育児と家庭

親の書いた作文で・・利己的なエリート教育

2009年2月14日

先月、東京の歩行者天国で起きた無差別通り魔殺人について、ネットのニュースで知った私の第一印象は、

「この10年間、日本は何にも学んでない」

90年代半ばから、高学歴の若者を中心としたカルト教団のテロ事件、10代の凶行、ネットを介した犯罪など、多くの課題が投げかけられてきたというのに、またも似たような事件が繰り返されて、当事者でなくても、本当に悔しく、歯がゆい思いがいたします。

なぜなら、カルト教団の密室で謀議された計画犯罪と違い、この犯人は、壊れゆく自分の気持ちを、身近な人間に対していろんな形でメッセージを出し続けていたからです。

家庭内暴力、友達への「死にたい」メール、職場でのトラブル、等々。

どこかで何かが良い方向に向けば、この男の殺意も収まり(殺意というよりは、長年蓄積された親や社会に対する怒りなのですが)、7人も死なずに済んだのに――と思うと、家庭内暴力、自殺願望といったネガティブな反応に対して『正しく理解し、対応する』ことの重要性を改めて認識せずにいません。

事件を起こしたのは本人の責任かもしれないけれど、『未然に防ぐ』――この手の犯罪者を作らない努力――というのは、個人や社会に課せられた責任だと思います。

犯人一家への非難だけに終わらず、この家庭に何があったのか、社会的背景はどうか、直接的な動機は何なのか……といったことをきっちり分析して、とりわけ子育て中の世代に、日々の子育てを見直すきっかけとして欲しいですよね。

で、感じたことを記事にしたいと思ったのですが、あまりにいろいろありすぎて一つにまとめることができませんでした。

ですから、幾つかのテーマに分けて、チョコチョコと書くことにします。

何分、情報のリソースが、ニュース・サイトやブログ、Youtubeにアップされた動画に限られますので、憶測でしかない部分も多いですが、一般的な話として理解して頂けたら幸いです。

*

この事件のキーワードは3つあると思います。

「非正規雇用(派遣社員)」

「ケータイサイトへの書き込み(ネット依存)」

「家族機能不全」

どれも10年以上前から問題視されている事で、「何をいまさら・・」という感じです。

言い換えれば、この10年間、問題を問題として放置したまま、社会も個人も自身を省みる材料にはしなかった……ということでしょうね。

まず、「非正規雇用」についてですが、これに関しては、ワーキング・プア問題として多くのメディアや書籍で取り上げられていますので、機会があればじっくりご覧になって下さい。

私の個人的体験に基づく話はこちらに掲載しています。

よかったらまた参照して下さい。(私の個人的体験ですが)

ワーキングプア時代を生きる 非正規雇用について

ネット依存から生じる自己肥大や孤立感などについては、『ML Weekly』というメルマガを発行されている佐藤さんが上手にまとめておられますので、ぜひご一読ください。

『秋葉原通り魔事件とネットに居場所を求める危険』http://archive.mag2.com/0000026807/20080626222000000.html

今回、私が一番注目したのが、犯人の家庭環境でした。

犯人はその動機について、「誰でもよかった」と供述しているそうですが、この「誰でも」という言葉の向こうに具体的な対象が感じられるのは、専門家ならずとも、多くの人が感じる事ではないかと思います。

私も、このお母さんも、これを読んでおられる皆さんも、子供がオギャアと生まれた時から、

「よし、この子を殺人マシーンに育てよう!」

と心に決めて育てる人なんてないですよね。

『この子に良かれ、と思って』――それが全てだと思います。

なのに、なぜ間違うのか。

この『なぜ』が、他人は分かっても、親自身は気付かない。

私が、犯人の家庭環境に注目したのも、自分だって気付かぬうちに、厳しすぎたり、甘過ぎたり、子供のことを全然分かってなかったり、何か間違ってるかもしれないな、と思ったからです。

そういう意味でも、今回の事件は、犯人を責めるだけでは済まされない、何か大きな教訓があるような気がします。

ところで、一連の関連記事を読むうちに、私が一番違和感を覚えたのが、

『親の書いた作文で賞をとり、親が書いた絵で賞をとった』

という書き込みでした。

こちらの動画にも、

「受験戦争の世の中で、親が作文を書き、絵を描き、自由研究をするのは当然です。周囲も当然です。子供の成績は親の成績と表現されています」

「私も子供の作文や絵を描いて、子供に賞を取らせておりました」

という視聴者からのFAXが紹介されています。

『狂気の原点・母親の後悔』http://www.youtube.com/watch?v=nWhHIEwyU3E

子供が勉強や宿題に苦しんでいたら、横から手を出したくなるのは親の情ですよね。

作文でも、習字でも、数学でも、社会でも、

「そこは、そうじゃないでしょ!」

と、横からペンを取り上げ、親がささっといい具合に直したくなる気持ちはよく分かります。

しかし。

親が子供の土俵に上がり込んで、背中から押し出すような真似をしたら、自分の力で正々堂々と取り組んでいる子供達の努力はどうなるのでしょう。

どんなに絵や作文が苦手でも、親にやってもらおうなどと露ほども考えず、半泣きになりながらもやり遂げた子供たちについて、何とも思わないのでしょうか。

自分の子供さえいい点を取れば、それでいいと?

それに、手伝ってもらった子供自身も、心底誇らしい気持ちになるとはとうてい思えません。

大人だって、社内研究のレポートをほとんど上司が仕上げて、それを自分の名前で発表して、高い評価を得たところで、胸の晴れるような思いはしないんじゃないでしょうか。

「自分が得する為なら、人をも欺く」ということを親自身が教え込んで、一体、どんな倫理観や思いやりが育つのか、私はそこに、どうしても、「親バカ」を超えた、底の浅い利己主義を感じずにいないのです。

若者の凶悪事件が起き、その背景に「教育熱心」「有名校へのこだわり」など、勉強第一のエリート志向などが明らかになると、決まって、批判の声があがります。

でも、多くの人が嫌悪せずにいないのは、「有名校」や「受験」そのものではなく、『自分の子供さえよければ』という親の利己主義ではないかと思います。

たとえば、有名校の受験。

何かと批判の声もありますが、私だって、日本に暮らして、それなりの経済力に恵まれ、地元の公立が荒れていると聞けば、やるかもしれません。

親として、子供に上質な教育環境を与えたい、将来に役立つ力を身に付けて欲しいと願う気持ちは誰しもですし、その為に、早い時期から、子供の教育に熱心になり、それがどんどんエキサイトする気持ちも分かるような気がします。

それが押しつけではなく、子供自身が積極的に努力している限り、そのこと自体は責められるものではないですし、力のある子は、どんどん上を目指して、頑張ったらいいと思うんですよ。

ただ、そうした努力、頑張り、その結果としての成功を、親や本人がどう受けとめるかで人間性や社会性も全然違ってくると思うのです。

確かに、寝る間も惜しんで勉強して、高い学力を身に付け、希望の職種やステータスの高い仕事に就くのは、本人の努力によるところが大きいですよ。

それについては本当にえらいなぁと思うし、学生時代、なまくらと過ごして、まともに勉強もしなかった人と将来に差がつくのは当然だと思います。

しかし、勉強を頑張るにしても、決して子供一人の力で成り立ってるわけではないですよね。

有名校を受験するともなれば、「学校から支給される教科書一つで事足りる」ということなどまずあり得ませんし、学費、仕送りなど、生活の不安にさらされることもなく安心して勉強に打ち込める環境があるかどうかは、親の経済力によるものが大きいと思います。

また、

・本人が健康である(病気で受験どころではない子もたくさんいます)

・両親が健在である(父の病死、母の入院など、子供が精神的・経済的に受けるダメージは大きいです)

・介護、闘病、リストラ、離婚といった、家庭の問題に左右されない(子供の学業には直接関係なくても、精神的にプレッシャーを与えることがあります)

・地理的に高い教育を受ける環境に恵まれている(どれほど優秀で、そこに通える実力があっても、『遠方』というだけで断念せざるを得ないこともあります。地元にいい学校がたくさんある、というのも幸運な要素の一つだと思います)

・教師が良い(学生時代は教師の一言で変わることがあります)

など、「本人の努力」だけではない、様々な要素が絡んでいるものではないでしょうか。

たとえば、私の通っていたピアノ教室には、ずば抜けて上手い子がいました。

本人も大変な努力家で、「ピアノは一生続けたい」というぐらい音楽の好きな子でした。

そして発表会を聞きに来た先生の先生が彼女の演奏に惚れ込み、彼女の家まで行って、

「ぜひ私に指導させて欲しい。お嬢さんには本格的なピアニストを目指すだけの素質がある」

と両親に申し出たほどだったのですが、両親の返事は「No」。

娘に本格的な音楽教育をつけるだけの経済力がなかったからです。

ピアニストを目指すとなれば、レッスン料もばかになりませんし、一日たっぷり練習するとなれば、隣近所に迷惑がかからないような住環境も必要です。

どんなに実力があっても、本人が勉強したいと思っても、それをサポートするだけの経済力がなければ、叶えられない事もあるのです。

『○○大学に受かったのは、自分に実力があったからだ』

確かにそうかもしれない。

でも「本人の努力」以外の要素で成し遂げられた部分もたくさんあるはずです。

言い換えれば、世の中には、努力以外の要素で涙を呑んでいる人も少なくないわけで、そうした部分に思い及ばず、「全ては自分の力による」「出来ないヤツは元々がダメなんだ」と自惚れた時に、人間の尊大さ、傲慢さというのが剥き出しになるのではないでしょうか。

もちろん、それを子供自身が学び取る――というのは難しい話です。

子供はやはり自分の暮らしている環境、与えられたもの、親の価値観を当たり前のように受けとめていきますから、「お母さん、あの進学校に行きたい」と言ったら、ポーンと何十万もの学費が出てくる日常で、あるいは、家庭内に病気もなく、災いもなく、来年も再来年も、安定した生活が開けているような雰囲気の中で、それが叶わない人達のことなど想像もつかない、というのが本当だろうと思います。

だからこそ、親がそういうことも説明してやらないといけない。

それは何も、「何十万の学費を出してやるんだ、ありがたく思え」と、親に対する敬意を強要しろ、という意味ではありませんし、世の中の弱者・貧者に手を合わせながら生きて行け、と言いたいわけでもありません。

ふとした時に、世の中のいろんな実情を話してね。

たとえば、

「今は時代が厳しいから、学費も十分に捻出できない家庭がどんどん増えてくるかもしれないぞ」とか、「この地震で親を喪った子は、周りから支援を得て、やっていけるのかなあ」とか。

ニュースを見ながら、あるいは新聞を広げながら、

「もし、お前がその立場だったら、お前ならどうする?」

と、考えるきっかけを与えることは簡単だと思います。

親もその場で正解を答える必要はないです。

ただ、子供の目と心を向けるだけで十分です。

それは時間をかけて心の中で醸成されて、何十年か先に必ず「生きた哲学」として、その子自身はもちろん、周りに対しても生かされることでしょう。

それは即ち、『惻隠の情』―― 

世の中には、努力に努力を重ねても、報われない人がいる。

胸を張って、自分の学歴や勤め先が言えない人がいる。

思わぬ不幸で、自分の望まぬ方向に流れざるを得なかった人がいる。

苦しい境遇から抜け出したくても、そのキッカケが掴めない人がいる。

そうした人たちに対する想像力、思いやり、気遣いなどを育み、将来、事業や学術の分野で成功を収めた時も、懐の深い、真に頼るに足るリーダーとして、社会に貢献するのではないでしょうか。

今回の事件では、犯人が県下一の進学校に入学したものの、「優等生から落ちこぼれの側に回った」というのが大きなターニングポイントでした。

その「落ちこぼれ」に対して、「無価値」「否定」の価値観を最初に植え付けたのは何なのか、想像すれば、利己的なエリート教育の落とし穴が見えてくるのではないかと思います。

この学歴社会と教育制度を変えることはできなくても、親子の価値観を変えることはできます。

学校という、子どものフェアな社会に大人が土足で踏み込んで、

「子どもの代わりに宿題を仕上げるのは、受験生の親として当たり前だよね♪」

などと言い放つ利己主義から正さないと、それはいずれ回り回って、我が子の幸せを脅かすようになるのではないでしょうか。

☆彡 

この事件に関しては、前にも紹介しました、家族カウンセラー・中尾英司さんのブログ『あなたの子どもを加害者にしない為に』に詳しい分析がアップされています。

興味のある方は、ぜひご一読下さい。

http://nakaosodansitu.blog21.fc2.com/category19-1.html

◆━━━【 編集後記 】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆

それにしても、ビックリしました。

今は、子どもの宿題も、親が仕上げるのが当たり前のように行われているのですか。

時々、子ども向けの雑誌に、「絵画コンクール」の作品が掲載されていて、文部大臣賞の作品など見ますと、本当に上手だな~と感心することしきりだったのですが、「これも親が描いてるのかしら」なんて思うと、気味悪いですよね。

今回の事件で、みんな犯人を詰ってますけど、子どもの名前を語って親の作品を提出して、「賞を取った~」なんて喜んでいる親も、利己主義という点では、五十歩百歩だと思いますよ。

他の子の存在を何だと思ってるんでしょうね。

腹立ちを通り越して、なんか、コワイです。。。

【2009年2月14日 追記】

こちらに、大学教員の管理人さんによる、京都大学工学部工業化学科の学生にあてたメッセージを紹介します。

ぜひ全文をご覧になって下さい。

『monologue.chase-dream.com』 年収300万円時代の社会と自分

大学が果たすべき役割やエリート教育についての私の考えは,これまでにも書いてきた.

2000年12月15日(金)の独り言「学生へのメッセージ」には,次のように書いてある.ここで対象としている学生は,京都大学工学部工業化学科の学部生である.

『 君達は,少なくとも見栄えのする大学にいることは事実だ.数年先に,有名な大企業や中央官庁に勤めることもできるだろう.それは,世間一般の感覚でいうエリートコースに乗っているということだ.つまり,君達はどうやらエリートらしいのだ.では,なぜ君達はエリートになってしまったのか.そのために何か努力をしただろうか.京都大学の難しい入学試験に合格したから,という回答があるかもしれない.では,その難関を越えてきた大学生は,自分だけの力で合格したのだろうか.個々人については知る由もないが,一般的に言えば,有名私立学校や塾などで英才教育を受けてきた人が多いのではないか.そういう教育を受けるのには,ある程度の資金が必要だし,そういう教育を受ける機会が同年代の日本人すべてに与えられているだろうか.言い換えれば,たまたま生まれた家が良かったから,京都大学に入学することができたし,大企業でそれなりに出世する道も開かれているし,高級官僚になるチャンスもあるということではないだろうか.もちろん本人の努力や能力も必要だが,真に公平な競争を勝ち抜いてきたと言えるだろうか.

社会的に上流あるいはエリートと見られる階層にいる人々の子供は,より高い確率で一流大学に進む.これは調査から明らかな事実である.そうして,社会的階層が固定化されていくのだとしたら,これは既得権益みたいなものでしかない.勉強もろくにしないで一流と世間が思い込んでいる大学を卒業し,大企業に就職して楽な人生を歩みたいと考えている学生がもしいるとしたら,その精神は,天下り先の特殊法人などで税金を食い荒らす役人のそれとどう違うのだろうか.

日本でも外国でも,機会の均等など存在しない.それだからこそ,社会的に上流あるいはエリートと見られる階層に所属している人々は自覚を持って欲しい.高い地位に伴う道徳的・精神的義務をNoblesse Obligeというが,この感覚を学生諸氏には是非身に付けて欲しい.

ある人が偉い人には2種類あると言った.本当に偉い人と,偉くなってしまった人である.学生諸氏には,日本の将来を担う偉い人に是非ともなっていただきたい』

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