりさえすれば、子供は自信をつけて、何事にも積極的に生きていくだろう――というのは、親のおめでたい思い込みであって、自分に対する本物の信頼というのは、『世界の象徴』である親に肯定される以外、身に付かないんですよ。子供が幼ければ、幼いほどに。

たとえば、早稲田大学教授で、著名な心理学者である加藤締三先生は、著書『愛される法則 ~愛はこんな小さなことで確かめられる』の中で、こんな風に書いておられます。

小さい頃、母親に、「いい子ね」と言われることは、
世界中の人に、「いい子ね」と言われるのと同じこと。

小さい頃、母親に、「バカね」と言われることは、
世界中の人に、「バカね」と言われるのと同じこと。

小さい頃の母親の「嫌な子ね」の一言は、世界中の人の言葉。

だから大人になって、世界中の人から賞賛を浴びても、
劣等感に苦しんでいる人がいるのである。

「バカね」という直截な言葉を使わなくても、日常の関わりを通して、「お前のそういう部分が良くない」とか、「もうちょっとこうだったらいいのに」とかいうメッセージを出しているケースは、案外多いと思います。

たとえば、「うちの子は、友達と仲良く遊ぶのが苦手だ」ということを気にしているお母さんがあるとしますよね。
「よその子は、みんなと楽しそうに遊んでいる。うちの子も、あの子ぐらい、明るく積極的になればいいのに。こんな調子では、学校に行ったらイジメられてしまう」といった具合に、自分であれこれ思い描いて、公園に行ったら、しつこくグループ遊びに誘ったり、何度も声かけしたり、人の集まる所を連れ回しては、何とか自分の思い描くような子供に作り替えようとするのです。

確かに、きっかけ作りは大切かもしれません。
でも、自分の中で、「こうあるべき」を決めつけて、「あなたも楽しく遊びなさい」とハッパをかけるのは、『友達と仲良く遊べないお前はダメな子だ』と暗にメッセージを出しているのと同じことではないかと思うのです。

お母さんは、「自分は正しい事をしている」つもりかもしれませんが、子供にしてみたら、内気で、社交下手な自分を否定され、改造されているようなものですからね。

そうではなく、内気で、社交下手な部分を一つの個性として肯定的に受けとめ、「それなら、それでいいよ。お母さんは、内気で社交下手なあなたも大好きだよ」というメッセージを出してあげることが大事ではないかと思います。

たとえば、「友達のいる砂場に行ってみる?」と声かけして、子供がむずがるようなら、それ以上は強制せず、お母さんが相手して、半年でも、一年でも様子を見るような余裕が必要ではないか、と。

世間では、「友達がたくさんいて、楽しく遊べること」が「いい子の条件」みたいになっていますけど、子供時代、友達と楽しく遊べた子が、終生、友情に恵まれるとは限らないんですよ。
むしろ、内気で、社交下手な子供の方が、やっと見つけた一人の友を生涯大切にして、素敵な友情を育むことだってあり得るのですから、「社交的=良い」「非社交的=悪い」と単純に考えるのは、あまりに人間としての価値観が狭すぎるのではないでしょうか。

おそらく、「自分はダメだ、ダメだ」と思い込んで、自分自身を追い詰めていくタイプの人間は、子供時代に親の価値観をそっくり受け継いで、「本来の自分であること」をいろんな形で否定されてきた経験があるのではないかと思います。

言葉で「バカ」と言われなくても、ちょっとふざけただけでギロっと睨まれたり、自分はあの子と遊びたいのに、「あんなお行儀の悪い子と付き合わないで」と嫌な顔をされたり、陸上競技で優勝したのに、勉強以外のことではいい顔してもらえなかったり……。

私は、口で「バカ」と言われるよりも、こうした暗のメッセージの方が強烈に心を支配すると思うんですよ。

それは親自身もなかなか気付かないし、子供だってすぐには反発しないでしょう。

むしろ、「自分は正しい事をしている」と思い込んでいる親の方が多いかもしれません。

そして、自分の思い描いたように育てば、それで満足して、我が子が「品行方正なお嬢さん」の仮面の下で、本当の自分を知られることを恐れ、頑張っても、頑張っても、隙間風が吹くような空しさにもがき苦しんでいることなど、想像もしないのでしょう。

私は、自分の子供が、自己無価値感に苦しみ、それを埋めようとして、がむしゃらに努力する姿など見たくないし、常に他人の目を恐れ、「いい人」になることでしか世の中を渡れないような、緊張度の高い、抑圧的な人間になったら、私自身も辛いです。

そういうタイプの人が「悪い」とは言わないけれど、やはり生きて行くには辛いだろうし、親としても、何のためにこの世に生んだのか分からないですからね。

その為に私が出来ることと言えば、子供の資質に合わせて、自分の価値観の幅を広げ、長所も短所も一つの個性として受けとめ、むやみに矯正しようとしないことです。

「これが正しいから、こうにする」ではなく、「この子はこうだから、こういう風に生かそう」といった考え方です。

もちろん、「友達を叩く」とか「悪意があって物を壊す」とか、道徳的に悪いことは真剣に対処しなければなりませんが、「内気」「そそっかしい」「ズボラ」「神経質」「臆病」といったキャラクターに関することは、おおらかに受けとめることで毒も中和され、子供が自分の弱い面を、自分自身で受け入れていく手助けになると思うんです。

親からの「こうでなければ」というメッセージを通して、子供が自分の弱い面を、「イヤだ、イヤだ」と思いながら育つと、自分の欠点はもちろん、他人の失敗を受け入れることも出来ない、窮屈で、緊張度の高い人生を歩んでしまいます。

親の肯定によって育まれる、『ダメな所も、イヤな所もあるけれど、こんな自分が好きだ。誰がどのように評価しようと、私は愛されるに値する人間だ』という自尊心こそ、真の幸福と安らぎの基盤ではないでしょうか。

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