育児と家庭

子供がいても老人ホーム

2010年11月10日

【追記:2010/11/10】

11月11日、ダイヤモンド・オンラインというニュースサイトに次のような記事が掲載されました。

悲惨な“男おひとりさま”と“予備軍”が急増中!30代からでも早すぎない、「老後の準備」と「覚悟」――『東京大学大学院 上野千鶴子教授インタビュー』より

あなたは、「老後は妻と2人でのんびりしたい」「オレは長生きしないで、“現役”のうちに死にたい」などと思ってはいないだろうか。妄想を抱くのは構わないが、現実はそんなに甘いものではない。定年後、妻や子どもが相手にしてくれないだけに留まらず、挙げ句の果てには妻に先立たれ、“おひとりさま”になる恐れもある。また、独身者であれば、この先一生“おひとりさま”の可能性も決して低くない。にもかかわらず、冒頭の“妄想”のように、「おひとりさまの老後」に対する想定をしていない人が多いのが現実だ。

<以下、上野さんの意見を抜粋>

昔は“家族頼みの社会”であったため、高齢おひとりさまは、「家族からはみ出した高齢男女の不幸」と捉えられていました。つまり、家族のいない、子どもに頼るという選択肢のない年寄りは、“惨め”の代名詞とされていたのです。しかし、現在では子どもがいたとしても、「おひとりさまの老後」は必ずしも幸せとはいえません。

また、「子どもとの関係」も非常に重要な要素です。女親が1人残った場合には、子どもが世話をする可能性が高いのですが、男親だけが残った場合はそれまでの関係がうまくいっていないことが多く、子どもが父親を施設に送るのを躊躇わないケースも少なくありません。日本は“夫不在の母子家庭”といわれることもあるように、父親として家族に関わってこなかった人が多いでしょう。家計を維持するだけでは、家族を維持したとは言えません。家族関係を維持するためには、時間と経験を共有し、“メンテナンス”をしなければいけません。それをしてこなかったツケが、「おひとりさまの不幸」を生むのです。

 さらに、子どもと関わっている人であっても、間違った関わり方をしているケースは少なくないでしょう。支配的・抑圧的で、家族が誰も寄ってこない、“家庭内おひとりさま”もいます。一緒にいても話題がなく、それどころか直前まで和んでいたのに、父親が帰って来たとたんに緊張が走り、出ていくとほっとするということもあります。つまり、夫がいる間は家庭が「ハレ」つまり「非日常」になっているのです。

 それは、妻にとって家庭が“職場”になることを意味します。父親が出て行くと、“就業時間”が終わり、「ケ」に戻るようですが、家庭は本来「ケ」であり、心やすらぐ場であるはずです。それなのに、夫だけがくつろいで、家族がくつろげないのはアンバランスな状態です。そこに男性がおひとりさまになる根本的な原因があるといえるでしょう。

女性がソフトランディングするのは、“老後が早く来る”からです。それは、“社会的老後”で、しかも早くやってくるのは、女性差別の証拠。妊娠出産によって職場からリタイアを強いられ、子育てを終了したあとも社会にコミットする受け皿を女性は持てずにきました。夫の被扶養家族としてパート労働に就く女性は一種の年金生活者です。企業社会が女性の力を活かそうとしないなかであがきながら、ソフトランディングする能力を培ってきたといえるでしょう。好んでそうなったわけではありません。

ですから30代~50代の男性には、父親の老い方から目を背けずに、介護の機会が来たら、チャンスとばかりに逃避せずに参加してほしいですね。そして、男はどうやって老いて死んでいくのか、よく見つめてください。

女性男性にかかわらず、30代~40代の親世代を中心に、「将来、子どもに迷惑がかけたくないので、老後の準備は万全にしている。年取ったら夫婦でそろって完全介護の老人ホームに入るから大丈夫」といった意見を目にすることがあります。

子どもに迷惑かけたくない、自分たちの老後は自分たちで、という気持ちは分かりますが、果たして、人間というのは、そう理想通りに老いて死ねるものなのでしょうか。

私は長く看護の仕事をしていたこともあって、『どれほど強く、立派な人間であっても、老いることと病むことについて過信してはいけない』ということを肝に銘じてきました。

メディアに大きく報じられるようなエライ人でも一度病気になればベッドの上で大暴れ、一財産築いても、遺産相続をめぐって死ぬまで悶え苦しんだ人もあるし、難病になった途端奥さんに逃げられ、今まで顎で使っていた周りの者には見放され、一文無しになって孤独死を遂げた人もあるし。

30代40代の健康で気力も可能性もあるうちは、いくらでも大言をたたけるけども、70代80代になり、いよいよ足腰が立たなくなって、目の前に死が迫ってくると、どんな立派な人間でも平静では居られなくなる、ということです。そうじゃない人も稀にいるけども、たいていはそうじゃない。

淋しい。つらい。苦しい。眠れない。

朝から何軒も医院や接骨院をハシゴして、寝るのに睡眠薬が欠かせないようなお年寄りがどれほどいるか知っていますか?

みな若いうちは自信満々、何でも出来るような気持ちで生きてきた人たちです。

それでも足腰が弱り、子どもとも疎遠になり、社会との接点もなくなってくると、人間というのはどんどん変わって行くのです。

寝床から起き出し、台所に立って、やかんを火にかけ、一杯のお茶を飲むにも一苦労するような身体になった時。スーパーから自宅まで500メートルの道程、トイレットペーパーとジャガイモ2㎏を抱えて歩くのも困難になった時、それでも「私は誰の世話にもならない。自分のことは自分で出来る」なんて気丈に思えるでしょうか。

私は若い人間の「何でも自分で」という考えほど思い上がったものはないし、老いや病を甘く見たツケは本人が考える以上に大きいものだと思っています。

だから「子どもの世話にはならない。老後も自分で面倒見る」なんて、考えとしては立派だけども、そういうことを自分にも周りにも宣言できるほど確信は持てません。約束もできません。

それを言うなら、「極力、子どもの世話にならないように頑張る。でも、何かの時は覚悟して欲しい」です。

どれほど老後の資金を貯めて、全面介護の施設に入ったとしても、子どもにまったく面倒かけることなく老いて死ぬことなどあり得ないし、自分が死んだ後、葬式を出して、あれこれ時間さいて墓参りしてくれるのは子どもだから。

そこまでキレイすっぱり割り切って、「自分の老後は自分で」なんて言えるものなのかな、と不思議に思うんですね。

あるいは「私も年取った親のことで迷惑かけらえるのは御免だから、子どももきっといやに違いない」という計算もあるのでしょうか。

正直、何十年と信頼関係を築いて、最後は「金」と「面倒」で終わるのも空しい気がします。

だから、親自身はもちろん、子どもにも、ある程度の年齢になったら、「老いること」「死ぬこと」についてしっかり教えた方がいいし、覚悟もさせた方がいいと思うんです。

それは「年取ったら面倒見てね」じゃなくて、「いつかこういう現実に直面する日が来る」という意味です。

ミドルエイジになっても、まだ親も自分も永遠に若いような気持ちでいて、「人が老いて、ひとりぼっちになって、一人でトイレにも行けない」という状態を想像すらできない人もあるでしょう。

どんなにお金があっても、立派な施設で面倒見てもらえても、最期は『心』だけが残るのです。

その心を救う術がなければ、どんな大理石のベッドで寝ても意味ないんですよ。

そういうことも考えたら、「老後の面倒」って、ただ単に、金や人手の問題だけではないことが分かってくる。

突き詰めれば、親子の絆の問題です。

老後のことを金や施設のレベルだけで語っていると、子どもだって、年老いた親を「金のかかるモノ」としか見なくなる。

そういうものじゃないでしょうか。

だから、子どもにとっては厄介な現実であっても、「最初からあなた達の世話にはならない」より、「面倒かける事もあるかもしれない」と、しっかり話し合う方がいい。それを若いうちからどれだけ想像できるかで、親のことはもちろん、自分自身の人生を考える上でも大きな糧になる。

だんだん世代間が孤立し、若者がお年寄りの生々しい現実を知る機会も失われつつある今だからこそ、余計でそう思うんですよ。

避けられない未来をどれだけリアルに考えられるかで、生き方まで変わってくるものですから。

そんなわけで、老後や介護なんて負け組の話、金さえ貯めれば何とかなる、と思っている方は、少しずつでも子どもと自分たちの老後について話し合うことをおすすめします。

どんな人間も、予定通りに老い、予定通りに死ぬことなど、絶対に不可能なのですから。

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【初稿:2008/4/22】

2002年、東欧に移住する準備期間中に、2ヶ月ほどですが訪問入浴のアルバイトをしたことがありました。

寝たきりのお年寄りの家を訪問し、入浴させるサービスです。

男性のオペレーター(ミニバンを運転し、訪問先でバスタブやホースなどをセッティングする係)と女性ヘルパー(入浴介助)、看護婦の3人1組で、一日に5~7軒ほどののお宅を訪問するのですが、入浴介助は言うに及ばず、大人の背丈
ほどあるバスタブや長いホースを運搬する作業は想像以上に大変なもので、30代から40代の体力自慢の男性でも腰を痛め、「いつまで持つか、転職するか」と危機感を持つほどでした。

私は派遣会社のアルバイターでしたから、正職員ほどに強い不安を覚えることはありませんでしたけど、従業員がバタバタやめていく一方で、入浴希望者はひけをとらず、このままいったら日本の老人福祉はどうなってしまうのだろうと思わずにいなかったものです。

それにしても驚かされたのは、寝たきり老人の多さでした。

車で5分ほど走った先に一人、また一人とお年寄りがいて、その多くが、骨折や手術など大病をした後、入院先もしくは自宅で寝たきりになってしまい、そのまま認知症などを併発するケースでした。

それも大きなお屋敷に住んで、お年寄り専用の部屋があるならともかく、中には古いマンションの最上階に住み、ベッドを入れたらカツカツになってしまうような小さな部屋でじっと寝たきりになっている方もあり、家族にしてみたら、言葉に言い表せないような負担だろうと痛感したものです。

しかし、一方で、援助する側の方が救われるような明るいご家庭もあり、人間、そして家族というのは、ここまで強くなれるものか――と感動させられることもしばしばでした。

立派な部屋をあてがわれながら、部屋中、埃だらけで、ベッド周りは食べ散らかしたものでベトベト、業者がやって来ても顔も出さない息子夫婦(もちろん、そうなった経緯も様々でしょうけど)もあることを思うと、狭いマンションの一室でも、手作りの枕カバーやニット編みのガウンを揃えたりして、一所懸命に看ておられる奥さんというのは、本当に神様か菩薩のように見えます。
それだけ、姑さんに大事にされた思い出もあるのかもしれませんが、口先だけの親切やガンバリズムで出来ることではないです。

ところで、私が最近読んでいる『婦人公論』や、ネットの記事などを読んでいますと、『子供がいても老人ホーム』的な考えが、この頃、いっそう強くなってきているのかな、と感じます。

言葉のニュアンスは非常によく分かります。

働き盛りの子供の手を煩わせたり、嫁と気まずくなってお互いに不快な思いをするよりは、夫婦二人でのんびり気楽に、寝たきりになってもお金を払って、人を雇って、割り切って――という気持ちになるのも当然と言えば当然かもしれません。

しかし、一方で、こうも思うのです。

子供に期待して裏切られるのが辛いから、先回りして、「自分たちのことは自分で始末する」みたいになっている部分もあるのかな、と。

確かに、姑の立場になれば、心もとないことってたくさんあると思います。

実の娘でも、いろんな状況を考えたら、口に出して言えないことってたくさんあるでしょう。

でも、基本的にね。

実親であろうが、義理の親であろうが、「年老いた親を看る」というのは人としての道だし(いろんな経緯はあるにせよ)、子供に対して、先回りするように「あなた達の世話にはならないから」と宣言するのもどうかな、と思うのです。

もちろん、完全同居で、地獄のような思いをして、この上にまだ寝たきりの介護をさせられるのか――と思ったら、死にたくなるような立場の方もたくさんおられるでしょう。

そうした、最低最悪の、「相手が死ぬか、自分が死ぬか」ほど深刻なケースは別として、まあ、そこそこに上手くいっているような状態ならば、私は、そこまで躍起になって「老後の自立」に固執することもないように思うのです。

何故かと言えば、年をとった親の世話をするのは当たり前のことだから。

私は、やはりこれを抜きにして、人の道を全うすることは出来ない――という考えているのです。

だからと言って、子供達に「絶対に面倒見てね」と依存すればいい、と言いたいわけではないです。

基本的には、自分たちの老後は、社会的にも、経済的にも、精神的にも、自分たちで何とかするという姿勢で間違いないと思います。

でも、いろんな理由があるにせよ、「絶対にあなた達の世話にはなりません」と完全に線を引いてしまうものでもない。

やはり縁あって「親子」と名の付く間柄になったからには(実親でも義理の親でも)、最後まで力を尽くすのが本当じゃないかと。

それを経験すべきではないか、と、私は思うわけです。

たとえば、私の知っているポーランドやアメリカのお年寄りに限って言えば、老後の世話がどうのこうの、なんて話、ほとんど出てこないです。

子供や息子夫婦の世話になりたくないから必死で貯金してます、なんて人も無いし、子供が生きて、側に居るのに、「世話をかけるのが申し訳ないから、ホームに入ります」なんて話も聞いたことがないです。

中には、老後は五つ星リゾートみたいな施設で優雅に暮らしたいという人もあるようですが、直接の動機は「子供に迷惑かけたくない」というような感じではないです。

そうしたお年寄りの姿を見ていると、「子供に迷惑かけたくないから」「世話になりたくないから」といった、遠慮や拒絶の動機からせっせと貯金したり、ホーム入りを希望したりするというのは、どこか不自然に感じずにいないです。

自分で育てた子供なのに、どうしてそこまで遠慮するのかな、と。

そして、子供の方も「やったー、ラクできるー」と万歳三唱するんでしょうか。

お嫁さん相手には言えないにしても、せめて娘や息子には、自分の抱えている不安とか淋しさみたいなものを伝えていいんじゃないかと。

そこで気張って、自分の方から線を引こうとする親の気持ちがどうにも分からないのですよ、私。

まあ、子育て3年目の若輩者ですから、そのあたりの心理を理解するにはまだまだ経験が足りないのかもしれませんが。

ともあれ、「地獄に身を置いている」ような方は別として。

自分もちゃんと親の老後を見る代わりに、自分も年をとったら子供の厄介になる――ぐらいの気持ちでいいんじゃないかと私は思います。

経験させましょうよ、後々のために。

私は、看護婦時代に、重病人を抱えた家族の苦しみを見、寝たきり老人を抱えたいろんなお家を訪問してみてつくづく思うのですけど、やはりこういうことを避けて通ろうとするのは間違っているように感じます。

恩返しとか親孝行とか、そういうものではなく、「人の道」の話です。

もちろん、中には、自分が介護の苦労を骨の髄まで味わったから、我が子には絶対にこんな事はさせたくない、という方もいらっしゃいます。
それはものすごく理解できます。

でも、家族関係の煩わしさを避けるために最初から防護壁を立てておくというやり方は、一瞬、ラクに感じても、いよいよという時、必ず後悔するのではないかと思います。

たとえ、「あんな嫁、キライ」「我が子とも関わりが絶ててせいせいした」と思っていたとしても、最後の瞬間には、まともな家族関係を全うできなかった自分の人生、そして自分という人間の器を悔い、責め、救いようのない煩悶に苦しめられそうな気がします。

世の中には、「一人で生きる」「一人で死ぬ」ということをものすごくイージーに考えている人もありますが、若い頃の一人暮らしならともかく、年をとってからの一人暮らし、まして一人ぼっちで死ぬなんて、普通の人間に耐えられることじゃないですよ。

私は高校を卒業してから、トータルで14年ほど一人暮らししていたのですけど、熱が出て、頭がクラクラしているような時でも、一杯のお茶を飲むために台所に立ち、ポットにお湯を沸かし、急須とお茶の葉を用意して……って、それだけの事で心身ともにどっと疲労してしまうこともありました。

でも、私は若かったから、「あたしって悲劇のヒロイン~♪」みたいに余裕をかませる部分もありましたけど。

これが70歳、80歳の、足腰の悪いおばあさんで、町を歩いても誰にも話しかけてもらえないような状況だとしたら、その不安、孤独感、みじめさって、物の比ではないと思います。

そんなになっても、「絶対に子供の世話にはならない」と気張っていられるものでしょうか。

子供との何気ない会話や、孫の笑い声に何の未練も感じずにいられるものでしょうか。

私は、独身時代の失恋や失業、病気、不動産トラブルなどを通して、一人で生きていくことの大変さを骨の髄まで味わった方ですから、「老後も一人で大丈夫」という事は絶対に言えません。

「明日から生活はどうなるんだろう」という不安の中で、夜の闇がズシーンとのしかかってくるような孤独感や、人のいない部屋でミシミシと変な音が聞こえる恐怖、真夜中の地震や、病気でしんどい時でも自分で買い出しに行かないと生活が成り立たない苦労とか、そういう体験を思い返したら、老後の一人暮らしなんて発狂もんだなーと思ってしまうんです。

とりわけ、阪神大震災の時、「このまま建物に押し潰されて、一人ぼっちで死ぬかもしれない」と戦慄した時は、「一人でも平気♪」なんて自惚れていた自分を心底戒めずにいませんでした。

「一人」というのは、健康で、お金もあって、遊び相手もたくさんいるから楽しいのであって、そうした支えが無くなれば、やはり精神的に大きなダメージを受けるものだと私は思います。

だから、自分という人間を自惚れて、「お前達の世話にはならない」と突っぱねるものではないし、まして親子なら、介護ということも覚悟させておくのが本当じゃないかな、と思ったりします。

もちろん、自分も覚悟してね。

不思議とね、一所懸命に介護されている方は、自分自身の老後にそれほど不安を感じておられないのですよ。
本能的に、「自分の番になったら、どこからともなく助けがある」ということを確信しておられるような感じです。

自分が一所懸命にしてきただけに、他人のことも同じように信じられるし、またそういう人を周りも放っておかないのです。

やはり、自分の母親が、ウンチまみれ、汗まみれになって介護している姿を見ている子供というのは強いですよ。

「介護、介護で、あまり子供にも構ってやれなくて」と仰る方もありますが、このお母さんは、学校も塾も、誰もが教えられないようなことを身体張って教えてるわけですからね。
そういう家の子は、「おばあちゃん、クサイ」と思っても、自分の母親は裏切りません。
「今度は自分の番」って、どこかで覚悟が出来るんです。
大変な人生経験だと思います。

逆に、避けて通ってきた人間というのは、他の人も自分を避けて通るような気がするから、猜疑心も強くなるし、人に甘えることも出来なくなります。
そうなると、周りもそうした気配を察して、心底から助けたいと思わなくなるんです。

因果応報――とでも言うのですか。

その時はラクできたように見えても、必ずどこかでツケは回ってくるんです。

今って、「自分の好きなことをして生きればいい」という教えが主流でしょう。

私もそう思っていましたし、それが人生で一番価値のあることだとも思っていました。

でもね、人間って、一生に一度は、「自分以外の誰かの為に尽くす」という体験をしなくてはダメだな、と思うんです。

子供は、自分が産んだのだから、一所懸命に取り組むのが当たり前だし、ダンナは、自分が好きで一緒になったのだから、最後まで頑張るのが当然。

だから、それ以外の「誰か」。

実の親でもいいし、義理の親でもいい。

きょうだいでもいいし、伯父さん伯母さんでもいい。

自分の生活を後回しにしても、誰かの為に一所懸命に尽くす体験をしないと、人間としての一生を全うした――という気持ちにはなれないように感じます。

だから、子供にもそういう体験をさせた方がいい、というのが私の話の主旨です
「親なんだから、頼ればいいじゃん」という意味ではないです。

私も、実親、義理の家族、子供のない伯父さん伯母さん夫婦のことなど、いろいろ思い巡らすことがあります。

もしかしたら、子育てが一段落して、「やった~、自由だ~」とバンザイした時に、そういう役回りが回ってくるかもしれません。

でも、どういう経緯を辿ろうと、人間として悔いのないようにやりたいな、と。

自己満足ではなく、「もうこれ以上は力を出せない」というところまで力を出しきって初めて、通じるものがあるような気がするからです。

それでもやっぱり「子供の世話にはならず」生きたいですか?

私は、自分に何かあった時、すぐに駆けつけてもらえるような親(人間)として生きたいです。

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