育児と家庭

その「正論」に「愛」はありますか

2008年5月12日

私が中学生の頃、津雲むつみさんの漫画で『彩りのころ』という作品がちょっとしたブームでした。

物語は、高校生の女の子が同級生の男子生徒に暴行され、望まぬ妊娠をし、それを最愛の恋人とともに乗り越えていく……という、かなりショッキングなものです。

最初は、彼女の妊娠を受け入れることができず、別れも考えた彼氏ですが、母として産み育てようとする彼女の姿を見るうちに、お腹の子ともども、彼女の人生を受け入れ、共に生きることを決心します。

そして、二人は、卒業を待たずに結婚し、彼氏は知り合いの弁護士の事務所で働くことになったのですが、そこで仕事を教わるうちに、弁護士にこんな事を言われます。(詳細はうらおぼえなので、要約になりますが・・)

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君は、こんな凶悪犯を弁護して、何になると思っているのだろう。

しかし、人間は弱い。時として、過ちを犯すこともある。

過ちを犯した人間は、ただ裁かれるだけで、罪を償い、人生をやり直す機会さえ
与えられないのだろうか。

弁護士の仕事は、彼らの罪を少しでも理解し、更正のお手伝いをすることだ。

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中学生の私には、この一文がかなり衝撃でした。

なぜなら、当時の私は、罪を犯した人間は「目には目を」で裁かれるべきであり犯罪者の更正とか、罪の理解とか、考えたこともなかったからです。

私は、この作品を読んで以来、弁護士に対する見方も変わったし、毎日のようにニュースで報道される殺人や窃盗や諸々の事件についての受け止め方も変わりました。

誰かが人を殺せば、やれ悪人だ、死刑だ、と、多くの人が騒ぎ立てるけれど、その背景や経緯についての考察はどうなのだろう。

「死んでお詫びしたい」と引き裂かれるような思いで猛省している人間でさえ、死でもって償わなければならないのだろうか、等々。

これは「死刑論」にも通じる話ですので、ここでは詳しく書きませんが、あいつは極悪だの、死刑にすべきだの……って、そんなに軽々しく口にするものではないと私は思っています。
(それを感情で口走っていいのは、実際に被害を受けた方ぐらいではないかと)

自分だって、いつ加害者の立場になるか分からない。

自分の中にも、同じような弱さ、攻撃性、愚かさ、醜さがあるかもしれない。

そう考えると、『絶対的正義』の立場から人を非難するのって、ある意味、ズルイように感じるのです。

絶対的正義の立場というのは、「人を殺すな」「物を盗むな」「ウソをつくな」という、誰にも非難しようのない、絶対的に正しい理屈ですね。

育児に関して言うなら、

「お友達を叩いてはいけません」

「公共の場所で騒いではいけません」

「ウソをついてはいけません」

……etc。

まったくもってゴモットモ、反論する余地もない「絶対的正義」――
いわゆる「正論」と呼ばれるものです。

この「正論」を口にされたら、誰も何も言い返せませんよね。

だって、正論言ってる方が正しいんですから。

この絶対的正義の立場に立って物を言えば、誰にも非難されることなく、相手をやり込めることができます。

親ならば、子供に寸分の反論の余地も与えず、「親の言い分が正しいのだ」と、とくとくと説教することができるわけです。

しかし、子供にだって子供の考えがあり、気持がある。

「それが正しい」と分かっていても、何かの弾みで、それに及ばぬ事をしてしまうこともあるでしょう。

その時、正論だけネチネチ言って聞かせても、果たして子供の心に届くのでしょうか。

「正論」は時として、相手を追い込み、傷つけることがあります。

なぜなら、「正論」は正しいというだけで、そこに「愛」は無いからです。

これは看護婦時代の話ですが――。

私は20代の頃、特定疾患を対象とした治療棟に勤めていたことがありました。

そこでの仕事は大半が「患者指導」で、慢性疾患の患者さんに、食事や生活習慣など、自己管理させるのが目標です。

そこで、私たちは、模型を使い、パンフレットを作り、あの手この手で懇々と患者さんに療養指導するわけですが、中には、何を言っても患者さんに嫌われ、最後には怒鳴られてしまう看護婦さんがしばしばありました。

言っていることは正しいけれど、患者さんの気質や状況、その時々の気持を汲むのが下手で、当たり前のことを当たり前のように言って聞かせようとして、患者さんの逆鱗に触れてしまうのです。

たとえば、糖尿病の患者さんに療養指導する場合、理想の食生活や検査データの読み方など、正しいリクツ教えるのは非常に簡単なことです。

一日の摂取カロリーは幾らで、インシュリンの使い方はこうで……って、専門知識があれば、誰でも教えることができます。

でも、糖尿病と診断され、まだ右も左も分からないような人、あるいは大酒のみのヘビースモーカーで、性格的にも難しい人、ハナから自己管理する気力もない人(様々な事情から闘病意欲を完全に喪失している)、等々、一口に『糖尿病患者』と言っても、人によって受け止め方は実に様々で、その一人一人を同じ『糖尿病患者』と思って扱うと、必ずトラブルの起きるんです。

「お前は患者の気持ちをまったく分かってない!」と怒鳴られたり。

「もういい、放っておいてくれ!」とスネられたり。

で、怒鳴られた看護婦さんの方も、

「あの人は自分の病気を管理しようという気持が全然ない、あんな人、いくら言ってもダメだわ」

と切って捨てたりね。

でもね、皆さん。

いくら自分の不摂生が原因で、インシュリンを打ち、厳しい食事制限が必要となるほどに悪化したとしても、気持が落ち込んで、投げやりになっている時に、看護婦から頭ごなしに、

「だからあなたの自己管理が悪いんですよ、いったい何を、どれだけ食べたんですか、自分の病気をちゃんと自覚されてます?!」

と叱られたらどんな気分ですか。

「はい、すみません。私が悪かったです。今度からきちんとします」

と素直に聞き入れられるでしょうか。

「私だって一所懸命にやっている、でも、食べたい気持が抑えられない、病気になった自分がミジメでたまらない、先のことを考えたら、もうどうにでもなれ、死んでやる! なんて、投げやりな気持になることもある……」

という時もあるのではないでしょうか。

そんな時に、正しい事だけズラズラ並べられても、

「この看護婦は患者の気持ちを全然理解していない」

と、憤然とするのではないでしょうか。

そうではなく、自己管理がイマイチで、なかなか検査結果の数値が落ち着かない時でも、

「○○さん、ゆっくり行きましょう、仕事のお付き合いも大変でしょうしね」

「今回は良かったですよ、この調子で頑張りましょう」

と、相手の立場や気持ちを見ながら、励まし、理解し、根気強く付き合ってくれる看護婦さんには、心を許して、力づけられるのではないでしょうか。

子供もそれと同じだと思います。

「これが正しい」と分かっていても出来ない時もあるし、頑張れと言われるほど落ち込んでしまう時もある。

「どうすべき」は頭で分かっていても、気持がついて行かない時もあるし、反抗心からついつい背いてしまうこともあるでしょう。

そんな時に、当たり前のことを当たり前のように言われて、果たして子供は元気になるでしょうか。

よく「正しいだけの親は要らない」と言いますね。

それはやはり、親には「正しさ」より「愛」を期待するからだと思います。

正しいことを、正しいように言い聞かせて、それで人の心が動くなら、これほどラクなことはありません。

医者も看護婦も、「こうして下さい」と言うだけで患者さんが良くなるのですから、この世にカウンセラーも必要なくなりますよね。

私の先輩看護婦さんが、

「患者指導の8割は徒労に終わる。期待するな。熱を入れすぎるな。ほどほどに距離をおいて、その気になるのを待て」

ということをよく仰っていました。

本当にその通りだと思います。

人間相手のことって、本当に根気がいるのです。

言葉一つかけるにも、知恵がいるし、ユーモアもいります。

特に、相手が病気や心の問題などを抱えて弱っている場合は、安易な励ましや理想論は禁物です。

その人の気持ちが上を向くまで、何ヶ月も、何年も、待たなければならないこともあります。

今日言って、明日変わるほど、人間は単純ではないし、どんなに正しいことも、言葉を選ばなかったり、言い過ぎればダメになってしまうのです。

子供に物を教えるのも同じだと思います。

10割言って、2割聞いてもらえたら良しとするぐらいの余裕がなければ、

「なんで私の言うことが聞かれへんのか!!」

って、怒りと無力感だけで終わってしまうし、どんなに正しいリクツも言葉選びに配慮がなければ、心を傷つけるだけで終わってしまいます。

同じ「正論」でも、その子に対してどのような言い方をすべきか、それを考えるのが一番大切なのではないでしょうか。

「正しいことを正しいままに教え、諭す」というのは、ある意味、誰にも非難されない、安全な立場から物を言ってるに過ぎないことがあります。

子育てにおいても、親が絶対的正義の立場から物を言うのは実に簡単なことで、「正しいことを教え、諭す」だけなら、教師でも、近所のおじちゃんでも、誰でも出来るのです。

でも、子供の気持ちを理解し、その過ちを赦すことは、「親」であるあなたにしか出来ません。

それが親の情であり、どんなにきつく叱られても、最後には子供が救われる所以ではないでしょうか。

近頃は、「親」よりも「教師」になりたがる人が増えているように感じることがしばしばです。

親としての想像力や思いやりを働かせるより、善か悪かの理論武装で、子供に言って聞かせようとする態度ですね。

「いや、親としての愛情があるから正しいことを教えるんだ」という人もあるかもしれません。

でも、正論を言って聞かせる前に、一度考えて欲しいのです。

その「正論」に「愛」はありますか、と。

思いやりのない正しさは、時に、相手を追い詰め、自己否定の気持ちを植え付けることがあります。

そして、親から植え付けられた自己否定の観は、親に理解してもらえない限り、一生かかっても消えることはありません。

「正しいこと」を教えたつもりが、ただ子供に罪悪感と自己否定の気持を植え付けただけだった……というような事にならないよう、教え諭すにしても、その子の気持や性格を考えた上で、慎重に言葉を選びたいものです。

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