それでも才能が欲しい? 才能とか適正について

「才能があればいいのに!」

誰もが一度は才能に憧れ、才能を求める。しかしな、才能なんて、有るだけ厄介だぞ。才能ゆえに、魂の平安を欠き、人並みな暮らしから見離され、自己実現に全てを捧げ、才能の為にしか生きられなくなる。そんな人生が、本当に薔薇色だと思うか?

……と、友人Xに言ったら、「それでもいい! 才能が欲しい!」という答えが返ってきた。

だけどな、「才能が欲しい」「私には才能が有るのかしら?」なんて考えるうちは、才能なんて無いんだよ、ホント。本当に才能があれば、一も二も無く、才能の為に生きている。疑いもしないし、迷いもしない。誰に教えられずとも、自覚している。そういうものじゃないか。

……と、友人Xに言ったら、「だけど、何も無い人から見たら、有る人って、羨ましいんだよネ」という答えが返ってきた。

じゃあ、才能って何なのよ。何がそんなに羨ましいのよ。私には才能なんて無い、って言うけど、そもそも実体の分からないものを、どうやって有るとか無いとか見分けるの?

……という話から、才能談義はじまり。

「才能」──それは、持って生まれた脳味噌の質と、特異的領域への絶え間ない刺激を意味するのではないかと思う。

人間は脳味噌で生きる動物だから、何が特異な才能が欲しいと思えば、絶えず刺激を与え、支配領域を平均以上に発達させればいい。音楽なら、音。絵画なら、色や形。それらを司る領域は誰にもあるのだから、毎日毎日刺激を与え続ければ、シナプスも喜んで増殖してくれる。そのうち、自分でも思いがけない能力を身に付けることが出来るだろう。

「才能」というと何か天から与えられた超能力のように思い込むから、誰もがその言葉の前にたたずみ、諦め、溜息を吐くのではないだろうか。あれは脳味噌の働きなんだ、絶えず刺激を与えれば、誰だって特異的領域を伸ばすことが出来るんだ、と思えば、気楽に取り組める。単純に言えば、「誰だってやれば出来るんだ」。

「才能」が、「特異的領域の発達」なら、「努力」は「絶え間ない刺激を与え続けること」だろう。脳味噌も生まれては大量に死んでゆく細胞の塊だから、刺激を断てば、あっという間に萎んでしまう。実際、一日に何百万と壊れてゆくらしいよ、あれは。しかも一生に使う細胞の数は限られているしね。使わなければ、もったいない。鍛えないのは、もっと惜しい。

別に何でもないのよ、「才能」なんて。誰だって鍛えられる鋼みたいなもの──それを、怠け者は一朝一夕に欲しがり、すぐに結果が出ないと鍛えるのを止めてしまうだけの話。

誰だって、初めは「無い」。涙が出るほど、下手で未熟。そして物事を始めてから一年二年という歳月は、気の遠くなるような地道な作業と不安の中で過ぎてゆく。ダヴィンチだって、最初から名画が描けたわけじゃない。「モナリザ」の下には、何百万、何千万という習作や失敗作が屍となって支えているのだ。

そういうプロセスを飛び越して、一朝一夕に栄冠を勝ち取ろうなんて、甘い甘い。たとえ何かを手にしても、金メッキの王冠で、すぐにボロが出てしまう。

前に絵画教室の先生が言っていたが、「み~んなデッサンの段階で、根性なくして、やめていくんですよねぇ。これからが面白いのに」基礎デッサン講座をクリアして、前に進む人は全受講者の五分の一で、それから更に描き続ける人は、一割にも満たないという。み~んな筆を折ってしまうそうだ。まだ基礎も色彩も習得していない段階で、できない自分に耐えられなくなり、「どうせ私には才能が無いから」と溜息だけ残して降りてしまうのだ。──才能の有無を見極める以前の段階で。

私が一番ずるいと思うのは、自分では何一つ歯を食いしばるような努力をせず、何か出来る人の肩を掴まえては嫌みや泣き言を並べ、自分の怠けを慰めてもらおう、正当化してもらおうとする事だ。

一生懸命やっても、なかなか実らない苦しさに嗚咽するのは構わない。でも、自分からは何もせず、自分には何も無いと嘆くのは、慰めようがない。

ある意味、才能とか適性とかいうのは、地道な基礎づくりに耐えられる「好き」な気持ちを指すのかもしれない。絶え間ない刺激を与えるにも、「好き」=それを求める「欲求」が無ければ続かない。「絵を描くのが好き」=「絵に関する刺激が欲しい」という、欲求と刺激の相互作用があって、脳味噌も生き生きと活気づくのかも。

自分の眠れる領域──大きな可能性を秘めた脳味噌の一部──に早く気が付き、絶え間ない刺激を与え続けることが、才能開花への近道だ。私だって出来る。あなただって出来る。誰でもやれば出来るのである。

……ところで。人並みはずれた才能を有すると、才能にしか生きられなくなると前に書いた。絶え間ない刺激が特異的領域を過度に発達させるなら、その欲求も発達の度合いに応じて増大する。絵描きなら、絵への欲求が、「食べたい」「飲みたい」「遊びたい」というあらゆる欲求に勝るのだ。人生において、絵への欲求が常に第一位を占めるようになると、本人が望む望まざるに関わらず、絵に向かって生きるようになる。脳味噌が、いかなる状況においても、それを欲するからだ。「才能にしか生きられなくなる」というのは、刺激と欲求の相互作用が、その一点だけ過剰な状態になることではないかと思う。そして、それだけの作用を、脳味噌の特異的領域が有するということは、すなわち、

一も二も無く、才能の為に生きている。疑いもしないし、迷いもしない。誰に教えられずとも、自覚している。

という事ではないかと、『ガラスの仮面』を読みながら思った。 どうなる、紅天女?!

ともかくね、「才能が有る」だの「無い」だの、ごちゃごちゃ悩む前に、やんなさいって!今日できる事から始めなさい、って!才能なんて、後からいくらでも付いてくる。あれは脳味噌の刺激 → 発達 に他ならないんだから。

最後に中谷彰宏さんの言葉を──

夢を実現する人のカレンダーを見ると、
最高の日と最悪の日が書かれています。
あなたは、今、何かをしようとしています。
それをするのに最高の日は、いつも今日です。
最悪の日は、いつも明日です。
早くしないと、最高の日は、最悪の日に変わってしまいます。
何もしないで一生を終わる人のカレンダーでは
最高の日は、いつも明日です。
そして結局、何もしないで終わるのです。

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