私の小学校高学年時の担任は、いわゆる「アカ」だった。
社会科の時間に、南京虐殺やアパルトヘイト、有事立法などの話をするので、一部の父兄からは猛反発を食らっていた。
が、子供心に、あの先生は全共闘だの、組合員だの言われても、何のことだか分からない。
私の目には、ただ、他の大人が教えてくれないような事を教えてくれる、教育熱心な先生としか映らなかった。
そんな先生が、私たち生徒におっしゃったことは、
「世界には、資本主義と共産主義という二つの考え方があって、先生は共産主義を支持しています。でも、その正義を、君たちに押しつけるつもりはありません。資本主義が正しいか、共産主義が正しいかは、君たちが大人になった時、君たち自身で判断して下さい」
一九八九年、ベルリンの壁が崩壊した時、私は真っ先に先生の顔を思い浮かべた。
「先生の信じた正義が終わったよ」と。
東欧諸国が次々と共産主義に幕を閉じる中、十年前、「ソビエトは理想的な国です」と、研修先のタシケントという町から、絵はがきに書いて寄越した先生の言葉が、今さらのように思い出された。
そして今、私は旧共産圏のポーランドに暮らしている。その貧しさを見る限り、ソ連がポーランドに押しつけた共産主義は、先生が信じたような、「社会や人間を幸福にするシステム」には決して思えない。
かつて世界の救世主であったレーニンは、今では西側資本の大型量販店のマスコットキャラクターに採用され、赤い看板の中で、価格革命を叫んでいる。
「金を使え、商品を買おう」と。
まさか一世紀もたたぬうちに価値観がひっくり返り、あれほど批判した資本主義のコマーシャルに使われようとは、当のレーニンも夢にも思わなかっただろう。
資本主義と共産主義、どちらが正しいかの問題ではなく、「食えるか食えない」か、多くの人にはそっちの方がうんと重要なのだ。
食えない思想で腹を肥やすのは、圧制する側だけである。
今時、小学校の教諭がアカい看板を掲げて、生徒に南京虐殺や有事立法の話をしようものなら、PTAだけの問題では済まされない。下手すれば、全国区のニュースになり、教諭は否応なしに辞表を書かねばならないだろう。
だが、教諭の思想の是非はともかく、世の中にはこれだけの主義主張があり、判断の難しい史実がごまんとある、という事を、小学生の頃から認識することは決して悪いことではない。
私も、小学生の時分に、「資本主義と共産主義、どちらが人を幸福にするか」というテーゼを投げかけられたからこそ、社会のニュースに関心をもち、教養の一つとしてマルクスやニーチェに親しむことができたのである。
先生は、「僕の正義を押しつけるつもりはない」の言葉通り、日本政府がどうとか、社会のシステムがどうとかいう批判は一切されず、「この事について、どう思いますか」という討論重視の授業をされた。
「社会学は、暗記する為にあるんじゃない。考えるために学ぶんだ」と。
教室の外で父兄とどんな悶着があったかは知らないが、私にとっては非常に意義深い授業だった。父兄の圧力に屈せず、よくあれだけ、社会のいろんな出来事についてお話しして下さったものだと、今も感謝せずにいない。
もし、あの時、「一九四一年に太平洋戦争が始まりました」「第九条は平和憲法と言われています」といった史実しか教えられなかったら、私はただ暗記が得意なだけの、頭で考えない人間になっていたような気がする
あれから十五年。不思議な縁で、私は旧共産圏のポーランドに暮らすことになった。
ソビエト共産主義が残した無機質な建物や、立ち後れた経済、日本とは比べものにならないほどお粗末な医療福祉の実体を間近に体験しながら、今、私は、先生が教室でおっしゃったことを反芻せずにいない。
「資本主義が正しいか、共産主義が正しいかは、君たちが大人になった時、君たち自身で判断して下さい」
もし先生と話す機会があれば、こう伝えたい。少なくとも、ポーランドにとって、それは悲劇だったよ、と。
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