収容所に送られた囚人達は、「東欧に移住させられるだけ」と信じていました。
信じていたからこそ、鞄に住所を書き、家族にとって大切な最低限度の荷物(衣類や歯ブラシ、写真など)を詰めて、ナチス・ドイツの命令に従ったのです。
囚人達は収容所に到着すると、持ち物を没収され、髪を切られ、全裸にされて、消毒のためシャワーを浴びせられました。
そして、身体に囚人番号を入れ墨され、罪状を示すワッペン(収容されたユダヤ人らの大半は政治犯という名目でした)が取り付けられた、不潔な縞模様の囚人服を与えられたのです。
ドイツが敗戦し、ソ連軍がようやくこの収容所を開放した時、兵士達は、痩せ衰えた囚人達の姿と、某所に積み上げられた囚人達の持ち物に絶句したと言います。
ナチス・ドイツ軍は、撤退する際、証拠隠滅を計ったのですが、ソ連軍の到着が余りに早かったため、幾つかは手つかずのまま放置されたのでした。
ビルケナウ強制収容所の内部です。
囚人たちは、こんな所に押し込められるようにして収容されていたのです。
ポーランドの冬の気温は、時にマイナス20度近くにもなります。
毛布もなく、コートもなく、ろくに食事も与えられない中で、囚人たちは毎日強制労働に従事させられました。
人々は、20~30㎏にまで痩せ細り、次々に衰弱死、あるいは病死していったといいます。
収容所で切り取られた女性達の髪です。
ナチス・ドイツは、これらの髪を使って、カーテンや敷物、衣類などを製造していました。
女性もまた男性と同じように強制労働に駆り出されていましたが、働けない年寄りや子供、妊婦などは、即、ガス室送りだったといいます。
また、スラブ民族根絶のための医学実験や遺伝子研究のための道具として、酷い苦痛を与えられた女性もありました。
前方に垂れ下がっているのは、三つ編みのまま切り取られた女性の髪です。
彼女らの泣き叫ぶ声がここまで聞こえてきそうです。
世界歴史遺産にも認定されたアウシュビッツ収容所博物館。
今なお世界中からたくさんの見学者が訪れ、その凄惨な史実に打ちのめされています。
ポーランド名は、『Oswiecim オシフィエンチム』。
クラクフから車で二時間ほどの郊外にあります。
かつては小さな田舎町だったオシフィエンチムに収容所が建てられたのは、1940年。当初は、ポーランドの政治犯を収容するために作られました。しかし、ナチス・ドイツ軍がユダヤ人絶滅計画を打ち出し、徹底的な排除、虐殺に乗り出してからは、死のみが待ち受ける恐怖の象徴となり、百数十万もの人々が強制労働や栄養失調、殺人ガス、医療実験などにより命を奪われました。
ナチスによる大量虐殺の最も巨大なセンターはオシフィエンチム・ブジェンカ(アウシュビッツ・ビルケナウ)に作られた収容所である。
ここではヨーロッパ全土から連行された約400万人が殺されている。オシフィエンチムでは、さまざまな政治的思想家や宗教聖職者の人々が死に、レジスタンスたち、強制移住させられた町や村の人々が死に、ソビエト人の捕虜や一般市民、さらにユダヤ人、ジプシー、そして男女、子供たちと、24カ国の人々が死んだ。
41年、ゲットー内の出来事を「日記」に残したリンゲルブルムは
「死が街のいたるところにある。子供達ももはや死をこわがらない」と記している。
「路頭の死は大量現象化してきた」。
街路には、いたるところ死体がころがり、通行人は死体を跨いで、歩かねばならなかった。
「死はもはや、何の印象も与えなくなった」。
こうして死の無関心が始まった。
強制収容所での死への無関心の原点は、こうして、ゲットーの路上から始まっていた。
それどころか、死は生き残った者の「素材」でさえあった。
ガス室の模型です。
収容所内に幾つかあったガス室では、毎日、300~400人もの人々が、『チクロンB』という化学物質を使った毒ガスで殺害されていました。焼却炉の煙突からは、絶え間なく煙が吹き出していたそうです。
人々は、「シャワーを浴びる」と信じて、地下への階段を降り、前方の部屋で全裸になって、ガス室へと入っていきました。毒ガスが吹き付けられると、ほとんどの人が15~20分以内に窒息死したそうです。室内の人間が全滅すると、軍はすぐに遺体を掻き出し、焼却炉で焼きました。
写真には、ガス室とそれに続く焼却炉が映っています。
左側には、地下に降りる階段と、人々を全裸にした控え室があります。
ここで何人もの囚人が見せしめの為に吊された。
抵抗した者、体が弱って働けなくなった者、グループから脱走者を出した者など、
彼らは何日でも晒し者にされ、埋められたり、焼かれたりしたという。
ソ連軍による解放後、この絞首刑台で、ドイツ人将校らが同じようにハンギングされている。
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