池上遼一『サンクチュアリ』 / 映画『キリング・フィールド』 / ポル・ポト政権の悲劇

私が池上遼一氏のマンガに興味を持ったのは『男大空』という少年向けの作品がキッカケだ。

高校の修学旅行先の旅館のロビーにポンと置いてあった「男大空 第一巻」。

「なんだろう」とページを繰ってみると、いい意味で『口ポカン』な話運びと設定にすっかり魅了された。

池上氏の初期の代表作『男組』が少年院を舞台にした硬派な劇画なら、『男大空』はちょっとギャグ・テイストの入った(設定があまりにマンガちっく)ぶっ飛び劇画。

日本の支配者と目される鬼堂親子に父を殺害され、さらに四人の兄を暗殺された高校生の祭俵太。
伝説の名僧から居合いの奥義を学び、彼を慕う仲間とともに鬼堂親子に復讐を果たす物語なんだけど、武術の達人でスーパー高校生(?)鬼堂凱の手下として学校を支配する『七人委員会』とか、キャバレー科や暴力科で不良学生を極道の手下に仕立てる『ユリイカ高校』とか、なんじゃそら??のオンパレード。
ダイナマイトで吹っ飛ばされて身体が半分マシン化した海図莫郎(漢字違うかもしれない)とか、天草四郎の子孫で「御身は美しい」とか言ってる黒太刀にいたっては、「もうどうにも好きにして!!」とうい感じ。
そんでも、スケ番の中のスケ番『幾代さん』(池上劇画の王道を行く女性キャラ)とか、魅力的なエピソードも多く、あれよあれよで完読すること約半日。
古本屋で漫画を全巻一気買いしたのはこれが初めてで(古本屋のお兄さんに「『男大空』を読むぐらいなら『男組』にしなさいよ~。ほんとに『男大空』でいいの?」と念を押された)、その時、池上遼一の存在は、何よりも強烈に焼き付けられたのだった。

それから時は過ぎ、いい年した大人になった頃、ふと立ち寄ったブックオフで手にしたのが、史村翔(北斗の拳の原作者、武論尊の別ペンネーム)とタッグを組んだ『サンクチュアリ』。

前から青年誌の宣伝でおおまかな内容は知っていたが、中身に目を通したのはこれが初めてだった。

もちろん立ち読みなので、その場に座り込んで熟読することもできず、1巻から超高速の斜め読みだったのだが、「表」の世界から日本のサンクチュアリを目指す若き国会議員の浅見千秋が、アメリカ車を売るために日本政府に圧力をかけにきた大統領補佐官ビセット女史に、日本車の強さの原点となっているものを説いて聞かせる場面が非常に印象に残った。

私はバブル世代だから、あの頃のアメリカにおける日本車ボイコットの動きや、デトロイトで労働者らが日本の国旗を燃やすデモンストレーションなど、かなり鮮明に記憶に残っているだけに、この箇所のやり取りは本当に面白かった。

おそらく、「日本」「日本人」「日本の会社」というものを、最も端的に語っているのではないだろうか。

*

空港から予定地に向かうビセット女史一行の前に突然現れた浅見千秋。

彼は個人的にビセットと話がしたいと申し出、ビセットもそれに応じる。

車の中で浅見は言う。

「この国で本当にアメリカ車が売れるとお思いですか?」

「日本政府が外国車に対する不等な規制を改めればアメリカの車は必ず売れます」

断言するビセット。

「だが同じ規制を受けているはずのドイツ車は売れています」

と詰める浅見に対し、ビセットは、日本でアメリカ車が売れないのは悪いイメージのせいだと言い訳する。

「果たしてそうでしょうか、ではどうしてアメリカ本土で日本車が売れるのですか。両国がすべての規制を取り除き自由に競争したとしても売れるのは日本車だ」

そう言い切る浅見が案内したのは、日本の普通の公立小学校だった。

授業中、楽しく九九を合唱する子供達の姿を見て、ビセットは「私には異様としか映らない。この子達が管理されたロボットとしか見えない。」と揶揄する。

だが浅見は言う。

「そう管理です。日本人はこうやって小学生の時からすでに管理というシステムの中で生きている。

ですが、ロボットが笑いますか?

おそらく彼らに管理されているという意識はない。それを当然の事と捉え、無意識のうちに管理というシステムが日本人の中に溶け込んで行く。そしてその中で彼らは悦びや目標を見出して行く。

日本人というのはね、管理というものの中で自分の喜びや目標を見い出せる民族なんですよ。

やがて彼らが成長し技術者となり労働者となって車を造る。

ボルト一本締めるにも違いが出てくるとは思いませんか?」

「……喜び……」

「それは労働者の質のことを言っているの?」

「いや、国民性の違いを言っているのです

たとえば自動車部品の問題についてもそうです。
あなた方、アメリカ人のどこかには部品100%のうち5%の不良品があるなら、最初から110の部品を買えばよいという考えがある。たしかに数は合う。だが日本人は、あくまでも不良品0%にこだわる。

もしそれでもなおかつ、車及び部品を日本が買うべきだと強硬に主張するならアメリカの白人主導主義に他ならない」

動揺するビセットに浅見はなお続ける。

「日本人だから解るんです。日本人も、アジアの国々に大して、日本優位主義を根強く内包している。二つの国にとって車なんぞよりこっちの方がはるかに大きな課題だ」

そして、浅見が、アメリカの自動車会社が生き残る方策として、日本やドイツのメーカーと合併することを提案すると、ビセットは「車に関してだけはアメリカ人の感情がそれを絶対に許さない!」と激しく反発する。

「感情を言っているうちはまだ深刻ではない。もし本当にアメリカという国、
車メーカーが困窮し逼迫しているなら、感情などと言っておれないはずだ。

どんな国にもその国の文化があり歴史があり伝統がある……
それぞれがプライドをもっている
それが共存していかなくてはならない
大変な事だ……要は生きるという事です。

富める国、貧しい国……そして その国民達……国や国民がどうやって生きて行くのか……
どうしたら生きているという実感を得られるのか。
このテーマの答えを見つける事が出来れば、あんたはアメリカ合衆国の大統領にだってなれる!」

*

この台詞、どこかの誰かに聞かせてやりたい、と思うでしょう。

この作品が描かれたのは1990年代、バブル経済が失墜し、「失われた10年」へと下りつつある頃。

物語の背景は、50年に渡る自民党一党支配と、世界有数の経済大国に急成長を遂げ、「24時間、戦えますか?」のジャパニーズ・ビジネスマンが世界中を席巻していた頃、一方で、バブルの若者を中心としたシラケ世代の無気力、無関心が問題視されていた日本であり、今と照らし合わせれば、それこそ劇画みたいな時代だったのだけれど、この作品に散りばめられたメッセージはどれも本質を突いていて、今読み返しても遜色がない。

「これからどんどんおかしくなるぞ」という時に、池上遼一と史村翔という二人の男が、日本に警鐘を鳴らし、大きな望みを託して描き上げたといっても過言ではないと思う。

それは、主人公の浅見と、影の世界からサンクチュアリを目指す北条彰だけでなく、政界のドンとして彼らの行く手を阻む民自党幹事長の伊佐岡の言動にも表れている。

伊佐岡が単なる支配欲と利己主義の権化ではなく、彼は彼なりに政治家としての信念をもって行動していることが随所に描かれている。

たとえば、伊佐岡を裏切り、政敵である浅見側に極秘文書を流した原口代議士に物申す場面。

それほど首相になりたいか? 政権を握ってみたいか、原口。

欲しいならくれてやってもいいぞ。だが、お前のようなネズミ代議士に国家が動かせるか!

原口、世界の現状を見ろ! これからの日本は今までのように誰が首相になっても安穏としていられる醸成ではない……。
近い将来、必ずや世界的な不況の嵐に日本も巻き込まれる。
その中でおまえに何が出来る。
日本という国家、日本という民族を存続させる明確な意志、方針を持っているのか?
政権を握る者として、この日本を導いていく強固な自信、理念があるのか?

わしなら国民に対し、胸を張ってこう言う

貧乏人は麦を喰え! 米が喰いたきゃ努力しろ!

原口、政治家ってのはいざとなったら頭から糞水ひっかぶる覚悟が必要なんだ
おまえにその度量があるか
政権という席をただの甘い座と思うんじゃない!

もし、伊佐岡の行動が保身に基づいたものなら、サンクチュアリは単純な勧善懲悪もので終わっていただろう。

そうではなく、怪物として政界に君臨する伊佐岡にも、国を憂い、建国に身を捧げた歴史があり、自らの政権を盤石にしようとする動機にもいっぱしの筋がある。

しかし、これからの時代、そういうやり方では日本は閉塞し、世界から置いてきぼりを食らう。

だからこそ、政治のシステムを根こそぎ変革し、若い者が積極的に政治に参加し、この国の在り方を変えて行かねばならないのだ、という浅見の主張に説得力が出るし、ラスト、ついに伊佐岡が自らの限界を知るところに、勧善懲悪を超えた深いメッセージを感じる。

見た目は「政治とヤクザのドンパチ」に見えるけど、『サンクチュアリ』は新旧の価値観の激突であり、また、若者はそれだけのパワーを持て!という、池上&史村両氏からの熱いメッセージなのだ。

別の味方をすれば、バブルの若者はそれだけ「情けなかった」ということでもある。

右肩上がりの社会で、悲壮感もなければ真摯な姿勢もない、マニュアル情報誌を片手に、美味しいものを食べて、ブランド物を着て、女の子のお尻を追っかけることしか知らない……てな雰囲気が確かにありましたから。

作中、浅見千秋が、70年代組の若手政治家のホープでありながら首相の腰巾着になりさがった狩谷代議士をつかまえ、「あんたら団塊の世代がナマクラだったから、今のシステムが出来上がっちまったんだよ」と凄む場面があるけれど、だとしたらバブル世代は何と言われるのか。

ぜひ池上&史村両氏に描いて欲しいものである。

ともあれ、読むほどに味のある『サンクチュアリ』。ぜひお楽しみください。

『ebookjapan』 池上遼一のコーナーはこちら。


2008年の記事

何が好きって、男性劇画家の池上遼一さんの漫画ほど好きなものはないです。

もともと、ビッグコミック系の劇画が好きで(『ゴルゴ13』とか)、職場の喫煙室(男性職員がよく読んでいた)に山積みになっていたものをこっそり持ち出しては、休憩室の隅で貪るように読み、また人目に触れないように元あった場所に戻し……なんてことを、20代のお勤め時代は夢中になってやっていたのですが、中でも、強烈に印象的だったのが、池上遼一さんの作品。

高校生の頃から、「男大空」を読んで、筋の通った、男らしい漫画を描く人だなあと思っていたのですが、ビッグコミック系の作品も陶然とするほど魅力的で、とりわけ、耽美ものの上品なエロチシズムといったら、劇画界最高といっても過言ではないほどの妖艶さです。

池上さんの作品は、とにかく男が熱い。
意志的で、野心にあふれ、一方で、細かな思いやりにあふれています。

そして女性は、強く控えめでありながら柔らかさを失わず、男性が求める女性の魅力をぎゅっと集約したような理想像そのもの。

その昔、チェッカーズの藤井フミヤは、人気歌謡番組で、「僕の理想の女性は、池上遼一さんの描くような女性です」と広言し、大ヒット曲「NANA」の直筆イメージ画をプレゼントされるという光栄に浴していましたが、そう思う気持ちもよく分かります。。

そんな池上さんが、渾身の力を注いで描いた傑作が『サンクチュアリ』。

そのベースになっているのが、近年、カンボジアで大問題となった、ポル・ポト政権による大虐殺です。

ストーリー

北条と浅見は、カンボジアの強制労働キャンプで生死を共にした盟友。キャンプから命からがら逃げだし、ようやく日本に帰り着いたものの、二人が目にしたのは、豊かさの中でだらけきった日本人社会でした。
「この社会をより良く変えてみせる」――その大いなる理想に向かって、北条は裏社会から、浅見は政界から、日本の支配階級にアプローチし、理想の実現に命を懸けます。
が、そのプロセスにおいて、絶対に他者に悟られてはならないのは、北条と浅見の命を懸けた絆でした。
もし、それが露見すれば、裏社会と政界を同時に敵に回すことになり、二人が抹殺されるのは火を見るより明らかだったからです。

「奴等は何者なのか――」
新しい力の台頭に、裏社会と政界の支配者層は警戒心を強め、彼らの身元を暴いて、叩きつぶそうとしますが、北条と浅見は強い意志をもって、ついに目的を達成するのです。

物語の中で一番印象に残っているのは、命からがらキャンプを逃げだした子供達が、一人でも多く生き延びる為に、ジャンケンによって食糧を勝ち得るというエピソードです。
ようやく捕まえたネズミなどの小動物を複数で分けても、結局、空腹は満たされず、皆が共倒れするだけだ、と。
ならば、ジャンケンで勝った一人が全てを与えられるようにしよう。
そうすれば、少なくとも、全滅はまぬがれる。
そして、運と体力の強いヤツが最後まで生き延びればいい――という、子供とは思えない、非常に厳しいルールのもとに、命を懸けたジャンケンゲームを展開するんですね。

このギリギリの悲壮感と強者のリクツは、ある人には受け入れがたいかもしれません。

物語では、ジャンケンに勝てずに、飢えて死ぬことになっても、彼らは勝者を恨まないんです。
なぜなら、一人でも多くの仲間を逃がすことが彼らの目的だから。

そうして生き残った北条と浅見だからこそ、だらけきった日本社会に喝をいれ、万人にとっての幸福を目指したのではないかと思います。

その他にも、ヤクザの北条に恋をした、気丈な警察副署長の石原嬢が、車の中で酔っぱらって、泣きながら、
「だけど、あんたが好きなんだ……好きでたまらないんだ……」
と、真情をもらし(この場面の女らしいこと!)、それまで自分の理想しか頭になかった北条の心をとかしたり。

日米経済摩擦でイチャモンをつけにきた米大統領補佐官(女)を、浅見が銘酒『剣菱』を片手にやりこまし、「なぜ日本経済は強いのか」ということをレクチャーしたり。
(『あんたに確かな理想があれば、あんたは大統領にだってなれる』という浅見の決めゼリフもさることながら、浅見を妙に庇う彼女に対して、アメリカ大統領が『あの男と寝たのか』と聞いた時、にやっと口元に笑みを浮かべる彼女の表情も秀逸。このあたりの男女の機微は池上さんならではですね。)

見所はいっぱいです。
女性が読んでも非常に面白いですよ。(北条も、浅見も、甲乙つけがたい・・カッコいい)

ポル・ポト政権とカンボジア大虐殺事件について

さて、この作品のベースとなっている、ポル・ポト政権によるカンボジア大虐殺事件ですが、こちらにその詳細を伝える番組のクリップがありましたので、紹介しておきます。

同じアジアで、近年、このように酷い歴史があったことを、ご存知ない方も多いのではないでしょうか。
事件があった頃、私も子供でしたので、「ポル・ポト」「クメール・ルージュ」といった言葉は、記憶の隅にようやく残っている程度なのですけれど。

人が人を支配する恐ろしさ――それもたった一人の偏った思想の為に、何百万という人間が惨殺された史実は、今もなお、世界中の人々に強く語りかけるものがあります。

ここから何を感じるか、『サンクチュアリ』の思想と併せて読み取って頂けたらなあと思います。

こちらは、「キリング・フィールド」と呼ばれるS-21収容所。
ポル・ポト政権時代には、拷問と処刑が繰り返され、2万人近くが犠牲となりました。

以下は囚人に対する『尋問中の保安規則』

1) 質問された事にそのまま答えよ。話をそらしてはならない。
2) 何かと口実を作って事実を隠蔽してはならない。尋問係を試す事は固く禁じる。
3) 革命に亀裂をもたらし頓挫させようとするのは愚か者である。そのようになってはならない。
4) 質問に対し問い返すなどして時間稼ぎをしてはならない。
5) 自分の不道徳や革命論など語ってはならない。
6) 電流を受けている間は一切叫ばないこと。
7) 何もせず、静かに座って命令を待て。何も命令がなければ静かにしていろ。
何か命令を受けたら、何も言わずにすぐにやれ。
8) 自分の本当の素性を隠すためにベトナム系移民を口実に使うな。
9) これらの規則が守れなければ何度でも何度でも電流を与える。
10) これらの規則を破った場合には10回の電流か5回の電気ショックを与える。

このカンボジアの悲劇を映画化し、アカデミー受賞作となたのが、『キリング・フィールド』です。

ニューヨークタイムズ記者としてカンボジア内戦の混乱をルポし、ピューリッツァー賞を受賞したシドニー・シャンバーグの実体験を、デビットパットナムが企画し、ローランド・ジョフィが映画化しました。

しかし、カンボジア人の通訳を演じ、アカデミー助演男優賞を受賞したハイン・S.ニョールは、1996年、ロサンゼルスの自宅前で銃撃され亡くなっています。
一説にはポル・ポト派による犯行ともいわれているそうです。

こちらは、映画の内容をダイジェストにまとめたもの。
ここに描かれている強制労働の様子が、池上さんの『サンクチュアリ』にも登場します。
もしかしたら、この作品をご覧になって、触発されたのかもしれませんね。


この作品については「やっぴ的歴史映画」のやっぴさんが、史実をまじえながら、読みやすくまとめておられます。
「カンボジアで何があったのか」という事も含めて、大いに参考になると思います。
(他にも、社会的な映画を詳しく紹介しておられますので、歴史の勉強にもなります)

初稿:2008年11月05日

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