バレエ&オペラ&クラシック

映画『Shine』とラフマニノフ ピアノ協奏曲第3番

2010年5月2日

ロシアの偉大な作曲家、セルゲイ・ラフマニノフ Sergei Rachmaninovは1873年ロシアに生まれました(1943年没)。
希代の名ピアニストでもあったラフマニノフは、名曲中の名曲『ピアノ協奏曲No.2』をはじめ、『交響曲No.2』、『ヴォカリーズ』、『ピアノ・ソナタNo.2』など、様々な傑作を残しています。
その哀愁に満ちた美しい旋律は、映画やCMのBGMとしても効果的に使われており、「曲名は知らなくても旋律は知っている」という人も多いのではないでしょうか。
誰もが生涯に一度は耳にするであろうラフマニノフの美しい音楽。
ここでは私の最愛の曲『ピアノ協奏曲No.3』と、これを題材にした映画『シャイン』をご紹介します。

【 ピアノ協奏曲第三番 】について

ラフマニノフは生涯に四つのピアノ協奏曲を書き上げました。
中でも最高傑作として知られている「第二番」は、世界中のピアニストがこぞって取り上げ、演奏会でもお馴染みのプログラムとなっています。
しかし、この後に書かれた【ピアノ協奏曲第三番】は、第二番に並ぶ優れた作品であるにもかかわらず、演奏される機会はうんと少なく、多くのピアニストがこの楽曲を前に足踏みしています。
それはこの曲が余りにも壮麗で、究極の技巧を要求される至難の大曲だからです。

「交響曲第一番」の不評から、作曲家としての自身を喪失し、強度の神経衰弱に陥ってしまったラフマニノフ。
しかしながら、彼は精神科医ダール博士の懸命の治療によって救われ、かの有名な「ピアノ協奏曲第二番」を書き上げました。
そして、その成功によって世界的な名声を得た彼は、アメリカの演奏旅行に招待され、この【第三番】の作曲に取り掛かります。

1909年、ニューヨークで、ラフマニノフ自身のピアノによって初演された【第三番】は大好評を博し、彼の名声を盤石のものにしました。
「第二番」のロマンティックで美しい世界をさらに昇華した【第三番】ですが、ラフマニノフが自らのテクニックを最高に発揮できるよう意図されたピアノ・パートは、いっそう困難な技巧が用いられ、ピアニストにとって一つの試石となっています。

現在では、ウラディミール・アシュケナージをはじめ、マルタ・アルゲリッチ、エフゲニー・キーシン、アレクシス・ワイセンベルク、エミール・ギレリス、ホロヴィッツといった世界に名だたるピアニストが、多くの優れた録音を残しています。

ギレリスのラフマニノフ

私が一番最初に聴いたのが、エミール・ギレリスの演奏でした。ギレリスの若かりし日の録音です。
ベートーヴェン弾きとして名を馳せるギレリスですが、こちらも非常に力強く、情熱的な名演です。

特に、第1楽章の独奏部――映画『Shine』の中で、デヴィッドが激しく陶酔してゆく非常に難解なカデンツァ――の怒濤のような展開に圧倒されること間違いなし。

YouTubeに全曲アップされているので、リンクを辿っていってください。
音質も非常にいいです。


音源はこちらです。

ラフマニノフ『ピアノ協奏曲第3番』、サンサーンス『ピアノ協奏曲第2番』他 

アシュケナージのラフマニノフ

世にラフマニノフの名盤は数あれど、「第3番」に関してはこのアシュケナージ盤がおすすめ。
少女漫画のようにロマンティックでありながらテクニックは上等で安定感がある。
第一楽章の独奏部のカデンツァなどは「竜崎麗華(お蝶夫人)・花の舞」といった感じだ。
「こだわり」のある人には物足りないかもしれないが、大衆受けするムーディーな演奏であり、初心者にはもちろん、耳の肥えたクラシック・ファンにも心地よい一枚である。
構えて聴くより、BGM的な感じでさらっと聴くのがいいかも。
特に第三楽章に関しては、アシュケナージの持ち味がいかんなく発揮されて、これ以上ない美しさに仕上がっている。
カップリングの『パガニーニ』もおすすめ。

映画『Shine』の物語

ラフマニノフの【第三番】を題材にした作品として、最も有名になったのは、1997年アカデミー主演男優賞をはじめ、数々の映画賞を総ナメにしたオーストラリア映画「シャイン」ではないでしょうか。

本国はもちろん世界中で絶賛を浴び、【第三番】はもちろん、モデルとなった実在のピアニスト、デヴィッド・ヘルフゴットの名を一躍有名にした映画「シャイン」は、ピアノとラフマニノフをめぐる彼の数奇な運命が描かれています。

★STORY★

オーストラリアに住む移民の子、デヴィッド・ヘルフゴットは、幼い頃より、厳格で音楽に造詣の深い父からピアノを教わっていました。
彼の才能に震撼した音楽教師は、「デヴィッドはコンクールで賞のとれる子だ。ぜひ、私に預けてください」と申し出ます
が、頑とした信念をもつ父はこれを拒み、あくまで自分自身でデヴィッドを育てようとします。

しかし息子にラフマニノフを弾かせたい父は、ある日、音楽教師の元を訪れ、「ラフマニノフを教えてやってくれ」と頼みます。
音楽教師は、「子供にあんな情熱的な曲は無理だ。まずはモーツアルトから……」と言い聞かせ、デヴィッドを預かるのでした。

デヴィッドはめきめきと上達し、数々のコンクールで入賞するようになります。
そんな彼にアメリカの音楽学校から招待が舞い込みますが、デヴィッドを手離したくない父は、息子の気持ちなどお構いなしに、これを撥ね付けてしまいます。

青年になったデヴィッドは、親交あるロシアの女流作家の支えもあり、ついに父から離れることを決意し、ロンドン王立学校に旅立ちます。
名教授の元で研鑚をつむデヴィッドは、ピアノ協奏曲コンクールの最終選考に残りました。

彼が選んだ演目は、「ラフマニノフの第三番」。
教授は、「第三番は大曲だ。正気の沙汰じゃない」と懸念しますが、「では正気でなければいいんですね?」とデヴィッド。

コンクールに向けて、壮絶な練習が始まりました。
絡み合う旋律、嵐のようなカデンツァ。
デヴィッドは全身全霊をかけて、この大曲に挑みます。

「まずは正確に暗譜を! 指使いを覚えるのだ! 目隠ししても弾けるように! そうすれば音楽は自然にハートからあふれ出す」。
教授の言葉どおり、目隠ししてピアノに向かうデヴィッド。
彼の頭の中は「第三番」で今にも弾けそうでした。



 

コンクールが近づくと、教授はデヴィッドに、「素晴らしい演奏をした記憶は永遠に残る。次は君の番だ」と言って励まします。
デヴィッドはステージに立ち、ピアノに向かうと、その鍛えぬかれた指先からラフマニノフの世界を見事に作り出します。

もはやこの世を離れ、音楽という至上の世界に全身全霊を捧げ尽くすデヴィッド。
彼の演奏は万雷の拍手でもって称えられます。


しかし、その直後、デヴィッドは張り詰めた心の糸が切れたようにステージに倒れてしまいます。
デヴィッドは傷つき、疲れ果て、父の元に返ってきますが、父は自分から離れた息子を決して許そうとせず、冷たく突き放します。

精神を病んだデヴィッドは十年間も病院で過ごしました。
ピアノを弾くことは禁じられ、外に出ることさえ許されません。

そんな彼を気の毒に思った婦人が彼を引き取りますが、もはや普通の日常生活さえままならぬ彼と一緒に暮らすことはできず、彼は新しい身元引受人に託されます。

が、そこでも夜中にピアノを弾きまくって引受人を怒らせ、とうとうピアノの蓋に鍵をかけられてしまう始末。
それでもデヴィッドはピアノを求めて、あるレストランに飛び込みます。

みずぼらしい闖入者に野次をとばした客たちも、彼の『くまんばちの飛行』を聴くやいなや、その素晴らしさに圧倒され、心から拍手を送ります。


もう何ものにも脅かされることなく、自由にピアノを弾ける場所を見出したデヴィッドは『輝き=Shine』を取り戻し、自分の為、そして聴衆の為にピアノを弾き続けます。

やがてデヴィッドは、生涯の伴侶となるギリアンと巡り合い、結婚。
彼女の深い愛に支えられ、再びステージに立つのでした。

映画『Shine』に関するCD・DVD

数奇な運命を辿った実在のピアニスト、デヴィッド・ヘルフゴッドの半生を綴った伝記的作品。
単なるピアニストのドラマを超えて、この映画の精神的シンボルである、ラフマニノフ ピアノ協奏曲第3番への思い入れたっぷりの作品に仕上がっている。
とりわけ青年期を演じるノア・テイラーの、ラフマニノフに陶酔していく演技が素晴らしい(とても吹き替えとは思えない熱演だ)。
第1楽章の難解なカデンツァに挑む場面は、ラフマニノフ・ファンにはこたえられない迫力だ。
また音楽の使い方も非常に効果的で、デヴィッドの弾く美しいアダージョをラジオで聴きながら、思わず涙をこぼす父親の姿には胸をしめつけられる。
ラフマニノフ・ファンのみならず、クラシックに興味のない方でも感動が胸を打つ秀作である。

ラフマニノフやショパンの名曲も聴き応えがありますが、映画のオリジナル・テーマも、しっとりとした美しい曲です。
また、彼の唯一の理解者だったキャサリンとの場面に流れる「話を聞かせて」も、心にしみるような一曲です。
オリジナルの音楽だけでも十分に堪能できるお薦めの一枚です。

消沈したデヴィッドの気持ちを表す淋しい旋律の後、キャサリンとの心の交流を物語るような温かく、優しいメロディーが流れます。短い曲ですが本当にきれいです。

★話を聞かせて、キャサリン


上記のサウンドトラックでは物足りない方には(名曲に関しては抜粋になるため)、こちらの全曲盤がおすすめ。
「ラフマニノフ ピアノ協奏曲第3番」はもちろん、「子供の情景」「くまんばちの飛行」「まことのやすらぎはこの世にはなく」など、あの印象的な旋律の全曲が収録されています。

ピアノとラフマニノフ【第三番】をめぐる創作の抜粋

概要をちょこっと説明しますと……

「エル(至高者)」の名を持つ建築家のロレンスさんは、すったもんだの末、「プシュケの女」と呼ばれる高級娼婦のレイアさんと結ばれます。
しかし、彼は自分の地位と名声と、彼女の名誉を守る為、彼女との関係をいっさい秘密にし、彼女を家に閉じ込めるようにして一緒に暮らし始めます。
彼は子供を強く欲していましたが、レイアさんの病気のせいで何年たっても子宝に恵まれません。
そんな最中、彼は出張先で一組の若い夫婦に出会います。
自分を敬愛する夫を尻目に、彼は美しい新妻を誘惑し、とうとう一夜を共にしてしまいます。

やがて彼は、彼女の夫を自分の助手に迎えますが、葛藤ゆえに相容れることが出来ません。
そして、夫は、彼の代理で赴いた建設現場で事故に巻き込まれ、命を落としてしまいます。

残された妻は嘆き悲しみ、一粒種の息子を抱いて運河に身を投げました。
息子の方は一命をとりとめますが、実はこの息子こそ、彼の血を継ぐ子供だったのです。

彼は「養子」として息子を引き取り、息子も周囲も欺きながら父子関係を築き始めます。

しかし父の後を継ぐことを拒み、好きな音楽の道を志す息子は、次第に父との関係を疑うようになり、嘘で固めた彼の城を崩しにかかるのでした……

*

「絵でも、音楽でも、自分を表現できるものがあるという事は良いことさ」と、彼は息子に言った。
「人間の欲求において最高のものは『自己表現』、その究極の形が芸術だからね」
「『自己表現』ってなあに?」
「自分の中の“自分らしさ”を形に表わすことだよ。お父さんはデザインの仕事をしてるだろう。あれだって、お金や地位の為にやってるわけじゃない。一つ一つの線や形に、“僕はこういう人間なんだ”“こういう理想や意志があるんだ”って事を表現する為にやってるんだよ」
「ただ単に絵を描いてるわけじゃないんだね」
「お前が本当の意味で音楽を奏でられるようになったら、お父さんの仕事もきっと理解できるようになるよ。“自分を表現する”という事がどんなに大切で、素晴らしいかも」
「じゃあ、僕、頑張って練習するね。誰よりもうんと上手くなって、お父さんをコンサートに招待してあげる。お父さんのデザインしたコンサート・ホールで、僕がピアノを弾くんだよ!」

【ジュピター、マーキュリー、美徳】Jupiter,Mercury,and Virtue ドソ・ドッシ Dosso Doss

【ジュピター、マーキュリー、美徳】Jupiter,Mercury,and Virtue ドソ・ドッシ Dosso Doss

「……あの子には本当に才能が有るんだろうか?」
ある晩、彼はレイアに聞いた。
「才能が無ければ、音楽の勉強をしては駄目なの?」
「駄目とは言わないよ。でも、音楽学校では音楽しか教えないだろ」
「好きな勉強ができるのなら、それで十分じゃないの」
「だけど、社会に出た時、“音楽しか知りません”じゃ、通用しないと思わないか?」
「その他の事は、後からゆっくり覚えても十分間に合うじゃない。意欲が有る時に、好きな勉強をさせた方が、よっぽどあの子の為じゃない?」
「……だけどね」
「あなた、まさか反対するつもりじゃないでしょうね」
「……」
「好きな道を志すのがどうしていけないの?」
「趣味でやる分には良いさ。だが、芸術として音楽を極めるとなれば話は別だ」
それがどれほど険しく、苛酷な道であるか、彼は知っている。建築の世界でも、音楽の世界でも、王道を目指して敗れ去り、悲嘆と絶望のうちに人生を終えた者がどれほどたくさんいることか。

芸術――それを志す者は多い。だが、天恵を受け、栄光をつかむのはほんの一握である。
いったん至高の光を目指し、王道を登り始めたら最後、世俗的な仕合せは捨て、絶対的な孤独の中で己の極限に挑み続けねばならない。
もし道半ばで切り捨てられたり、自分に天恵が無いことを思い知らされた時には、時の骸と永久の渇きをひきずって、一人暗がりの道を下って行かねばならないのだ。

それでも、建築の世界は資格が有るだけいい。
たとえ王道から外れても、資格さえあれば、どこででも仕事は続けられるし、一生の助けにもなる。
実績を積めば、それなりに世間の評価が得られるし、内容に見合った報酬を受け取ることもできる。
少なくとも、自分が学び、努力した歳月を、形に代えて未来に還元することができる。

だが、音楽の世界には何も無い。
才能が無ければ、それで終わりである。
もちろん、きちんと教育を受け、あるレベルにまで達すれば、それなりに活躍する道も開けるだろうが、それでも恵まれた境遇にあるのは僅かだ。
人に“上手いね”といわれる程度では、実社会に直結しないのが現実なのである。

中途半端に終わるくらいなら……人に“上手いね”と言われる程度で終わってしまうのなら、我を忘れてのめり込む前に見切りをつけた方が良い。
それこそ世界に名を馳すような大ピアニストになるならともかく、 “音楽しか知らない”人間的にも社会的にも偏った大人に育った日には、父子そろって世間のいい笑い者ではないか。

【 芸術と文学 】- Art&Literature -ウィリアム・アドルフ・ブーグロー William-Adolphe Bouguereau

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二週間ほど経った頃、彼が夜遅くまでアトリエにこもって新規プロジェクトのエスキス(下書き)を描いていると、スティーブがティー・トレイを片手にひょっこり顔を覗かせた。
スティーブはサイドテーブルにトレイを置き、小さい回転椅子に腰掛けると、ワーキングデスクに頬杖をついて言った。

「何描いてるの?」
「美術館だよ。ヴェダの文化庁から依頼があってね。契約がまとまれば、来年の三月頃には着工する」
「へえ。これ、美術館なの? 僕には落書きにしか見えないや」
父の白い製図用紙に描かれていたのは、形を成す前の線の束だったからだ。

彼は自分の額を指差すと、
「“形”は頭の中……これからここに立ち上げる」
するとスティーブはほんの少し顔をほころばせ、
「お父さんには見えてるの?」
「右も左も、外も中も……全部、はっきりと」
「どんな風に?」
「鮮明な写真を見ている時もあれば、一本の映画のフィルムが頭の中で回っている時もある。いろいろだね」

彼は紅茶を一口飲むと再びペンをとり、フリーハンドで幾重にも線を描き始めた。
スティーブは、父の指の滑らかな動きをぼんやりと見つめながら、バックに流れる曲に耳を傾け、
「ああ、これ……ラフマニノフの二番だね」とつぶやいた。
そして、父のワーキングデスクにうつ伏せるように身をもたせかけると、静かに目を閉じ、右の指先でメロディを奏でた。

「お父さんは、本当にラフマニノフが好きなんだね」
「お父さんのお父さんが好きで、よくレコードをかけてたからね」
「『お父さんのお父さん』も音楽が好きだったの?」
「バイオリンの名手だったよ。僕が子供の頃には、よくバイオリンを弾いて聴かせてくれた」
「なのに、どうしてお父さんは音痴になったの?」
「教会で讃美歌を歌わされるのが嫌で、わざと滅茶苦茶歌っているうちに、本物の音痴になったのさ」
「神の呪いだ」
「……かもしれない」
二人は顔を見合せて笑った。

【 詩人の霊感 】The Inspiration of the Poet- ニコラス・プーサン Nicolas Poussin

【 詩人の霊感 】The Inspiration of the Poet- ニコラス・プーサン Nicolas Poussin

彼は息いれて、紅茶をすっかり飲み干すと、再びペンを手にとった。
「建築の仕事は楽しい?」
「楽しい時もあれば、辛い時もある」
「でも偉いんでしょ」
「最初から偉かったわけじゃない。人に認められ、理解と協力を得られるようになるまでは、歯を食いしばって頑張った」
「……お父さんも、人に馬鹿にされた事がある?」
「あるよ。若い時はしょっちゅう」
「どんな風に?」
「『建築馬鹿』」
スティーブは声を立てて笑った。

彼はペンを走らせながら、
「今でこそライン・トラストも体質が変わったけれど、昔は、施工中心の総合建設業で、設計も『施工の為の設計』だった。いかにコストを安く上げるか、工法を簡素化し工期を短縮するか、会社に利益をもたらすか、損得計算ばかりで、設計者はみな『製図マン』と化していたよ。
もちろん施主の事を考えれば、限られた予算の中で最大限に良い物を提供する事が重要だし、会社の不利益になるようなことも極力避けなければならない。だからといって、デザインの本質を歪めるような物を作ってしまえば、施主にとっても、周りに住む人々にとっても、都市全体から見ても、目に見えない形で損害を与える事になる。

建築は、音楽や絵画と違って、『公共の芸術』だ。
自分一人で勝手に楽しむ為のものじゃない。
建築士はそうしたことを十分認識した上で設計を行わなければならないんだよ。

でも、お父さんみたいに『こだわりだらけ』の設計者は、ライン・トラストには不要だった。
自分の『個』を打ち出そうと思えば、当然、上部と対立するし、周囲からも浮き立つ。
『ライン・トラストに”芸術家”は要らん』と、面と向かって言われた事もあるよ。
賞をとった後も、『サラリーマン建築家』と罵られたし、『伯母の七光り』と中傷された事もある。

でも、お父さんは負けなかった。
とことん自分の理想と信念を貫いてきた。
『たった一人で始めた事でも、それが本当に意義の有る事なら、一人、また一人と後に続く者が現れる』
――ヴァルター・フォーゲルの言葉をいつも胸に繰り返しながらね」
「止めたいと思った事は?」
「一度も無いよ」

【 夜明け 】-Morning (Spring)- マックスフィールド・パリッシュ Maxfield Parrish

【 夜明け 】-Morning (Spring)- マックスフィールド・パリッシュ Maxfield Parrish

スティーブは、ようやく外観を現した建物の絵を見つめながら、
「“形”はどうやってお父さんの頭の中に生まれるの?」
「ある日、突然、結晶するんだよ」
「“結晶”?」
「そう……ニーズ、コンセプト、立地条件、周囲の景観、予算、工法……様々な材料を、頭の中の鍋釜にぶちこんで、想像力というサジでかき回しながら、朝夕かけてじっくり煮込む。
やがて材料がどろどろに融けあって、十二分に煮詰まったら、 しばらく火を止めて様子を見る。
そうして、真っ暗闇の中で、深く、静かに、息を潜めて待っていると、ある日、突然、浮かび上がるんだ。
霧のように散らばっていた光の粒が互いに引き合い、一つの光に結晶するように、くっきりと頭の中に形が浮かび上がるんだよ」

スティーブは冷やかしでなく、心から感嘆の声をもらした。
「いつからそんなことが?」
「子供の時から、音楽を聴いては、そのイメージを絵に描いていた。その延長だな」
「すごいね」
「お前も習いたければ、教えてやるよ」
「いらない」
スティーブは笑った。
「僕、美術は万年“C”なの、知ってるだろ」
「建築も音楽も同じだよ」
「……そうかな?」
「建築は、一つ一つ線を重ねて、形を成してゆく。音楽は、一つ一つ音を連ねて、巨大な潮流を作りだす。
どちらも真っ白な『無』の中から、『世界』を立ち上げ、構築する。元は一つだよ」

【アポロンとパエトーン】- Apollo and Phathon- Giovanni da san Giovanni

【アポロンとパエトーン】- Apollo and Phathon- Giovanni da san Giovanni

スティーブは再びデスクにうつ伏せると、第二楽章のメロディを口ずさみながら言った。
「ラフマニノフはこの曲を作る前、交響曲を批評家に酷評され、失意と絶望からひどい神経症に罹ってしまったんだよね」
「でも、ドクターの献身的な治療により、再び創作に向かった。そして不滅の名作、ピアノ協奏曲第二番が誕生したわけだ」
「人間って、そんなに強くなれるものなの?」
「そうだね。人間も強いけど、芸術に向かう気持ちはそれ以上かもしれない」
「“芸術に対する気持ち”?」
「そう。お前の“ピアノを弾かなかったら窒息する”という気持ちとはまた少し違うものだ。絶対的な美への憧れと崇拝、創造をもたらす霊的存在、あるいは霊的経験に対する驚きと敬虔さ、創造への飽くなき欲望と情熱、絶え間無い魂の希求と創造的活動……本物の芸術家は、自分の全存在命をかけて創造の極限に挑む。
そして、その至高の光をかいま見、栄光をつかむのは、ほんの一握だ」

スティーブは顔を上げ、まるで神託をうかがうように父の顔を見つめた。
「僕にも出来ると思う? ラフマニノフやベートーヴェンやリストが至高の光をかいま見、永久不滅の美を残したように、僕も同じ極所にたどり着けると思う?」
彼はペンを止め、息子の目を優しく見つめ返すと、
「お父さんにはお前の音楽の才能がどの程度かは解らない。
お前が本当に芸術として音楽を極めたいと望むなら、無理に止めはしないよ。
ただ、それは何よりも厳しく、険しい道であることを覚悟しなければならない。
できれば、お父さんはお前に、己の極限に挑むような生き方を選んで欲しくないがね」

【 オルフェウス 】-Orpheus-

【 オルフェウス 】-Orpheus-

スティーブは押し黙ると、
「だけど、僕は音楽無しには生きられない。たとえ極に辿り着けなくても、音楽に満たされて生きていたい」

「芸術は非情だよ」。彼は息子の手を取って言った。
「才能の無い者には容赦なく大鎌を振るい、光の片鱗にも触れさせない。彼が破滅しようが、血を流そうが、お構いなしだ。そして希求が激しければ激しいほど、振り落とされた時の絶望は地獄の淵より深い。狂気の中に一生を終えた人間を、お父さんはたくさん知ってる」
「それでも目指すと言ったら?」
「そうなる前に、安全な巣に逃がす」
彼は息子の目を見据えて言った。

スティーブは逃げるように目をそらすと、
「今度は三番をかけていい?」とリモコンのボタンを押した。
「この曲の為に破滅したピアニストを知ってる?」
「……知ってるよ」
「彼は不幸だったと思う?」
「家族は不幸だったろうね」
「でも彼は幸せだったと思うよ」

そう言うと、スティーブは彼の方に向き直り、その手元を覗き込むようにして、ディティールの現れた図面を見詰めた。 「これでやっと僕にもどんな“形”か解ったよ。正面はえらく荘厳で仰々しいね。まるでヴェルディのレクイエムみたいだ」
「それじゃ、落成式にはエントランスホールでヴェルディのレクイエムを大々的に流そう」
rn 彼が笑うと、スティーブは「しっ」と口に指を当て、
「僕の好きな第一楽章のカデンツアだ。……この悪魔的な響き。ほとばしるような力強さ。
いつか僕がこの曲に挑み、大舞台に立つ日が来たら、お父さんは前列左側の席で僕の指の動きを見ていて。
“己の極限”を突破した瞬間を、必ず見せてあげる」

息子の熱弁に、彼は穏やかに微笑むしかない。
「僕がピアノに向かうのは一種の狂気だ。この世を離れた心の作用が無意識にそうさせる。
お父さんの頭の中で光が“結晶”するのと同じだよ」
「……」
「『紙切れ一枚の縁』だけど、僕の中にもお父さんと同じものが存在する。お父さんがしてきたように、僕も『世界』を構築したい」

【 クリュティエ 】- Clytie - フレデリック・レイトン卿 Fredrick Lord Leighton

【 クリュティエ 】- Clytie - フレデリック・レイトン卿 Fredrick Lord Leighton

息子の十七歳の誕生日。
彼は、都内の高級ホテル「水晶宮(パレ・ド・クリスタル)」のレストランで、息子と二人、誕生日を祝った。
息子は本当に良い青年になった。どこに出しても恥ずかしくない、上品な人間になった。
以前は「野生の猿」さながらに、やんちゃで、利かん気で、本当に手を焼いたものだが、今では一端の「御曹司」らしい風格を備え、実に堂々たるものだ。
見るからにぎこちなかった正装も、今では人が見惚れるぐらいびしりと着こなす事ができるし、
マナーも言葉づかいも非の打ち所がない。その上、彼に代わって人前で挨拶を述べる事もできれば、客人を丁重にもてなすこともできる。
最初はあまり良い印象を持たなかった者も、今では手放しに息子の事を褒め、「養父」である彼の訓育と愛情を心から称えるほどだった。

教え込んだ通りの作法で、品良く食事を進める息子の姿を見ながら、もし自分の生きた芸術品が存在するとするなら、それはこの息子ではないかと彼は思った。
十四年前、この子を腕に抱いて家に連れて帰った時、この子はまだ彼のものではなく、彼もまたこの子の父親ではなかった。
非業の死を遂げたダンとイルゼの影に脅かされながら、ただおろおろと息子の後を追いかけていたに過ぎなかった。

だが、今では、父親として果たすべき事は人並みに果たしてきたのではないかという自負がある。
このまま嘘を貫き、自分の過ちを隠し通す事は、ダンとイルゼに対しても、息子に対しても、裏切り行為だというのは解っている。

だが、今さら真実を明かしたところで、誰が幸せになるというのだろう。
この絆が――家族の幸福が――「嘘」の上に成り立っているのなら、どうか壊れないで欲しい。
嘘を貫く事を許して欲しい――彼は、息子の顔に浮かび上がるダン・マイアーの面影に、そしていと高き所にいるイルゼの霊に心から詫びながら、じっと息子の顔を見つめるのだった。

【 聖イサクの犠牲 】-The Sacrifice of Issac- レンブラント・ファン・レイン Rembrandt Vin Rijn

【 聖イサクの犠牲 】-The Sacrifice of Issac- レンブラント・ファン・レイン Rembrandt Vin Rijn

「来年の事だがね――ウェクスフォードを卒業したら、やっぱり音楽院に進むつもりなのかい?」
スティーブは穿つような目で彼を見ると、
「当たり前だろ。解りきったことを聞くなよ」
「なあ――お前も来年は十八だ。十八になったら、この世界では一応“大人”とみなされる。今までみたいに、何でもお父さんと一緒、という訳にはいかなくなってくる。
音楽をやりたいというお前の気持ちは解るが、何度も言ってるように、お前は宗家の跡取りだ。いつまでも家の事は“知らぬ存ぜぬ”では通らない。
これからは、お父さんやルネに付いて、家の事を少しずつ覚えていってくれないか」
スティーブはちらと顔を上げると、「今だって、ちゃんとお父さんに協力してるじゃない」と、ふくれた。
「解ってるよ。お前はお父さんの代わりにちゃんと挨拶もできるし、客人の接待もできる。自分の務めはちゃんと果たしてると思ってるよ。
でも十八になったら立場も変わる。むろん人の見方もだ。
それなりに家の事が出来なかったら、今度はお前が笑われるんだぞ」
「……俺には向かないよ」
スティーブは吐き捨てるように言った。
「人には得手・不得手がある。俺ばかりにこだわらず、他を当たった方がよっぽど家や一門の為だと思うけど」
「やる前から何を言ってる」
「じゃあ、もし俺が家と一門を破産させたら、その時はどうなるの? どうせ皆で俺をこき下ろすんだろ。『ほら、見たことか』『得体の知れない養子なんぞ取るからだ』って、皆で後ろ指を指すんだろ」
「そうならないようにお父さんがちゃんと見てやる。一から十まで間違いの無い方法を教えてやる。だから何も心配しなくていい」
「――ばかばかしい」
「何がばかばかしいんだ」
スティーブはじっと彼の顔を見据えると、
「『エル(=至高者)』と呼ばれる父親をもつ息子の気持ちがお父さんに解る?」と聞いた。

【 バプテスマ(洗礼者)のヨハネ】-St.Jhon the Baptist- カラバッジョ Caravaggio

【 バプテスマ(洗礼者)のヨハネ】-St.Jhon the Baptist- カラバッジョ Caravaggio

彼が小さく首をかしげると、スティーブは投げるように溜め息をつき、
「俺は御免だ。――父さんのようにはなれない」
吐き捨てるように言った。
「別に“同じになれ”とは言ってないよ。お前はお前のやり方で、きちんと務めを果たしてくれればそれで良い。皆だって、それで十分認めてくれるはずだ」
「俺はこの一年、ローレル・インスティテュートの仕事を手伝ったり、父さんと一緒に社交場を回ったりしながら、いろいろ考えた。自分の事や、家の事や、父さんの事を――。
でも、どんなに考えても出来ないものは出来ないし、向かないものは向かない。俺は、父さんの生きてる“世界”とは相容れないんだよ。解るだろう?」
「お前はお前なりに、ちゃんとやってるじゃないか」
「それは父さんに恥をかかせたくないからさ」
「……」
「俺にだって誇りがあるからね。みすみす自分や父さんをおとしめるような事はしたくないから、父さんの言い付けに従ってきただけだよ。でもそれが限界だ。俺は自分の心に嘘はつけない」
「そう感じるのは、お前が“子供”だからだよ。……お父さんだって昔はそうだった。嘘やおべんちゃらの世界が嫌でたまらなかった。それでも、その中で生きてきた。それが自分の努めであり、宿命だったからだ」
すると、スティーブは露骨に顔を歪め、
「その『宿命』ってやつを、勝手にいじくったのはどこの誰さ? 俺が寝てる間に、俺の名前を変えたのはどこの誰だよ」
「またその話か!」

うんざりしたように彼がこぼすと、
「父さんには『またその話』でも、俺には一生の枷さ」。スティーブは刺すように言った。「『養子』にならなきゃ、俺はもっと別の人生を生きられたんだからな」。
「じゃあ聞こう。僕の『養子』にならなかったら、どんな人生があったというんだ。お前の望む『別の人生』とは何だ? 毎日ピアノを弾いて暮らすことか?」
見下すような言葉の響きにスティーブは頬を引きつらせたが、彼は淡々とナプキンをたたみ、
「人間、好きな事だけやって生きていけたら苦労はないさ。僕だって、叶うものなら一日中デザインの仕事をやってたいよ。だが人間それでは通らない。雑事もあればノルマもある。嫌な人間と顔を突き合わせるのも仕事のうちだ。 が、その中でいかに自分の生き方を打ち建てていくかだろう?
あれは嫌、これもしたくない――いつまでもそんな甘えが通ると思ったら大間違いだぞ」

【運命】ウィリアム・ウォーターハウス

【運命】ウィリアム・ウォーターハウス

「だったら価値観の相違だね。俺は父さんとは違う。
自分が納得できない事は、たとえそれが世間の常識であっても、俺には論外だ。
俺は自分が納得できる道をとことん探す。たとえ一生かかっても――だ」
彼は息子の顔を見据えると、
「お前は世の中のことなど何一つ解ってない」
すると息子は真っ向から見返し、
「父さんだって、俺のことなど何一つ解ってない」
彼は怒りを堪えながら溜め息をつくと、「いったい何が望みなんだ?」と、息子の顔を見据えた。

「ピアノか?」

「父さんは俺なんか大した器じゃないと思ってるだろ」
「――そんなことはないよ」
するとスティーブは口元を歪め、
「じゃあ、もし俺が音楽院に落ちて、ピアニストにもなれなくて、何一つ結果を得られなかったとしても、父さんは俺の好きにさせてくれる?俺の納得いくように生きさせてくれる?」
彼は眉をひそめ、「どういう意味だ」とつぶやいた。
「俺には生きたい生き方がある。たとえ誰に認めてもらえなくても、俺は全力をかけて自分の好きな道を行きたい」 「だからピアノは趣味として続ければ良いって言ってるじゃないか」
「そういう意味じゃなくて! ピアノに限った話じゃなくて!」
「????」
「俺はこのまま父さんと同じ道を行きたくないんだ。そりゃ父さんは立派だと思うし、尊敬もしてる。でも、このまま父さんの後を付いていっても、何の為にもならないような気がするんだよ」
「そんな事はやってみないと解らないじゃないか」
スティーブが口をへの字に曲げると、彼は優しく息子の顔を見つめ、
「お前が友達を見ていて、自分に焦りや迷いを感じる気持ちは解るよ。でもお前と友達では立場が違う。背負っているものもだ。
別にお前がお父さんと同じ道を歩いたって恥じゃない。お父さんの後を継ぐのも立派な自立だと思うけどね」
「そういう意味じゃなくて! 俺は人間としての生き方の問題を言ってるんだよ!」
彼が思わず笑いをこぼし、
「お前、いつからそういう高尚な問題に触れられるようになったんだ?」
と、からかい半分に言うと、スティーブはナイフをがんとテーブルに叩き付け、
「父さんは俺の気持ちなんか全然解ってない!」と叫んだ。
彼が面食らったように口をつぐむと、スティーブは上着の内ポケットから折りたたんだチラシを取り出し、彼に突きつけた。

【 忠誠 】-The Accolade- エドムンド・ブレア・レイトン Edmund Blair Leighton

【 忠誠 】-The Accolade- エドムンド・ブレア・レイトン Edmund Blair Leighton

「六月に、カレオールのコンサート・ホールで学生を対象にした新人音楽コンクールが開かれる。もし俺が最終予選に残り、上位に入賞したら、俺を認めて欲しい」
彼はチラシを受け取ると、折りたたんだままテーブルの上に置き、
「コンクールを賭けに使うのか?」
憮然と息子の顔を見た。
「“賭け”じゃない。挑戦だよ」
「コンクールに勝てば、“己の極限を突破できる”とでも思ってるのか?」彼が呆れたように笑うと、
「俺は必ず最終予選に残る。最終予選に残ったら、俺は『三番』を弾くつもりだ。もし俺がそれを見事に弾きこなせたら、俺を認めて欲しい」
「つまり、“お前の好きにさせろ”という事か?」
彼はチラシを突き返すと、「そんな賭けには応じられない」と答えた。
「どうして?」
「入賞しても、しなくても、お前が僕の『息子』である事に変わりはないからだ」
「だったら変えてみせるさ」
「どうやって?」
「コンクールを見に来てよ。前列左側の席で、俺の『三番』を聴いて欲しい。最終予選で、もし俺が父さんを感動させられなかったら、その時はあっさり敗けを認めるよ」
「自信が有るのか?」
「もちろん」
「……『三番』なんて、子供に弾きこなせる曲じゃない」
彼が鼻で笑うと、スティーブはナイフの切っ先を彼に向け、
「俺だっていつまでも『子供』じゃない。その気になったら、いつだって父さんを踏み越えてみせる」
彼は一瞬戦慄したが、グラスの酒を空けると、
「ぜひ、そうなってもらいたいものだな」
やっとそれだけ言った。

【 オデュッセウスに盃を差し出すキルケー】Circe Offering the Cup to Ulysses ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス Jhon William Waterhouse

【 オデュッセウスに盃を差し出すキルケー】Circe Offering the Cup to Ulysses ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス Jhon William Waterhouse

それから息子は憑かれたように「三番」に取り組み始めた。
それは凄まじいまでの意地であり、格闘だった。
そうしてふと窓の下を見た時、彼は芝生の上に仰向けになっている息子の姿を見つけた。
息子は頭の上に楽譜を広げ、両手を羽根のように伸ばし、目を閉じていた。一瞬、眠っているのかと思ったが、よく目を凝らしてみると、両の指が憑かれたように芝生の土を叩いている。
息子は無心に何かを口ずさみながら、十指を草の上に走らせ、彼にしか聞こえない音楽を全身全霊で追っていたのだった。まるで楽譜の中に深く入り込み、音符の一つ一つにこめられた秘密を探り出そうとするかのように……。

こうしていると、息子は霊界を自在に行き来する魔術師のようにも、得体の知れない怪物のようにも思えた。
彼には計り知れない魂の奥底に、あの子はあの子にしか感じ得ない音の泉をたたえていて、絶えず湧き出す激しい力に突き動かされて生きている。
その一種狂熱的な心の作用と、音楽への激しい希求は、造形を司る彼の霊泉にさえ無いものだ。
もし、息子が父を超えて何かを成す日が来るとしたら、その霊的な力が練達した技巧と完全に融合し、外的世界に向かって爆発した時ではないかと彼は思う。

【 海辺の若者 】-Young Man Beside the Sea- ヒポリット・フランドリン Hippolyte Flandrin

【 海辺の若者 】-Young Man Beside the Sea- ヒポリット・フランドリン Hippolyte Flandrin

息子の内部でわだかまり、激しく醗酵しているものは、まだ肝心なエッセンスを欠いていて、皮も果肉も一所くたの煮汁でしかない。攪拌されることも、濾過されることもなく、熱い樽の中でただぐつぐつと煮えくり返っているだけだ。
醸成するには『何か』が要るし、最上級の酒になるにはそれ以上の『何か』を注ぎ込まねばならない。
希求だけでは形に成らないのが芸術だ。
ただ闇雲に挑んでも、光は生まれない。
霊泉に生命を吹き込む『何か』――自分の内面世界から、外的世界に向かって『何か』が炸裂した時、初めて魂が形を成す。
人の胸に響くような、輝く創造が為せるのだ。

それでも息子は、自分の全存在をかけて、この大曲に立ち向かっている。至難を超克して、自分の音楽を作り出そうとしている。
それは絶対的孤独の中で繰り広げられる、自分との闘いだった。誰もこの闘いに力を貸すことはできない。
たとえ「エル」と呼ばれる父親であろうと――。

やがて息子は楽譜を抱えて一回転すると、楽譜を胸に載せたまま、両手を高く天にかざした。
そして二、三度、宙を叩くと、弧を描くようにゆっくりと地面に降ろした。それから両手で思い切り草をむしると、空高くばら撒き、大きな溜め息をついて、再び草の上で弾き始めたのである。

「――頑張れ」
我知らず、彼はつぶやいた。
(入賞しようが、しよまいが、見事に『三番』を弾きこなせ。そして僕との“賭け”に勝ってくれ)
rn彼はカーテンを閉めると、そっと窓から離れた。そして、サイドボードに飾られた父の形見のバイオリンと聖書を祈るように見つめると、思わず胸の上で十字を切ったのだった。

【 祈り 】-Inovocation- フレデリック・レイトン卿 Fredrick Lord Leighton

【 祈り 】-Inovocation- フレデリック・レイトン卿 Fredrick Lord Leighton

レイアが紅茶とクッキーを持ってピアノ室のドアを開けると、ピアノの前にスティーブの姿は無く、開け放たれた窓から強い風が吹き込んでいた。トレイをキャビネットに置き、窓を閉めて部屋を見渡すと、我が家の名ピアニストは部屋の隅のソファにぐったりと横たわっていた。
側に寄ってみると、スティーブは張り詰めた糸が切れたように深く寝入っている。
(この子は、父親に叱られて居間のソファにうずくまって泣いていた頃と少しも変わっていない。ただ、泣いて自分を訴える代わりに、がむしゃらにピアノを弾いているだけなんだわ)

レイアは傍らにあったジャケットを彼の身体に掛けると、静かに側を離れ、ピアノの方に歩み寄った。
譜面台には、『ラフマニノフ ピアノ協奏曲第三番』と標記された楽譜が立てかけられている。
ぱらぱらと楽譜をめくると、目のまうような音符の波と、譜面を埋め尽くす書き込みが目に飛び込んできた。
本格的にピアノを習った事のないレイアにも、楽譜を見るだけで、この曲の難度が十分計り知れる。
それは十指で弾きこなせるものではない。十指の動きを超えて初めて可能になるものだった。
レイアは彼の寝顔を見ながら、己の極限に挑む激しい気迫と、父親に対する凄まじいまでの意地を思った。

ピアニストが一つの曲に向かう事は、一種の霊媒に似ている。
音符を通じて、彼は創造主である「神」 ――すなわち作曲者の全霊に触れ、その霊を己の内側に宿らせる。
そして、自身の魂とその霊を融合させて一体の音楽と成し、 十本の指から紡ぎ出すのだ。

音楽を奏でている間、大抵のピアニストは我を離れ、完全なトランス状態にある。魂からあふれ出る音楽だけが彼の耳に響き、無意識に指を動かす。
作曲者の霊を己に同化し、「自分の音楽」を作り出そうと思えば、ピアニストはその曲の中に深く入り込み、自身をその世界に完全に融合せねばならない。
それは交霊であり、忘我であり、神託といえよう。

技巧の練達にそうした霊的作用が加わって初めて、ピアニストはその曲を我が物とし、「自分の音楽」を奏でる事ができるのである。
そして曲へのアプローチが深ければ深いほど、心もまた作曲者の霊とより深く交わる。
時には我を失うほど、強く、激しく、その霊的世界に飲み込まれてしまう。
『三番』に取り組んでから、この子の勘がますます研ぎ澄まされ、周りにも、自分自身にも過敏になり始めたのも、やむを得ないことかもしれない。
ただ家族にしてみれば、心の平衡を失ってまで、深く入り込まないで欲しいというのが切なる願いだったが――。

【 プシュケ(霊魂)】-Psyche- アーネスト・リー・メイジャー Earnest Lee Major

【 プシュケ(霊魂)】-Psyche- アーネスト・リー・メイジャー Earnest Lee Major

レイアは椅子に腰掛けると、びっしり書き込みがされた譜面を見ながら、何がこの子をここまで駆り立てているのだろうと思った。
入賞したいなら、なにもこんな難曲に挑まず、自分の技量に合った曲を選べば良い。父親に一端の所を見せたいなら尚のこと、得意な曲で舞台に上がれば良いのだ。
たとえ上位入賞を果たしたところで、父親の意思が変わらぬ事は、この子が一番良く知っているはずなのに……。

とその時、楽譜の隙間から一枚の絵がこぼれ落ちた。
レイアは、はっと胸をつかれた。
rnそれはT・フィンチの描いた『ライオス王を討つエディプス』だったのである。
横倒しの戦車、振り上げられる棍棒、恐怖に蒼ざめるライオス王――『この人はどうして殺されるの?』――かつて、無邪気に聞いた幼いあの子の笑顔が、レイアの脳裏を過ぎる。
レイアは震えながら絵を楽譜に直すと、ソファで寝息を立てる息子の顔を見ながらつぶやいた。
(あなたは知らないの? ライオス王を討ったエディプスの末路を。実の父親を殺した息子は、自分の罪を知った後、両目をくり抜いて死ぬまで荒野をさ迷うのよ) …〈中略〉…

【 スフィンクスとオイディプス】-Sphinx and Oedipus- ギュスターヴ・モロー Gustave Moreau

【 スフィンクスとオイディプス】-Sphinx and Oedipus- ギュスターヴ・モロー Gustave Moreau

「父さんはまだ御冠?」
「そんな事ないわよ。いつも、あなたの事を気に掛けてらっしゃるわ」
「でも、居間のピアノに鍵を掛けやがった」
彼が吐き捨てるように言うと、レイアは厳しい目を向け、
「あなたも悪いわよ。いくら気に入らないからって、あそこまでひどい仕打ちをする事はないでしょう」
「……」
「お父様はね、あなたが一番大事なの。いつだって、あなたの幸せを一番に考えてらっしゃるのよ」
「その『一番』が曲者なんだよ」
彼は声を荒げた。

「俺はね、父さんが憎いわけでも、嫌いなわけでもない。理屈抜きに、その存在が重荷なんだ。解るだろ?」
同意を求めるように彼女に迫ったが、レイアは彼の幼い瞳をじっと見つめると、
「あなた、何を恐れてるの? まるで逃げ惑う小鳥みたいに」
「……別に恐れちゃいないよ」
「いいえ、恐れてるわ。あなたは全てを恐れてる。現実と向き合う事も、あの人と向き合う事も」
彼が口をつぐんで、目を伏せると、
「父親と比べられるのが、そんなに恐い?」
レイアは彼の顔を覗き込むようにして言った。
「あの人を前にしたら、どんな人間もたじたじとなるわね。顔良し、頭良し、家柄良し、何もかも揃った完璧な人――。
世間では『天才』と呼ばれ、誰もがその才を認める有名建築家――『エル』の名を持つ、至高の存在ですものね」
彼が何か言いかけると、レイアは厳しい眼でそれを制し、
「だからといって自分を卑下したり、意地を張ることは無いんじゃないの。あなたはあなたで、堂々と胸を張って生きればいい。誰に何を言われようと、自分を貫けばいい。人目を恐れるのは、結局、自分に自信が無いからよ。――違う?」

【 翼ある人 】-Winged Figure- Abbot H.Thayer

【 翼ある人 】-Winged Figure- Abbot H.Thayer

「あなたが本当に強いのは、ピアノを弾いてる間だけ――それだって、子供が意地張って、大人にわあわあ突っかかるのと変わらない。あなたはあなたなりに頑張ってきたかもしれないけれど、まだ“本物”じゃないの。だから破綻するのよ。すぐに心がぐらついて、荒れたり、いじけたりしてしまうんだわ」
彼は落ち着かぬように視線を廻らせ、固く口をつぐんでいたが、ふと上を向くと、
「俺だってね、父さんみたいになりたかったよ。頭が良くて、何でも出来て、誰からも仰ぎ見られるような人間になりたかった。本当だよ」
「『同じ』になる事はないわ。あなたは“あなた”で良いのよ」
「でも、皆は『同じ』である事を求めてる」
「皆がどう思おうと、あなたは“あなた”で良いのじゃなくて。そんなに人目ばかり気にしてどうするの? 言いたい人には、言わせておけばいいじゃない。お父様だって、そうやって口さがない世間と闘ってこられたのよ」
レイアがぴしゃりと言うと、彼は幼子みたいに押し黙り、目をしばたいた。
「あなたも苦しんだでしょうけど、あの人も同じくらい、あるいはそれ以上に苦しんできたの。それでも逃げずに自分を貫いてきたわ。あなたに『嘘つき』と詰られようと、必死で家と家族を守ってきたんじゃないの。
今だって、あの人の心の中はあなたの事でいっぱいよ。あなたには押し付けがましく感じられるかもしれないけれど、 あの人ほどあなたの事を大切に思ってる人間は無いわ。その気持ちは解ってあげなきゃ」

「俺の前にはいつだって“あいつ”がいる。いつも目の前に壁みたいに立ちはだかって、俺に強い影を投げかける。俺が影から抜け出して、“自分”を掴もうと思ったら、壁を崩すか、飛び越えるしかないんだよ。
“あいつ”がどうしようもない悪人だったら、俺も容赦なく突き崩すのに、“あいつ”は悪人じゃない。俺にはとても突き崩せない。
――結局、飛び越えるしかないんだよ。でも、どうやって?
思い付いた事といえば、『三番』を弾く事ぐらいだった。
あれを一端に弾きこなし、あいつの度肝を抜く事ができたら、何となく“勝てる”ような気がしたんだよ。
もちろん、そんな事をしたって、何一つ適わないのは解ってる。
でも『何か』したかった。これと言える『何か』――自分にしか出来ない『何か』が。
そんな『何か』が手に掴めたら、もう惑うことも、焦ることも無い。
何ものにも脅かされることなく、自分の生き方ができるような気がするんだよ……」

【 アダムの創造 】-The Creation of Man- ミケランジェロ Michelangelo

【 アダムの創造 】-The Creation of Man- ミケランジェロ Michelangelo

一人、また一人と審査は順調に進み、ついに息子の名が呼ばれた。
演目が紹介されると、一瞬、会場はどよめき、おぼつかない拍手がぱらぱらと鳴った。
それもそうだろう。
学生対象の新人音楽コンクールで、ラフマニノフの『三番』を選ぶ物好きはまずいない。
しかも音楽学校の生徒でもない十七歳の若者が『三番』に挑むなど、無謀としか言い様が無いからだ。

それでも息子は不思議なくらい落ち着いた顔でステージに現れた。
そして、ピアノの前で深々と一礼すると、ゆっくり顔を上げながら前列左側の席を見やった。

彼の姿を認めると、息子は安心したように頬を緩め、彼は祈りを込めて微笑みを返した。
息子は堂々たる態度でピアノに向かうと、深く息を吸い込み、目を閉じた。
そして、胸の中で何か唱えると、意を決したように指揮者の顔を見上げた。
指揮者がタクトを上げると、オーケストラが一斉に楽器を構え、息子も静かに鍵盤に両手を乗せた。

第一楽章が始まった。
豊かな弦の上を、息子の奏でる第一主題がたっぷりとした響きをもって流れる。
スケールもアルペジオも完璧だ。ピアノも良く鳴っている。
すでに深い音の世界に入った息子の指先は、まるで羽根が生えたように鍵盤の上を駆けていた。
あの叩きつけるような激しさも、今はない。
広がる弦の響きに、ダイヤのようなピアノの音色を融合させ、情熱と哀感に満ちたラフマニノフの世界を無心に作り出している。まるで自分の心の壁を打ち破り、別の何かに生まれ変わろうとするかのように。

第二楽章は哀感に満ちた弦の音から始まり、木管が柔らかにそれに追従する。
広大なロシアの夕暮れを思わすアダージョをオーケストラが奏でると、やがてその豊かな音量を支配するようにピアノ・パートが現れ、 主題を受け継いだ。
ここは、ともすれば派手になりがちな技巧を上手く抑え、豊かな情感を表現せねばならない。
表現が大袈裟になれば仰々しくなるし、かといって抑制し過ぎれば音が渇き、印象が薄れてしまう。
技巧に振り回されず、かつ感情に飲まれない様、ラフマニノフ特有の哀感を醸し出さねばならない難しい所だ。

それでも無心にピアノに向かい、ラフマニノフの世界を演じる息子の姿を見るうち、彼は、あのひねた利かん坊がいつの間にこんな影と深みのある大人の情感を奏でられるようになったのかと、しみじみ思わずにいなかった。
その音色には、精一杯背伸びして「大人の男」になろうとする息子の希求と憧れが、可愛いくらいあふれていた。

彼はふと、レイアのスカートにまとわりついていた息子の姿を思い出し、頬を緩めた。
息子がどんな想いでレイアを見てきたか、彼は知っている。子供の頃、ラブレターまがいの手紙を書いて渡した事も、思春期に、彼女を想う気持ちから家に居られなくなった事も、「取っちゃおうかな」という冗談が半分本気である事も――。
息子にとってレイアは「求めても得られない永遠の女性」だった。息子ともめた時、「父親」である彼の存在を、息子の中で一等複雑なものにしているのは、レイアではないかと思うこともしばしばである。

【 プシュケ 】-Pshyche- フレデリック・レイトン卿  Frederick Lord Leighton

【 プシュケ 】-Pshyche- フレデリック・レイトン卿 Frederick Lord Leighton

やがて情熱的なピアノ・ソロが第二楽章を締めくくり、最終楽章に飛び込むと、彼は椅子に深く座り直し、息子の姿を見つめた。
その手も額も汗だくだ。鍵盤を叩くたびに、玉のような汗が飛び散る。
今にもはちきれそうな心の高ぶりが、激しい息遣いとなって、全身を揺さぶっている。
ピアノとオーケストレーションの醸し出す、華麗で情熱的な響きがホールいっぱいにこだまする中、彼は「頑張れ」と胸に叫びながら、息子を一心に見つめた。

音楽に全身全霊を委ね、持てる技巧の全てを駆使して、クライマックスへと向かってゆく息子の姿は、実に雄々しく、鮮烈だった。
そこにすねた少年の影は微塵も無く、まるで羽根の生え変わった雄鳥のような力強さが満ち満ちていた。
歓喜と希望に満ちた最後の旋律が流れ、息子のピアノが壮麗に締めくくると、彼は真っ先に拍手を送り、「良くやった、良くやったぞ」と胸の中で繰り返した。

息子はよろけるように立ち上がると、ピアノをつたって前に進み、深々と一礼した。
嵐のような拍手と歓声の中で、息子は誇らしげな笑みを浮かべると、もう一度一礼し、指揮者と握手を交わした。
汗とも涙ともつかぬものが息子の頬を濡らしていたが、彼と目が合うと、息子は頬を拭い、満面を輝かせた。
彼はもう一度心から拍手を送ると、二人にだけ聞こえる声で「良くやったぞ」と伝えたのだった。

そうして息子が舞台袖に下がると、彼は感極まって、隣の老婦人の手をレイアと勘違いしてぎゅっと握り締めた。
老婦人は眉をひそめて何か言いかけたが、彼が誰だか分かると、感激したようにその手を引き寄せ、皺だらけの手に包み込んだ。
それでも彼が顔を上気させ、「素晴らしい演奏だった」と声を弾ませると、老婦人もにこやかに頷き、 「ミスも目立ったけれど、良い演奏でしたね」と答えた。
「あれは僕の息子なんです」
彼が顔を輝かせると、老婦人は冗談みたいに聞き流し、うんうんと頷いた。それでも彼は何度も何度も、「あれは僕の息子なんです……僕の息子なんです……」と声を潤ませたのだった。

 The Dance  ウィリアム・アドルフ・ブーグロー William-Adolphe Bouguerea

The Dance  ウィリアム・アドルフ・ブーグロー William-Adolphe Bouguerea

……from My Private Edition ’97

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